第157話 約定

此度の度重なる境の侵犯に対応するため、アース神族は条約を事細やかに決めることにした。


ヘルヘイムとの条約、死者の蘇りについて。

ヘルヘイムの門をくぐるのは死者だけ、死者は皆門をくぐり、門をくぐった者は皆死者である。

女神に許可されない蘇りは行われない、何人たりとも女神に許可を強制することはできない。

そして女神がヘルヘイムから出ることは許可されない、蘇った者は再び自然に死ぬまで女神は手を出せない。


これまで蘇りの条件は''門をくぐる''という単純なものが一つだけであった。

ここに新しく''女神の許可''を追加したのだ、これに反対する神は一人もない。

自分が死んだ時のことなど想定もしないからだ、他者が死んだ時? 「そんなもん知ったこっちゃない」のだと。



そしてその決まりが施行される日、昼間のこと。

ヘルヘイムの門の前には数人のアース神族が集まっていた。

女神に別れを告げる者、好奇心旺盛な野次馬、分けるとしたらこの二通りだ。


『……じゃあな、ヘル』


青年は前者、女神が娘でなかったのなら間違いなく後者だ。


『さようならお父様、これで本当にヘルは一人なのね』


『亡者なら大量にいるだろうよ』


『あの人達、ヘルの相手をしてくれないもの。だから……だからお兄ちゃんは、絶対に欲しかったのに』


『……ま、仕方ねぇわな』


半分腐り落ちた体の可愛らしい女の子、彼女がヘルヘイムの主──女神ヘル。


『でも、お兄ちゃん約束してくれたもの。次に死んだらお今度こそ兄ちゃんはヘルのものになるの』


『そうか』


『お兄ちゃん、無理矢理こっちに来させたらヘルのこと嫌いになるって言ったの、だから今回は見逃してあげたの』


『そうか、偉いな。』


『お兄ちゃんには好かれたいもの。今度お兄ちゃんが来たら、お兄ちゃんはヘルのこと好きって言ってくれるかな』


『きっと言うだろうよ』


『そっかなぁ。えへへ……楽しみ』


『全く……父親としちゃあ複雑だぜ』


ユグドラシルの結界から出てしまえば、もう一度死んだとしてもヘルヘイムに来ることはない。

ロキはそれを娘に伝えず、そっと頭を撫でた。

早く会えるといいな、なんて無知を装って。


『お父様も早く来てね』


『ははっ、勘弁してくれ』


父親に向かって「死ね」なんて。教育を間違えたなと小さく笑って、次に産まれてすぐに捨てたんだったと大口を開けて笑った。

閉じていく門を見つめるロキの横顔は、彼と分からない程に真面目で切ないものだった。




視界を埋め尽くす茶色い壁……ではなく木の幹。

僕はユグドラシルと呼ばれる巨大な木の前に立っていた、この木の結界を抜けて元の世界に戻るために。


『座標は設定出来ねぇから変なとこに出されるかもな、火口とかじゃねぇことを祈りな』


「海もやだなぁ」


『表面積的には海になる確率は中々のもんだぜ?』


「……出た途端に死にそう」


例え危険ではない地上に出られたとしても、そこは誰かの敷地内だろう。

家の中かもしれないし、王の椅子かもしれない。

不法入国不法滞在に待ったナシだ。


『っし、じゃあ開くぜ』


「え、ま、待って! まだ心の準備が……』


まごついた僕はロキに蹴り飛ばされ、ユグドラシルの結界から追い出された。

アルが即座に後を追う、ロキを睨みながら。

結界の外に出たのを確認したロキは、背後に佇む男に振り返らずに話しかけた。


『よぉトール、見送りにゃ遅せぇしそんなガラじゃなぇよな、何の用だ? そんな重装備で』


騎士の正装のような白と金の服、似合わない鉄の手袋にハンマー、散歩なんて言い訳は使えない。


『俺も出せ』


『俺は別にいいけどよ、何でまた』


『……会いたい奴がいる』


『ふぅん? 珍しい、面白そうだから着いてく……って言いたいとこだけど、俺様は俺様でやることあんだよな』


『最初から一人で行くつもりだ』


『大丈夫かよ、お前ばかなんだぞ? 一人で大丈夫とは思えねぇぜ。俺様心配』


心の片隅にもないであろう不安をおどけて伝える、トールは珍しく罵倒に応えない。

ロキの横をすり抜け結界の切れ目に体を滑り込ませると、数秒で彼の痕跡は消えた。


『……んだよ、つまんねぇな』


どんなに稚拙な悪口にも全力で反抗するトールは良い遊び相手だった。

たった今の無視とこれからの遊び相手の欠如は、ロキの退屈を増長させた。


別の遊び相手を探すために、トールにかける気だった悪戯の餌食を探すために、ロキはユグドラシルの幹を背に歩いていく。

特別な靴のおかげか、ロキの体は少しだけ宙に浮いていた。

しっかりと虚空を踏みしめ、退屈そうに極彩色の空を見上げた。


昼前に止んだ雨のようなじっとりとした不快感がロキの心を埋めていた。

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