第145話 巨鳥に巨狼


ロキの家の裏で、魔物は不機嫌に尾を振るっていた。

不機嫌の原因は弟──そもそも彼の機嫌を左右するのは弟だけであるのだが──とにかく弟の言動が彼の機嫌を損ねていた。


『よ、暇? フェンリルと遊んでくんない?』


拒否の言葉に熨斗つけて返したい気分だったが、生憎と魔物と化した彼には人の言葉は操れない。


『ってーのは冗談で、ちょっと試したいことがありましてねオクサン』


ロキのふざけた話し方は魔物を苛立たせ、ロキはそれを楽しんでいた。

これまで多々起こった問題からヘルを救うような行動を取ってきたが、ロキは人間が言うところの''善良''な神ではない。

自らの快楽のためだけに人をからかい、陥れる。それこそが本質。


『お前さ、変身術とか効かないワケ? さっきから何回かかけてんだけど全く効かねぇの。

防御系の魔法かけてんなら解いてくんねぇかな。一通り遊んだ後なら人に戻してやってもいいぜ?』


魔物は顎を上げ、威圧的にロキを見下す。


『あっそ、効かねぇのかどうなのか知んねぇけど、人の姿に戻る気はねぇってか』


親切で言ってやったのに……なんて、心にもないことを言いたげな目を魔物に向ける。

人としての体が溶け落ち、魔物となった時点で全ての魔法は解けていた。

身体中に彫った刺青が消えてしまったからだ、残ったのは瞳の魔法陣ただ一つ──いや、二つか。

だから変身術が効かないのは魔物としての特性──つまり、あの黒い男の妨害である。

簡単に人に戻されてはたまらない、つまらない、そういうことだ。


だが人に戻る方法がない訳でも無い、いや、時間が経てば戻ると言った方が正しい。

身も心も魔物として完全に変質し、人を喰らうことにも躊躇がなくなる頃。

体を作り替えることが出来るようになる、口を広げるも目を増やすも、何でもアリ。

誰しも元の姿に戻りたがる、人の姿を求めてしまう。

だが、人肉以外からのエネルギー摂取は不可能という呪がかけられている以上、元通りの生活は叶わない。

人の姿に戻れば罪悪感も躊躇いも出戻るだろう、だが人を喰わなければ生きてはいけない。

その葛藤こそが狙いだ。


そして今、魔物は飢えている。

クダンモドキの肉など味が似ているだけの紛い物、腹の足しにもならない。

本来ならば人喰いの性質などなかったのだが、付け足された呪はいかに優れた魔法使いといえど解けはしない。


『んー、どうするかな。久しぶりにトールに悪戯仕掛けて……いや、やっぱフレイあたりに……ん?』


ロキが次の犠牲者を吟味しているまさにその時、この世界を覆っていた結界が割れた。

光り輝く実体のない破片が降り注ぐ、パステルカラーの空が消えて真っ黒な空が現れる。

結界にあいた大穴、そこから覗く巨大な鳥。


『白い……鳥、ジズか!』


空を統べる鳥、三頭一対の魔物の一頭。

ユグドラシルに連なる世界を覆う結界には『黒』が開けた小さな穴があった。

巨鳥はその穴を目ざとく見つけ、爪を刺し嘴をねじ込み、結界を破った。


完全にその巨体をアスガルドの中に入れた鳥は、翼を振るって羽根を落とす。

羽根は一つでも人の大きさを優に超え、また強い魔力を持っていた。

つまり、人間の国ならば羽ばたくだけで滅ぼせるということ。


『あーっ、俺の家が! 新築だったのに!』


神ならば触れたとしても死にはしない、建造物は壊れるようだが。

ロキは目の前で崩れ去った自宅のショックで、あることを忘れていた。

そう、ヘルとアルが中にいるということを。


魔物が弟の安否を気にしていたのか、していなかったのかは定かではない。

どちらにせよ行動には現れなかった。

魔物は降り注ぐ羽根の間をすり抜け、鳥の眼前を横切る。

鳥がそれに反応するよりも早く、穴から外へ抜けた。

そう、アスガルドを去ったのだ。


理由はただ一つ。

食事だ。


『あの野郎逃げやがった! あぁ、もういい、フェンリル!』


魔物が鳥を見て逃げたと勘違いしたロキは、ヤケになって息子の鎖を解く。

鎖の取れた首輪を掴み、ロキは狼の背に乗った。

跨るのではなくしがみつくように、騎手ではなく蚤のように。


『よーし、いい子だフェンリル、よーく聞けよ。

あの鳥、喰っていいぞ。あの鳥だけだからな? いいな? よし、行け!』


ロキの声が聞こえていたのか、いや聞こえていたとしても言う通りにはしないだろう。

狼はその巨大な口を開き、鳥を目指す。

空を飛ぶ鳥と地を走る狼、普通なら鳥が喰われるはずもない。

普通なら、だ。


雲に届かんと開かれた大口は鳥の翼を挟み込み、骨ごと喰いちぎった。

肉のない部分を喰ってしまった狼は不機嫌に首を振り、口の周りに貼り付いた羽根を散らした。

片翼を失い地に落ちた鳥は、残った翼を広げ口を開け必死の威嚇を繰り出した。


『どーどーどー、落ち着け、落ち着けよフェンリル』


なだめ方が間違っているのはわざとだろう、ロキは狼の背を叩き──といっても毛をふわふわと上下させるだけに終わるのだが──とにかく叩いて命令を通そうと奮闘した。


『いいか? 喰っていいのはあの鳥だけだからな!』


額の毛を掴み、鼻先まで足を伸ばして狼の眼前に。

狼は目の前で揺れるロキにある欲求を刺激された。

狼に存在する欲はほぼ一つだ。

そう、食欲。


『聞いてんのか! って、え、おいちょっ、まっ、まて!』


激しく顔を振ってロキを落とす、落下場所は狼の口だ。

喉の奥まで転がり込んだ実の親を丸呑みし、狼はさらなる餌を要求して吠えた。

次の目標は鳥だ。

必死の威嚇は痛々しく、効果は皆無。

そこまでの知能があるはずもないのに、狼は焦らすようにゆっくりと歩く。

口の端を歪めて食欲に支配される。


眼前に迫った狼に隠しきれない恐怖を伴った威嚇の囀り。

そんな鳥を無視して狼が口を開く、その瞬間。

鳥の頭頂部に雷が落ちる。

瞬間、はじけ飛ぶ頭。

胸から上を失った鳥の体はそのまま横に倒れる、魂の消えた肉の塊からは煙が立ち上っていた。

肉は黒焦げで食えたものではない、普通の生き物ならばの話だ。

狼は味だの何だのと気にすることはない、狼にとって目に映るものは全て食物だった。

そう、雷と共に現れたこの男も。


『情けないな、息子に食われるとは』


トールが鳥の頭を消し去った槌をかつぎ上げると、流石の狼も僅かに後ずさった。

だが撤退とまではいかない。


『手加減は苦手だ、恨むなよ』


男が消える。

いや、違う。

雷のごとき速さで狼の腹の下に潜り込んだのだ。

トールは槌を握りしめ、狼の腹部に……優しく、当てた。

それだけで狼の体はくの字に曲がって宙を舞う。


『やりすぎたか? ロキは死んだか……まぁいいか、一石二鳥』


目的であったロキの救出を潔く諦める、人生諦めが肝心、そのタイミングも大事。

イマイチ意味の合わない言葉も、トールにとってはどうでもいい。


『死んで……ねぇよ! このっ、この……ばか! ばーか!』


腹を殴られた拍子に狼はロキを吐き出していた、ロキは地響きを起こす狼の落下など気にもとめずにトールに詰め寄る。


『別にお前に助けてもらわなくたって平気だったんだからな! つーかテメェのせいで全身痛てぇんだよばーか!』


『……生きていたのか』


トールは興味なさげにロキを見下し……舌打ちをした。


『んなっ、テメェ、まさか殺す気だったのか! 兄弟を!』


『いや、助けるつもりだったが』


『ならチッて言うなよ、なんかムカつくんだよそれ! 人格疑うわ!』


『あわよくばとは思っていた』


『疑いが確信に変わったぜ人格破綻者ぁ!』


槌にこびり付いた血と毛を拭いながら、トールは淡々と思いを語った。

ロキは機嫌を損ねてそっぽを向いたが、すぐに向き直ってニヤリと笑う。

次の悪戯のターゲットを見つけた、そんな笑顔だ。

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