第143話 可愛くて、綺麗で、上品で
姿の見えない兄、その直後に現れた兄によく似た──いや、全く同じ瞳をした魔物。
偶然だろうか。
僕ならともかく、兄が怪物化するなどありえない、やはりただの偶然だ。
いや、僕の怪物化を治したのは兄の術だ。
その直後に兄がいなくなって、兄と同じ瞳をした魔物が──僕は、何を考えているんだ。
ありえない、目の前の魔物が兄だなんて、ありえない。
怪物化していた僕の見た目はどんなものだったか。
肌に現れた斑点の色は、魔物の体色とよく似ていないか。
僕の爪は赤くなかったか、魔物と同じ色ではなかったか。
僕の手を覆った半透明のジェル状の物体と、魔物の体は似ていないか。
偶然だ、ありえない、妄想だ、似ているところが目に付くだけだ。
似ていないところに目をやれないだけだ。
「……ちがう、よね。にいさまじゃないよね。ねぇ、ちがう……よね?」
鈴の鳴るような美しい声、肯定とも否定とも分からない、人間には意味のない音。
「…………そうだよね、違う、違うよ、ごめんね」
僕を閉じ込めて満足げに細められた瞳は、さらに嬉しそうに歪む。
魔物は何をするでもなくただ僕を見つめていた、それが最も恐ろしい。
『ただいまーっと。うわ何してんのお姫様』
「姫じゃない! じゃなくて、あの、この、えっと」
『あー、落ち着け落ち着け』
ロキが帰ってきた。
魔物──もとい息子達への餌やりに来たのだろう、カゴいっぱいに何かの肉が入っていた。
「ごめん、取り乱して」
『いや、いいけど。何してんの?』
「……ねぇ、この子、誰?」
『ああ、兵器の国からアスガルドに転移する時に巻き込んじまった魔物だ。
ここの結界は簡単に出入りできねぇから、お前らを帰す時に一緒に帰そうと思っててよ』
「にいさまじゃ、ないよね?」
『はぁ? んなわけねぇだろ、アイツは外に出るってゴネたから出してやったんだよ、面倒臭いのに。魔物も一緒に出せば良かったかもな。
ああ、ソイツと遊ぶなら気をつけろよ。一応人喰いだからな』
「そう……だよね、違うよね。ごめん、変なこと聞いて」
スラスラと出来すぎなくらいに並べられた魔物の正体と兄の行方。
ロキは顔色一つ変えずに、詰まることなく話した。
そこに嘘は含まれていない──と、僕は思った。
「人喰い……まさか、お腹減って僕を食べようとしてたの?」
『おっ、マジで? ならこれやっとけよ、気は紛れるだろ』
ロキに投げ渡されたのは一抱えの生肉、見た目では何の肉かは分からない。
「まさかとは思うけど、人だったり?」
『いやいや、コイツらの餌のためだけに人間攫うとかやんねぇって。
この肉は最近悪魔から買った人っぽい味の牛を品種改良したヤツだよ、クダンモドキっての。
まぁ……改良したせいで見た目はほぼ人間なんだけどよ』
「微妙……って、神様のくせに悪魔と取引したの?」
『俺様アース神族だもーん。人間共には悪神とか言われてるしー、神様のくせにとか言われてもなぁー』
妙に間延びした話し方はわざとらしく、人を苛立たせる。
ロキは息子達に向かって肉を投げつけている──もう少し優しくやったらどうだ、なんて言いかけてやめた。
それは他人の家庭事情に首を突っ込むのはやめよう、なんて考えたからではない。
眼前の魔物が僕ではなく、僕の腕の中の生肉を見つめていたからだ。
「えっと、食べる……よね、ちぎった方がいい?」
目の前に肉が置かれていてもがっつくような素振りは見せない、ただ見つめている。
アルならもう食べ終わっているだろうな、なんて考えながら肉を一つ掴んだ。
思ったよりも大きい、口の小さなこの魔物に食べられるだろうか。
そう考えた僕は肉をちぎることにした。
「んっ……硬い、無理。ごめんね」
早々に諦めた。
「……ご、ごめんって。ほら、アーン」
非難するような、失望したような目を向ける魔物に耐えきれず機嫌取りにと口に肉を突っ込んだ。
「お、美味しいの?」
『人味だぜ、後で焼いてやろうか?』
「……丁重にお断りさせていただきます」
『おぉ、そこまで強く拒否されるとは思わなかったぜ。俺はこの肉結構美味いと思うけどな』
ごくん、という音とともに喉が一瞬膨らむ。
神秘的で生物らしさがなかった魔物に、確かな生が見えた。
魔物は僕を見つめている、肉にかぶりつく様子はない。
「もしかして食わせろって言ってる? 別にいいけどさ……じゃあ、アーン」
僅かに目を細め、美味しそうに食べている。
何故自分で食べようとしないのだろう、上品なのは良いこととも言えるが、ここまで来ると面倒臭い。
「一人で食べなよ……痛っ!? わ、分かったよ、ほら」
一人で食えと言った瞬間、額に衝撃と痛みを感じた。
魔物に頭突きをされたのだ、尖った宝石の埋まった額で。
「結構乱暴なんだね……あ、ごめんって、頭突きの姿勢取らないで、ちょっと後ろに下がって勢いつけようとしないで」
頭突きの阻止ために肉を突き出す。
これ以上強くされては、額に穴があきかねない。
「一口ちっちゃいよね、可愛い」
『ソイツもっと口開くぞ? 首まで割れてバカッっと……痛っ!? お前なぁ! いい加減にしろよ!』
ロキの足に鉤爪が命中する、いい加減に……ということは何回もやられているのだろうか、何にしても今僕がすべきことは肉を与えることだ。
「……アーン」
『お前無視すんのかよ!』
「関わりたくない……僕は何も聞いてない……この子は口が小さくて可愛い」
『訓練されてやがる! それでいいのかよお前は! ちくしょう……兄弟揃って……』
ロキを無視して一心不乱に食べさせているうちに肉がなくなってしまった。
魔物は口の周りの赤い汁を僕の服で拭う、反抗する気があるはずもなくされるがままになった。
少しずつ肉を食べ、丁寧に口を拭く、何とも上品ではないか。
僕は服に出来た赤いシミを見ないようにして、魔物の頬を撫でた。
「美味しかった?」
綺麗な声がより透き通って聞こえる、肉を食べたことで機嫌が良くなったのだろうか。
とにかく、僕は部屋に戻りたい、アルに会いたい。
魔物は腹が満たされた今なら帰してくれるだろうか、それともまだ僕をここに居させるだろうか。
兄に似ている──ただの勘違いだ、だが参考にはなった。
「ねぇ、中に入らない? ちょっと冷えてきたし、なにか飲もうよ」
真の要求は隠して、遠回しに、あくまでも結論は相手に出させて、それらが重要だ。
魔物は僕を閉じ込めていた尾を下げ、僕が立ち上がっても動かずに僕を見ていた。
「一緒に行こ」
そう言って差し出した手に、鉤爪のついた尾が絡みつく。
手を出したのは失敗だったか、僅かに腕に食い込む鉤爪を感じながら後悔した。
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