第72話 深淵に落ちる
「はい」と取り繕いもしない媚もしない可愛げのない返事をした。
ノブが下がり、扉が僅かに開く。
その隙間から銀色の体をねじ込み入ってくるのはアルだ。
『ヘル、調子はどうだ? 傷は?』
「大丈夫、なんともないよ」
『倒れる前に何か言っていたが……本当に大丈夫か?』
「平気だってば、心配性だね」
銀色の毛を撫でながら黒い翼に目をやった。
溶けた跡などなく、変わらない美しさがそこにはあった。
『ヘル……私の名は?』
「何言ってるの、アルだろ? アルギュロス、僕の……僕だけの優しくて美しい狼だよ」
『……大丈夫、か』
アルはしばらく訝しげな顔をしていたが、黙って僕の膝に顎を乗せた。
安心しきって耳を垂れ、瞳を閉じて甘えたような声をあげる。
「ねぇ、アル。僕を独りにしないでね、ずっと一緒に居てね。僕を庇って死んじゃうようなこと、絶対にしないでね」
『ああ、分かっている。独りにはしない、私はいつまでも貴方の傍に。貴方を置いて死ぬような真似はしない』
「うん……約束、だからね」
『ああ、約束だ』
する、とアルの尾に手を這わせる。
醜い刻印を指でなぞり、笑みを零した。
絶対に反故にされる事ない約束、それの証拠。
何もかもか僕に安心を与えてくれる。
撫でられて眠くなったのかアルは静かになって僕に体を擦り寄せる。
そんな時だ。
ノックもなく扉が開き、大剣を背負った少女が部屋に入る。
「よっ、元気そうだな」
「セレナ?」
「起きたら大臣のとこ行けってさ、アタシらはもう貰ってきたぜ」
「何を?」
セレナは懐から筒状に巻かれた羊皮紙を取り出す。
丸められたそれを広げて僕に見せた。
「ジャーン! 感謝状だ! 他にも色々話したいから来て欲しいってよ」
「分かった」
「ああ、そうそう。その後で隣の部屋に来いよ。神父も雪華も会いたがってたぜ」
「無事なの?」
「傷口凍らせてたみたいでな、手当がめちゃくちゃ難しかったらしいけど、出血が少なかったんだと」
「そっか……良かった」
嬉しい知らせに胸を撫で下ろす。
僕を守ってくれた優しい大人は無事なのだ。
セレナが部屋を出た後、アルを揺り起こして大臣の元へ向かった。
スライムと対峙したあの部屋だ。
一瞬赤く染まる視界……過去を振り払うために頭を振る。
「おお、来てくれたか」
大臣は人の良さそうな笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べる。
どこかむず痒いそれが終わると、感謝状を渡される。
そしてスライムが倒れたことで散り散りになったオーク達の討伐を依頼された。
報酬はかなり弾むと言うので、二つ返事で了承した。
アルはそんな僕と大臣の会話の間、ずっと玉座を睨みつけていた。
そして、話の途切れを狙って声をあげる。
『大臣、玉座の下には何が?』
「し、下? 下には何も無いと思うのじゃが」
アルは僕の制止を無視し、玉座を調べる。
魔獣に慣れていない……いや、少し前まで苦しめられていたせいか、大臣はアルに怯えていた。
玉座を頭で押しのけると、その下に深い穴を見つけた。
底が見えない不気味な穴だ。
「こんな物……いつの間に!」
『強い魔力を感じるな、何か居るぞ』
「ま、魔物か!? なんとかしてくれ! 金なら出すから!」
縄梯子がかけられている事から誰かが出入りしていたと分かる。
スライムだろうか、縄梯子は古く今にもちぎれそうだ。
アルは何も言わずにその穴に飛び込み、僕は反射的にアルを追って飛び込んだ。
上から大臣の叫び声が聞こえて、飛んだことを後悔する。
落下。
内臓がひっくり返るような浮遊感と強い風を感じる。
目が開けられず、必死に手を伸ばす。
柔らかい毛を指に感じて安堵し、翼を掴んで引き寄せる。
ようやくアルの体に辿り着き、腹に手を回す。
『もうすぐ終着だ、しっかり掴まれ』
そんな声が聞こえて、黒蛇が僕の体に巻きつく。
翼を広げて落下速度を落とし、そっと降り立った。
怯えながらも目を開くと、巨大な機械が目に入った。
「何、これ」
大きな音を立て、蛍光グリーンの光を放つそれは酷く不気味だ。
『魔力変換装置だな、何故あるのかは分からんが。地脈から魔力を吸い上げでもしていたのかもな』
「地脈から……? それでどうなるの?」
『ただの仮説だが、ただのスライムがあれだけの魔力を持つ事などまず有り得ない。
地脈から吸い上げでもしているのなら納得だろう?
魔力を吸われれば土地は痩せ細り、植物が枯れ水には毒が混じる』
「大変、だね?」
『理解しているのか? しかし、地脈から吸っていれば地上はもっと酷い有様になるはずだが……ふむ』
アルは僕を小馬鹿にしているように鼻で笑うと、目線を外して巨大な機械を探る。
機械はまだまだ下に続いており、螺旋階段がその機械に巻きつくように続いている。
僕達は黙って下に向かい、機械のコントロールパネルを見つけた。
見たことのない記号に数字、妙な画面はパーセント表示で何かを示していた。
アルはそれを眺め、ぶつぶつ何かを呟いていた。
床に落ちていた紙の束をめくり、パネルと照らし合わせていく。
何も理解出来ていない僕はその行動を黙って眺めていた。
『ふむ、これか。ヘル、そこの赤いボタンを押せ』
「え、いいの? 爆発とかしないよね」
『機械を怖がりすぎだ、ただの電源ボタンだから大丈夫だ』
魔法の国には一切の電気製品がかかった、このように巨大な機械など見るのは初めてで、怖くて仕方ない。
アルの言った通りに赤いボタンに手を添え、アルを見る。
早くしろとでも言いたげな目で見られ、僕は深呼吸をしてからボタンを沈めた。
無機質な機械音が轟き、蛍光グリーンの光が弱まっていく。
順々にパネルの光も消えていき、巨大な機械は完全に停止した。
機械音も消え、安蛍光灯のブゥンという音だけが部屋に残る。
『……何か、強い力を感じるな』
「え? でももう止めたよ?」
『残っていた魔力が逆流した訳でも無さそうだ、やはり何かが居る。更に下だな、地脈から吸い上げているという仮説は間違いらしい』
アルは床を探り、隠し階段を見つけた。
光のないその正方形の穴は酷く暗く、入るのは躊躇われる。
アルは階段を見つめて固まった僕の横をすり抜け、穴の中へ。
躊躇している間にもアルとの距離は離れる。
僕は意を決して階段に足を伸ばした。
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