俺は怪獣 / I, Kaiju

雑賀礼史

第一話 「俺、目覚める」

 鼓膜をつんざく咆吼が、白昼、池袋の空に轟きわたった。

『キシャァァァァァ――――ッ!』

 カタカナで表記するとこんな感じだが、ありきたりなオノマトペじゃ迫力の百分の一も伝わらない。

 原始的な恐怖を呼び覚ます声だ。

 一度耳にしただけで、理屈じゃなく本能でそれと理解できる。

 相手は自分よりもはるかに大きく、速く、強く、獰猛な生物――しかも肉食獣だ。

 その縄張りテリトリーに足を踏み入れたのだという絶体絶命の危機感。

 ケツに氷柱を突っ込まれたように身体が竦み上がる。

 鳥肌は――目視では確認できないが、心理的には全身サブイボ状態だ。

 逆光の中、大きく翼を広げた影が頭上に迫ってくる。

 俺は慌てて身を伏せると、頭を抱えて目をつぶった。

 直後に襲ってきたのは、巨大な足で踏み躙られるような重圧だった。

 これはもう台風や竜巻なんて生易しいもんじゃねえ――衝撃波のロードローラーだ! 

 真上からの凄まじい圧力で俺の身体は地面に半ばめり込み、軋む。

 さいわい頑丈な鎧を着込んでいるから助かったが、生身ならになって中身をゲロってるところだ。

 烈風の爆撃は明治通りに建ち並ぶビルのガラスというガラスを砕き、外壁の一部を引っぺがし、屋上にある巨大な看板をもぎ取って木の葉のように吹っ飛ばした。

 それらの破片やら鉄骨やらが俺の上に盛大に降り注ぐ――が、とりわけ頑丈に出来ている背中の装甲のおかげでどうにか無事だ。

 軽く身体を揺らして、背中から瓦礫を払い落としながら、俺は起き上がった。

 頭上を通り過ぎた影は、鉛筆みたいな白い柱の上に止まっていた。

 断面が六角形をしたその柱は、豊島区清掃工場の煙突だ。

 高さは確か……二百メートル以上あったか?

 その頂上に鎮座している影は、巨大煙突がポッキリ折れてしまわないか心配になるほどの巨体の――『翼を持ったドラゴン』だった。

 ドラゴン!?

 二十一世紀の、日本の、大都会の、東京の、ド真ん中に?

 まったく何の冗談だと文句のひとつも言いたいところだが、愚痴を聞いてくれる相手なんていやしない。

 正直恐怖と緊張で吐きそうだが、つとめて平静を装いつつ、俺はドラゴンを観察した。

 全身は血を浴びたような深紅色。

 鏃みたいに尖った三角形の頭。

 爛々と輝く金色の瞳。

 サメを連想させるザラザラした皮膚。

 身体の中心線に沿って蛇腹状の鱗が装甲のように並んでいる。

 胸から肩にかけて独特な形をした骨格と強靱な筋肉が見える。

 長く伸びた指の間に膜が張ったコウモリと同じ構造の翼は、左右に広げれば優に百メートルを超えるだろう。

 鳥に似た脚は体格に似合わぬ太い爪を備え、煙突をガッチリと掴んでいる。

 全体的にやたらツンツンしたシルエットで、いかにも凶暴そうだ。

 本音を言わせてもらえば、こんなのと関わりたくない。

 だが……俺は争いに来たわけじゃないし、逃げるわけにもいかない事情がある。

 こっちはあの怪物とするために来たんだからな。

 俺は、大きく息を吸い込んだ。

『ポメェ~~~~~~ッ!』

 牛の声を高くしたような、少々間の抜けた鳴き声が辺りに響いた。

 飛竜の声?

 いや――声の主は他ならぬだ。

 いささか迫力に欠ける咆吼で申し訳ないが、これで精一杯なのだから仕方がない。

 声に込めた意味は「俺は敵じゃない」「落ち着け」「話せば分かる」といったニュアンスだったが、伝わったろうか?

『ギュオオオオォォォ――――ッ!』

 飛竜の返答はどう好意的に解釈しても威嚇だった。

「うっせえ!」「気安く話しかけてんじゃねえ」「ブッ殺すぞ」

 そんな感じの攻撃的な意志がビシバシ伝わってくる。

 なんちゅー野蛮なやつだ。

 しょせん鳥頭なのか……品性のカケラも感じられん。

 俺は暗澹たる気分になった。

 やっと出会えた『仲間』かもしれないというのに、これでは意思疎通なんて無理だ。

 それどころかこの俺を『敵』として認識しているんじゃないのか……?

 ドラゴンと、タイマンで、戦う?

 羽ばたきで爆風を起こすような怪物と?

 ふざけるなと申し上げたい。

 向こうは飛べるが、こっちは地面を這いずり回ることしかできないんだぞ?

 しかも鈍重だ。

 俺は視線を下げて、明治通りに落ちる影に目を向けた。

 ノコギリのように尖ったギザギザで縁取られた六角形に近い板を背負い、とんがり帽子を戴いたようなシルエット。

 しかし俺は看板を担いだサンドウィッチマンじゃない。

 愉快な帽子も被ってはいない。

 これが今の俺の――ありのままの偽らざる姿だ。

 背負っている板はで、尖った帽子に見えるのはだった。

 別に叙述トリックを狙ってるわけじゃなし、ここらではっきり告白しておいた方がいいだろう。

 すでにお察しいただけたかと思うが――俺は人間じゃない。

 とはいえもともと人外の存在だったというわけでもない。

 少なくとも昨日までは心身共に普通の人間だった……はずだ。

 だがそれを証明する術はない。

 何故なら、今の俺は――













           「俺は怪獣」














         第一話 「俺、目覚める」



 いつもなら心地よいはずの朝の目覚めの前の微睡みは、今日に限っては最悪だった。

 目を開ける前から世界がと回っている。

 胸はムカムカするし、まるっきり二日酔いの気分だ。

(むう~~……)

 俺は両腕を伸ばしてうーんと伸びをした。

 ……うん?

 何だろう、この……背中が凹みにハマっているような不自由な感じは?

 そのせいか腕が伸びきらない。

 少し勢いをつけて腕を振り上げると、右手の先が何かにぶつかった。

 ガサガサガサッ、と何かが崩れる気配がする。

 んん~?……ああ、アレだ。

 ゲームオーバー寸前の落ちものパズルゲームみたいに積み上がった雑誌の山が崩れたに違いない。

 そろそろゴミに出さないと部屋が狭くなるな……そう思いながら重い目蓋を開ける。

 視界に飛び込んできたのは、安アパートの天井ではなく――だった。

 …………?

 泥酔してどうやって帰宅したのか記憶が定かでないことは何度かあったように思うが、屋根のない場所で目覚めたのは初めての経験だ。

 それにしてもここは……何処ですか?

 仰向けのまま周囲を見回す。視界に電柱と、そこから延びる電線が見えた。

 やけに近いな……

 遠くにあるはずなのに、手が届きそうなくらいの至近距離に見える。

 何の気なしに右手を電柱に向けて伸ばすと、ボールペンのようにヒョイと掴めた。

 ……え!?

 さして力を込めたつもりもないのに電柱は簡単に引っこ抜け、千切れた電線がショートしてバチバチと火花を散らす。

 うおおおいっ!?

 眠気がいっぺんに吹っ飛んだわ!

 慌てて電柱を地面に挿し直した俺は、自分の手の違和感に気付いた。

 一見すると、黒い厚手の手袋をしているように見えるが、そうじゃない。

 皮膚は松ぼっくりの表面を思わせる黒灰色の鱗でびっしりと覆われ、指先には黒光りする鋭い爪まで付いている。

 これじゃまるでトカゲか恐竜の手だ。

 いやいや……待て待て。

 落ち着け、俺。

 これは本当に俺の手か?

 空にかざして確認すると、指は五本あって思い通りに動く。

 裏返してみると、掌の部分には鱗がなく、滑り止めの役割をしているらしい細かい溝のある分厚い皮に覆われている。

 左手を見てもやはり同じだった。

『親分てえへんだてえへんだ! 俺の手え変だ!!』

 ……などと深夜三時過ぎ限定のバカウケギャグを思いついてる場合じゃない。

 俺の手も問題だが、さっきの小さい電柱は何だ!?

 もう一度確認しようと首を巡らせると、別の物が目に入った。

 寝ぼけて右手で崩してしまった雑誌の山――だと思っていた物の正体だ。

 それは雑誌ではなく、だった。

 ………………

 …………

 ……

 しばしの思考停止。

 ちょっと待ってくれ。

 何なんでしょうか――これは?

 二階建てのアパートといっても俺の頭くらいの大きさしかない。

 ミニチュア模型?

 それも超精巧な……?

 いや、そうじゃない。

 もはや尋常ならざる事態が起きていることは認めざるを得なかった。

 酔っぱらって特撮映画の撮影スタジオに侵入し、モンスターの着ぐるみを着込んだうえに、ミニチュアのオープンセットの中で寝てしまったか――

 あるいは俺の身体が巨大化したか、そのどちらかだ。

 さて、問題です。

 次に俺は何をすべきでしょうか?

 正解は? 正解はたぶん――起き上がることだ。

 立て! 立つんだ、俺!

 しかしどうにも具合の悪いことに、ちょうど身体にぴったりの凹みにはまり込んでいるのか、寝返りも打てない状態になっている。

 腹筋を使って上半身を起こそうとしてもビクともしない。

 まるで樽にでも入れられているように身体がひどく不自由だ。

 両手足を一緒に左右に振ったが、それでも寝返りを打つには勢いが足りない。

 やはり着ぐるみが邪魔して動きが鈍っているのだ。思い切りよくやらねば。

 行くぞ……せい!

『ボフッ!』

 気合いの声とともに身体がゴロンと半回転し、うつ伏せになる。

 ……今のは?

 何やらブーブークッションみたいな下品な音が聞こえたような……

 気になりつつも身体を起こして立ち上がる。

 その直後――俺は目眩を覚えた。

 たっ……高え!

 やけに視点が高いぞ!?

 立ち上がっただけなのにえらく見晴らしがいい。

 ざっと地上数十メートルはあろうか。

 眼下に広がる、やたらと精巧なミニチュアの街並み。

 それは遥か彼方まで続いていて、遠くは白く霞んでいた。

 空気遠近法による距離感の演出――にしてはあまりにもリアルすぎる。

 これが仮にオープンセットだとすると、たぶん東京ドームより広いぞ?

 あの白い山は……富士山に見えるけど、本物なのか書き割りなのかは判然としない。

 視線を手前に戻す。

 俺の足下に落ちているのは、ギザギザした突起で縁取られた異形の影――

 右手を振ると向かって右の手の影が、左手を振ると反対の手の影が同じように動く。

 それが自分自身の影だと認めるのに時間は要しなかった。

 首を横に向けて顔の輪郭を確認する。

 鼻先に向かって先細りになっている、トカゲじみた頭部。

 口を開けると、影の方の口もガパ~ッと耳まで裂けるようにして大きく開いた。

 わはははははは。

 どう見ても怪獣です。

 ありがとうございました。

 ………………

 …………

 ……

 おかしい。

 夢だと自覚しているのに目が覚める気配がない。

 これは明晰夢とかいうやつじゃないのか?

 しかし……夢にしてはやけに細かすぎる。

『もしも自分が巨大怪獣になったら?』と想像してこんな夢を見ているのだとしたら、シミュレートができすぎている点がある。

 それはだ。

斬新な視点とか、慧眼だとか、そういう意味じゃない。

 今の俺の両目は顔の正面ではなく、かなりについている。

 おかげで視界は異様に広い。

 真後ろはさすがに死角だが、首を巡らせるまでもなく三百度くらいの範囲が見える。

 ただし立体視できるのは正面の狭い範囲に限られる。

 片目でカバーしている範囲もクッキリハッキリというわけじゃなくて、いまひとつピントが甘い感じがする。

 この視覚の変化は着ぐるみ説では説明できないものだ。

 やはり、自分の肉体そのものが変化していると考えるしかない。

『グレゴール・ザムザがある朝目覚めてみると、自分が一匹の巨大な毒虫に変わっていることに気付いた――』

 教科書に載っていたカフカの『変身』の書き出しはこんな感じだったろうか。

 俺も粗筋しか知らないんだが、要は似たような状況だ。

 ただザムザの変身とはひとつ、明らかな違いがあった。

 図体が人間と比べてあまりにも巨大すぎるということだ。

 この差は文字通りに……いや、それ以上に大きい。

 ただの変身ならまだしも、このサイズじゃ自分の部屋に引きこもって世間の目を欺くなんてどだい無理な話だ。逃げも隠れもできやしない。

 それにしても、一体全体、何がどうしてこうなった?

 泥酔している間に得体の知れないものでも拾い食いしたのか?

 昨日何があったのか……それを思い出そうとして、俺はと困惑した。

 記憶が――ない!

 昨日どころか、過去のすべてが。

 自分が何者なのか、名前すら思い出せない。

 今は怪獣の姿をしているが、昨日までは人間だった――その確信だけはいやにしっかりとある。

 だが、その根拠はどこにある!?

 ある程度の常識的な知識はあれど、個人としての記憶がスッポリと抜け落ちている……こんなおかしなことがあるだろうか。

 知識とは過去の経験と結びついているもので、自分自身についての記憶だけ思い出せないなんてことはあり得ない……なんてことをどこかで聞きかじったような気がする。

 やはり巨大生物に変身したショックによるものだろうか。

 肉体がこれだけ変化しているのだから神経や脳に影響があって当然だ。

 人間としての意識や知識が残っていることは、むしろ幸運かもしれない。

 まともに思考する知能もなく、パニックに陥って不安に苛まれるまま闇雲に暴れるだけのモンスターになっていたとしたら――そう考えるとゾッとする。

 そうだ、ここは人間らしく頭を使おう。

 昨日までの俺がどんな人間だったか推測してみるのだ。

 まず性別は?

 一人称が『俺』だから当然『男』だよな。

 いや待て、速断はよくない。

 これはあくまで内面の一人称だから、人と話す時は『僕』だったり『私』だったりするかもしれない。いろいろ試してみてしっくりくるのを探してみるか。

「オッス、オラ誰だ!? 目が覚めたらいきなり怪獣になっててビックリしたぞ」

 ……これは違うな。どこの田舎者だよ。

「うぬう、拙者は何者にござるか!? 目覚めてみれば、いつの間にやらこの身が物の怪に成り果てておるとは面妖な――」

 武士かよ。

「ミーがモーニングにウェイクアップするとギガンティックなKAIJUにトランスフォームしていたのデース! OH.NANTE-KOTTAI! Who am I!?」

 ニセ外人かよ。しかもノリが昭和だ。

 目が覚めたら怪獣になってるだけでも異常なのに、さらに変なキャラが乗っかるとかカオスすぎるだろ。

「朕が……」

 よし、もういい。

 一人称は手掛かりにはならないな。自分がそれなりのユーモア感覚を持ち合わせている人物だと分かっただけでよしとしよう。

 次に年齢は?

 とりあえず二十歳は超えていそうだな。

 二日酔いという発想が出てくるってことは未成年じゃなさそうだし、三十代以上で既婚の社会人なら記憶はなくとも身内や職場のことをもっと心配するんじゃなかろうか。

 時間に追われている感覚は――ないな。

 翌日のことを考えずに前後不覚になるまで飲んだくれて平気なのは、週末だからか、そうでなければ相当に自堕落な生活をしているからだろうと推測できる。

 総じて判断するに、独り暮らしの大学生かフリーターといったあたりか。

 ………………

 …………

 ……

 ええい、これじゃ何も分からんのと同じだ!

 ロープレの喋らない主人公並みの無個性人間かよ!

 ゲームだとしたら初期状態が謎の巨大生物とかぶっ飛びすぎだろ。

 ……チッ、まあいい。

 記憶喪失が怪獣化のショックによるものなら何かの拍子に思い出すこともあるだろう。

 自分のプロフィールが不詳ってのは甚だ心許ないが……

「いったい何がどうなってるんだよ!? 俺は誰なんだよ!? 誰か説明してくれよ! うおおおおおおっ!」

 ……などと思春期の中高生みたいに取り乱してもいい場面のはずだが、どうもその気にならない。記憶がないからか、もともとの性格なのかは分からないが、俺は相当な呑気者に違いない。

 ひとまず過去の詮索は後回しにして、問題はこれからの身の振り方だ。

 そう、俺がどんな人間だったかなんて些細なことだ。

 人間の価値は過去何をしたかではなく、これから何をするかで決まるって誰かが言ってたぞ? もう人間じゃないけど。

 せっかく巨大化したことだし、地球上の全生命を代表して人類の進みすぎた科学文明に警鐘を鳴らすとか、エコっぽいお題目を唱えつつ都市を破壊して回ろうか?

 しかしなあ……いまいち情熱が湧いてこないぞ。もともと社会に恨みを持ってる人物ならこれがチャンスと大暴れするところだが、記憶がないってのも善し悪しだな。

 それに暴れたら暴れたで、確実に自衛隊を敵に回すことになるぞ。

 自衛隊と戦う――?

 往年の特撮映画やテレビのヒーロー番組に登場する怪獣なら、戦車や戦闘機の猛攻撃を受けてもケロリとしているのが常だが、実際に戦ったらどうなるんだろう。

 ここで不意に『ある説』が俺の脳裏に浮かんだ。

 単に巨大なだけの生物であれば、天才科学者の発明した超兵器に頼るまでもなく、自衛隊の通常装備――それも手持ちの誘導ミサイルみたいな火器で十分に対処できる。電子機器を狂わせる妨害電波だとか、何でも防ぐバリアーだとか、ひと吐きで辺り一面を火の海にできる強力な熱線などといったとんでもない超能力でも持っていない限り、自衛隊に倒せない生き物はいないそうだ。

 ……ん? いきなり断言しちゃってるけど、これはどこから得た知識だ?

 根拠が曖昧なところからして自前の説ではなさそうだ。

 たぶんアレだな……友達にミリタリーオタクがいて、怪獣映画における自衛隊の扱いについて議論を交わした時にでも聞いたんじゃないか?

 とにかく巨大生物だからって自衛隊とケンカするのは分が悪いと覚えておいた方がいいだろう。

 ……あれ?

 そうなると現状に留まるのは非常にマズいのでは?

 市街地にいきなり巨大怪獣が現れたんだ。それこそあっと言う間に戦車やヘリに囲まれて――

 今さらながら俺は初めて他の人間のことを考えて周囲を見回した。

 戦車らしき車両は見あたらない。

 ヘリの姿も――ない?

 そんなバカな……こっちは巨大怪獣ですよ?

 なのにシカトって!? 仕事しろよ仕事を!

 目を皿のようにして探すと、ようやく数台のパトカーと、幌付きのトラックらしき大型車両が二台、路肩に停まっているのを見つけた。

 半径三百メートルくらいの範囲が立ち入り禁止区域になっているらしい。

 探していて気付いたが、どうやら俺は小さい物を見分けるのは苦手のようだ。

 車両はいいとして隊員はどこだろう?

 住宅街らしいのに近隣住人の姿がないのは避難済みだからか。

 ところで、さっきから何かチラチラと赤く光る素早い蟻のようなものが地上を這い回っているのが気になるが……

 まさか、と思ってさらに目を凝らす。

 立体視可能な範囲を地面に向けるのはなかなか疲れる。

 しばらくじっと観察して、ようやく結論に至った。

 チラチラと赤く光る虫のようなもの――それこそが『人間』だったのだ。

 赤外線カメラのように動物の発している熱が見えているのか、とにかく人間は赤く光る虫に見える。

 そして非常~に小さい。

 自分が人間サイズだと仮定するとせいぜい五センチほどしかない。

 身長が百八十センチだとして、五で割ると……だいたい三十五分の一スケールか?

 戦車のプラモデルに付いてくる兵隊と同じサイズだ。

 あんなものは手にとってしげしげと眺めて初めて細かい造形が分かるもので、足元に置かれたらもう個体の判別なんて不可能だ。

 赤く光っているおかげでなんとか見えるが、五メートルも離れるともういるのかどうかさえはっきりしない。

 この場合の五メートルというのはもちろん俺の主観で、俺の身長が五十メートルとするなら……ええと、だいたい百五十メートルくらい?

 それくらい離れると視認が困難になるわけだ。ああ、面倒くさい。

 八分の一とは言わないが、せめて十二分の一スケールなら……肩に乗せたり、片手に掴んだまま高層ビルに登ったりできるのに(ただし美女or美少女に限る)。

 それにしてもここは何処なのか?

 近くに高層ビルは見当たらない。

 一番高い建物でも十階建てのマンションで、ほとんどが一戸建ての民家かアパートだ。

 木の茂った丘陵地があって緑が多いが、田園風景が広がる田舎というわけでもない。

 都心から少し離れたベッドタウンという印象だ。

 立体視できる範囲でないとはっきり物が見えないため、あらためてゆっくりと首を巡らせて辺りを見回す。

 身体が固い代わりに首の自由度はかなりのもので、首だけ百八十度回して真後ろを向くこともできた。

 ……おっ?

 人だ!

 人がいる!

 こちらに背を向けている、パンチパーマのおばちゃんっぽい人の姿が見えた。

 距離は目測で四~五百メートル。

 そちらの方に進もうとして足を運ぶと、何故かパンチのおばちゃんは逆に遠ざかった。

 なっ……何が起きた!?

 一瞬途惑ったが、首を真後ろに向けたまましたのだから離れて当然だった。

 ははは……失敗失敗。

 俺は猛烈な気まずさを感じながら首を前方に戻し、足を踏み変えて方向転換した。

 直後、バリバリと背後で何かが壊れる不穏な音が鳴り響く。

 だっ……誰だ!?

 顔を横向きにして後方を確認するが、誰もいない。

 俺は右足で地面を蹴り、左足を軸にして半回転した。

 再び背後で異音がして、視界の端に生き物のような影がチラリと見切れた。

 俺の死角に得体の知れないがいる――!?

 さらにもう半回転してみると、背後で瓦礫を掃いて飛ばすような音がする。

 急いで覗き込むと、鞭のようにしなる触手のようなものが見えた。

 形からして触手というよりワニの尻尾に似ている。

 ……ワニの……尻尾?

 まさかこれは――

 確認のために尻に力を込めると、その謎の生物は右に左にと波打つように動いた。

 ……間違いない。

 これは、だ。

 恐竜や爬虫類の特徴を備えた怪獣なのだから、尻尾があっても何の不思議もない。

 ただそれを自覚していなかっただけなのだ。

 ……………………

 …………

 ……

 ところで……今の一連の行動がとてつもなくマヌケな失態だとバレなかったろうか。

 自分の尻尾を珍妙な生き物と勘違いして追いかけるなんて、まるっきりオツムの足りないアホ犬の行動じゃないか。

 素人がスマホで撮影した動画がネットに投稿され、世界中の笑いものにされるようなことになりはしないか。

 これは……なるな……いや、なるね!

 ぬわああああああああっ!

 こうなったらこの街を破壊し尽くして、全世界に配信される前に証拠の動画を消し去るしか――

 衝動的に暴れたくなったが、その程度で我を忘れるほど俺も軽率な人間ではない。

 もう人間じゃないけど。

 幸いにも顔面の皮膚は硬くて細かい表情は出ないし、顔色で悟られることもない。

 下手に取り繕うような真似は控えて、何食わぬ顔で通すのが吉だ。

 自分に尻尾があることを確認できただけでも大きな前進じゃないか。

 ポジティ~ブシンキン!

 ドンマイ、俺!

 ……ふう。

 気を取り直してパンチのおばちゃんの方に向かおうとした俺の前に、またひとつ障害が立ちはだかった。

 赤く光る虫が――市民が遠巻きに俺を見物している。

 進行方向にも大勢いた。これを無視して進むわけにはいかない。

 当人たちは充分に距離を取っているつもりかもしれないが、俺から見ればすぐそこだ。

 お前らもっと遠くに避難しろよ……もしかして俺、完全に舐められてる?

 これは、いよいよアレをやるべき時が来たのか。

 怪獣のアイデンティティの一翼を担うアレを。

 それはつまり――『雄叫び』だ。

 敵を威嚇し、自分の存在をアピールする。

 世界に向かって「俺はここにいるぞ!」と名乗りを上げるのだ。

 ううむ……にわかに緊張してきたぞ。

 第一声とは言わば産声であり、怪獣にとって通過儀礼のひとつだ。

 怪獣がその鳴き声を元に命名されるケースもある。

 それを耳にする人々を畏怖させながらも不快な印象を与えない、できれば荘厳な響きがあればなおいい。

 さあ、耳をかっぽじって俺の声を聞くがいい。

 俺は大きく息を吸い込み、雄叫びを上げた。

『ポメェェェ~~~~~~ッ!』

 なん……だと……!?

 俺の喉から飛び出したのは、下手くそなホルンみたいな素っ頓狂な咆吼だった。

 いやいやいやいやいや!

 待て待て待て待て!

 違う違う!

 今のなし! 今のなしだから!

 心の中でそう思ったところで伝わるはずもない。

 だが当初の目的は達せられた。

 進行方向にいた赤い光が蜘蛛の子を散らすように逃げていったからだ。

 ……何だよ『ポメェ~~』って!

 えらいことになってしまった。

 漫画なら絵がモノクロ反転するくらいの衝撃的場面だぞ。

 自己紹介で大スベリしてクラス全員にドン引きされた転校生みたいな気分をどうしてくれる!? 責任者出てこい!……どうせ俺だけどな!

 断固やり直しを要求したいが、どこに申請すればいいのやら。

 誰にも突っ込まれず、気の利いたフォローもなく、言い訳をする相手すらいない絶対的孤独をひしひしと感じながら、俺は足を前に運んだ。

 そう……この悲しみを癒やしてくれるのはパンチのおばちゃんだけだ。

 しかし俺の歩みは実に拙いというか、ギクシャクしたものだった。

 怪獣になってから歩くのも初めてだが、とにかく胴体が不自由で腰が捻れないため、右足を踏み出そうとすると一緒に右肩も前に出てしまう。コンパスで片方ずつ弧を描くような動きで、身体を左右に振りながらでないと歩けない。

 少々不格好だが、なにしろ怪獣の身体に慣れていないので致し方ない。

 しかも地面がえらく柔らかい。スプリングの効いた分厚いマットの上を歩いている感じとでも言えばいいのか。アスファルトなんてスポンジケーキの上に載せた薄焼き煎餅みたいなもので、踏むと簡単にパリパリ割れる始末だ。

 ガガガガ!

 ええっ!? 何か引っかかった?

 左脇を覗き込むと、胴体の側面から出っ張っている部分が道路脇のマンションの壁にめり込んでいた。

 接触事故!?

 こちとら初心者マーク付きどころか無免許怪獣だからな……の目測を誤ったか。五階建てのマンションだから腕が当たらないように気を付ければいいと思ったんだが。

 左足を引いて後ろに下がると、マンションから出っ張りが抜けた。

 出っ張りの正体は小さな前進翼のような形をしたトゲだ。武器に使うには短すぎるし、後ろから襲ってきた相手に刺さりそうもないので防御の役には立たない。

 そうか! 引っこ抜いてブーメランとして投げるんだな!?

 ……と思って掴んでみたけど抜けねえ!

 もしかしてただのチャームポイントなのかよ。この突起がデカいほど雌にモテるとか、そういうやつか?

 とにかく横幅が広いってことは憶えておこう。

 これ以上マンションを破壊しないように後退しようとすると、尻尾が壁につっかえた。

 尻尾を持ち上げようとして尻の筋肉に力を込めたとたん、メキメキと何かが軋む音。

 ヤバい。

 首を伸ばして背後を見るが早いか、二階建ての民家が基礎ごと吹っ飛んだ。

 おい、尻尾! やってくれたな……って、俺の尻尾だけどさ。これが全然言うこと聞かねえっつーか、思った通りに動かないんだよ!

 尻尾が暴れて隣の家を破壊しそうになったので身体を戻すと、突起が再びマンションの壁を抉った。刺さり方がさっきより深いぞ!?

 五階建てマンションの最上階がみるみる壊れていく。

 いか~ん、緊急離脱だ!

 俺はカニ歩きでマンションから離れた。しかし今度は道路を挟んだ向かいにある三階建ての民家に接触してしまう。クソッ、横幅が広すぎるんだよ! 道路に対して身体を横に向けて……と思った直後、振り回した尻尾がマンションを直撃した。

 尻尾がクリーンヒットした感触。

 積み上げたジェンガが一気に崩れ落ちるような騒音。

 巻き上がる粉塵。

 呆然とする俺。

 青い空。

 麗らかな初夏の日和。

 ………………

 …………

 ……

 わざとじゃないんですよ?

 このマンションに嫌なヤツが住んでたからとか、そういう個人的な意趣返しでやったわけではないということは、どうかご理解いただきたい。

 ただの罪のないうっかりなんで……ダメですか。そうですか。

 これはもうパンチのおばちゃんに弁護を頼むしかないな。

 一縷の希望を胸に、さらに十歩ほど進む。避けきれずに民家が二、三軒吹っ飛んだがもはや構っている余裕はない。

 すぐ目の前まで来たところで、パンチのおばちゃんの正体が分かった。

 だ。

 台座を含めた高さは俺の膝ぐらい。たぶん十五メートル足らずのサイズだ。

 ………………

 …………

 ……何故だろう?

 赤く光る虫みたいなのが人間だと理解しながら、大仏をおばちゃんだと信じて大喜びで駆けつけてしまったのは。

 どう見ても金属製でめっちゃ黒光りしてるのに。

 しかし、こんなところに大仏だと?

 そうだ……思い出した!

 これは日本三大大仏の一つに数えられるわりにはマイナーな『東京大仏』じゃないか。

 だとするとここは東京二十三区の果て板橋区のさらに外れ――赤塚周辺だ。

 俺は首を伸ばして北東の方角に目を向けた。

 高架橋の向こうにマンモス団地が立ち並んでいるのが見える。

 俺のおぼろげな記憶を信じるなら、あれは高島平団地のはずだ。

 なるほど――そうか。そうだ。

 俺の脳裏に大まかな周辺の地図が浮かび上がった。

 ここから北に進めば荒川という大きな川がある。

 大仏のおばちゃんがスッと右手を伸ばして北を指し示した。

『若者よ、この先の荒川に向かうのです。川に沿って進めばさしたる障害もなく東京湾に出られるはずです』

 おおっ、なるほど!

 荒川は一級河川だけあって川幅も広いから、俺の巨体でも泳げるだろう。

 川を下れば建物を破壊しながら移動せずに済む。

 何というナイスアイデア!

 ありがとうおばちゃん!

 ちなみに大仏がいきなり動いてしゃべりだしたのは単に俺の妄想である。

 人間が一夜にして怪獣になるような不条理な世界なんだから、大仏がしゃべったって別にいいじゃないか。

 この現状だって俺はまだ現実だと認めたわけじゃないんだからな!

 ……なんかツンデレっぽい言い方になってしまったが、こっちは誰とも会話できない孤独な一人称をずっと続ける苦役に耐えているのだ。

 この程度の茶目っ気は大目に見ていただきたい。

 さあ、ここは考えどころだ。

 この場所に留まっていても事態が好転するとは考えにくい。

 これが悪夢で、目が覚めたら人間に戻っている――というのがベストの結末だが、今のところその気配はない。

 自衛隊の車両が来ていたのは当然、監視のためだろう。

 俺が惰眠をむさぼっていたから静観していただけで、こうして目覚めて活動を開始したからには遠からず何らかのリアクションがあるはずだ。

 そのうちに戦車や戦闘ヘリがわんさかやってきて――

 思案しているうちに耳障りな音が聞こえてきた。

 キュンキュンと風を切る音が近づいてくる。

 顔を横に向けると、背後――つまり南から飛来するヘリがハッキリと見えた。

 距離は遠いがよく見える。

 明るい赤に見えるのは人間よりもずっと高い熱を発しているためだろう。

 どうやら俺の目は動いている物体を捉えるのは得意らしい。

 のんびり思案している暇はなくなったようだ。

 人類に対して害意のある生物だと思われたら……いや、思われなくても退治される。

 なにせ怪獣だし、それこそ問答無用で攻撃してくるだろう。

 俺は北に向かって再び雄叫びを上げた。

『ポメェ~~~~~!』

 改めて聞くと牛みたいなもっさりした声だ。

 すりガラスを爪で引っかいたような耳障りな声じゃないだけマシだと考えよう。

 自分の声だから早めに慣れた方がいい。

 とにかくこれで進路を確保し、荒川に向かうのだ。

 俺は愛しの大仏おばちゃんに別れを告げて歩きだした。

 ヘリは監視が目的らしく一定の距離を保ってついてくる。

 丸っこい機体なのでたぶん攻撃ヘリじゃない。

 近隣住人の避難も完了していないのにいきなりミサイルを撃ってきたりはしないだろう――俺はそう高を括ってゆっくりと歩を進めた。慌てても被害が増えるばかりだからな。

 ところが二十歩と進まないうちに新たな障害が立ちはだかった。

 障害というよりそのまんま『ハードル』と言うべきか。

 ちょうど股間くらいの高さに、東西に走る首都高速五号池袋線の高架橋があった。

 これを越えなければ荒川にはたどり着けない……が、この微妙な高さが悩ましい。

 下をくぐるには高さが足りないような。

 防音フェンスは無視するとして、上を乗り越えるにはジャンプする必要がある。

 ジャンプ……イメージとしては走り高跳びのベリーロールか?

 とりあえず首を伸ばして防音フェンスの上から高架橋を覗き込む。

 埼玉方面に向かう車線だけが大渋滞になっていた。

 しかし自動車はどれも停まっている。エンジンのかかっている車は一台もない。

 乗っていた人間はどこへ行ったのか――車を捨てて徒歩で避難したのだろうか。

 んん~? どうも引っかかるな。

 違和感というか、どこか理屈に合わない感じがする。

 何かが、おかしい。

 いや――何かどころではなく、自分が巨大怪獣になっている時点でこの世の法則はとっくに狂ってしまっているわけだが。

 それにしても……まあ、いいか。

 目下の最大の懸念は自分の身の振り方だ。

 とにかく目に見える範囲のことしか分からないし、正しい判断をしようにも浅薄な知識しか持ち合わせていない。

 情報を得ようにも怪獣はテレビも見られなければラジオも聴けない。

 誰かに電話をかけて事情を訊くわけにもいかないのだ。

 いわゆる情報弱者というやつである。

 できることなら近隣住民とコミュニケーションを取って口コミに頼りたいところだが、鳴き声が『ポメェ』ではお話にならない。

 おっ、図らずもうまいことを言った気がするが……気のせいか。

 腑に落ちない感覚はひとまず置いておこう。

 それとは別にムカムカする胸焼けはまだ収まっていない。

 怪獣用の胃薬が欲しい。あと冷たい水もだ。

 大量の水があるというだけでも荒川を目指す意義は十分にある。

 助走距離を確保しようとしたが尻尾が邪魔で真後ろに進めない。

 どうして俺は直立歩行で尻尾を引きずる身体の構造なのだろうか……設計ミスじゃないのかと思いつつ、方向転換して二百メートルほど離れる。

 ――さあ、行くぞ。

 走り出してすぐに俺は絶望した。

 足がゼンッゼン上がらねえぇぇぇぇ!

 しかも遅せぇぇぇぇ!

 だが止まるわけにはいかない……このまま行く!

 競技としての走り高跳びのルールなら失格になる両足跳びで跳躍する。

 俺の巨体は防音フェンスを破壊し、数台の自動車を下敷きにして、高架橋の上を飛び越える――ことなく止まった。

 え?

 ちょっ……これは……もしかしてマズいのでは!?

 高架橋に乗っかっているのは胴体部分で、手足は宙に浮いてしまっている。

 両手足をバタバタさせれば……ダメだ、ビクとも動かねえ。

 ……あれ? ハマった?

 まさかとは思うが……もしかして、地味に、脱出不能!?

 あかん。

 これはマジであかんやつや。

 このまま何もできずに干からびていくとか、そんな未来永劫語り継がれるレベルの空前絶後にトホホな死に様をさらすなんてのは……まっぴら御免だぜ!

 足は――クッ、ダメだ。どこにも引っかからねえ。

 腕は――? 一応腕立てはできるが……人間ほど長くないというか、爬虫類としては標準的な長さだから身体を十分に持ち上げるにはリーチが足りない。

 そして腕力だけじゃ前進も後退もままならねーときた。

 するとあとは……そうだ! 尻尾だ! 尻尾があるじゃないか!

 尻尾を立てろ〜! ホッホッホホ〜イ!

 人間には存在しない器官だから動かしている感覚を伝えにくいが、とにかく肛門よりも上にある太い筋肉を動かす感じだ。

 女王様がマゾ奴隷を鞭でひっぱたくがごとく!

 打つべし!

 打つべし!

 打ち振るうべし!

 おおっ、いい具合に前後に揺れてきたぞ!

 この揺れのタイミングに手足の動きを合わせて――

 えい!

 ほっ!

 おりゃ!

 そぉい!

 ミリミリという不気味な音と振動に気付いた時には、もう遅かった。

 破裂するような異音が下から響き、高架橋が向こう側に傾いていく。

 揺れに耐えきれなくなった橋脚が根本から折れたのだ。

 高架橋が倒れ、派手に転げ落ちた俺は何軒かの住宅を巻き込み下敷きにした。

 いかん……つい夢中になって人様に多大な迷惑を……

 だが高架橋の上でミイラになるよりはずっとマシだ。

 首を伸ばして周囲の被害状況を確認する。

 高架橋は俺の乗っかった箇所の前後数十メートルが切り取られたような形で壊れていた。

 まあ……数百メートルにわたって倒壊しなくてよかった。

 結局通れなくなったことに変わりはないが。

 上空ではヘリが旋回している。

 この一連の大騒ぎも……当然ながらすべて見られちゃってるわけね。

 しかも十中八九、動画で記録されている。

 おのれ~全身から強力な電磁波を放射する能力さえあれば、撮影データをすべて消し去ってくれるのに!

 これ以上の失態を避けるためには一刻も早く荒川に辿り着かねば。

 俺は再び『ポメェ~(訳:ちょっと通りますよ)』と一声かけてから住宅街を縦断した。

 高島平の小学校と中学校、その向こうにある高校を右手に見ながら進む。

 グラウンドに赤い点がいるところから見て避難所になっているのだろう。

 歩くコースが避難所に近すぎるかな、と思ったが他に通れそうな広い道もないので必要以上に怖がらせないように粛粛と足を運ぶ。

 人間の集団を見ても『美味そうだな』と感じないのはいい傾向だった。

 目の高さが十階建てのビルより高い――つまり身長五十メートルくらいの巨体になると人間なんか煎餅一枚ほどのボリュームもない。大量に食べないと腹が膨れないだろう。

 そうか、食事だ。

 怪獣だって生物であるからには何かを摂取しないと生きていけない。

 今はまだ空腹も喉の渇きも感じないからいいが、いざ飢餓感に襲われたら何を食べればいいのか。食い物の記憶も人間にとっては重要度が高いはずだが、今何を食べたいかと問われても具体例が思いつかない。

 さっきからちょいちょい関西弁が出てくるので実は関西出身という可能性もある。

 だとすれば、あの……アレだ。ほら『白い粉を水で溶いたものを丸く焼いて茶色の液体と緑の粉末をかけたやつ』を食べたいと思ってもいいはずだが、肝心の料理名が思い出せないときた。関西人にとってのソウルフード的な存在のはずなんだが、想像しようにも脳裏に浮かぶ映像はぼんやりしているし、味や匂いも甦ってこないので食欲が刺激されることもなかった。

 俺の関西弁はネイティブなのか? 仮に実家が関西だとすれば、知らずに家族を踏み潰す心配がないだけ安心といえば安心だが。

 比較検証できないからイントネーションが正しいという保証はないし、普段の思考が標準語ということは、友人に関西人がいるか、関西芸人が好きだという理由で真似をしているだけのサムいヤツかもしれへんやん?

 ……やっぱり怪しい。一時期関西にいただけかもしれない。

 そんなこんなで数分後――俺の眼前にさらなる障害が現れた。

 またも出ました高架線。今度は都営地下鉄三田線である。

 同じ高架線でも見るからに重そうな鉄筋コンクリートの塊だ。

 どうしてこう……巨大怪獣に住みにくい街作りを推奨するかね?

 三田線といっても終点の西高島平駅と隣の新高島平駅の間の地点である。

 ぶっちゃけ壊したところでさしたる不都合はないように思えたが、に気付いて考えを改めた。

 いかにも電圧の高そうな送電線――あれに触れるのはヤバくないか?

 街中を歩いてる間にも電線に接触しているはずだが、今のところ感電した実感はない。

 とはいえさっきみたいに高架橋の上で身動きが取れなくなった状態でず~っとビリビリ感電し続けるとかシャレにもならない。

 よし――今度は下をくぐろう。

 高架線の下には大型のトラックが余裕をもって通行できるだけの空間がある。

 短いトンネルのようなものだ。

 左右の幅が少々不安だが……ヘッドスライディングの要領で抜けられないか?

 そう考えただけで何故かウズウズしてきた。

 俺はどうやら思いつきをすぐ実行に移したくなる性分らしい。

 それともほどよい隙間を見つけると潜り込みたくなる性癖でもあるのか。

 だとしたら怪獣化によって獲得した本能だと思いたい。

 まあ、本能ならしょうがないよな。

 三田線の西台駅から西高島平駅までは高島通りが並行して走っている。

 俺は高島通りの右(西台方面)と左(西高島平方面)を交互に見て、走ってくる車両の気配がないことを確認すると、後退して助走距離を確保した。

 思い切り前傾して両手の先を地面につける。

 尻尾は引きずらないように持ち上げる。

 クラウチングスタート……というよりは相撲の立ち合いみたいな姿勢だ。

 レディ――GO!

 全力ダ――ッシュ!

 いいぞ!

 がに股ながらさっきよりはずっとスピードに乗っている。

 高島通りの直前でダーイブ!

 そして――ヘッドスライディィィィング!

 俺の身体はカーリングのストーンよろしく地面を滑走する。

 コースは高架下の空間のど真ん中……ドンピシャだ。

 もう少しで潜り抜けられるというその時――

 ガガガガッ!

 俺の腰のあたりから不吉な音が聞こえ、急ブレーキがかかる。

 うおおおっ止まってたまるか!

 挟まって動けなくなるのだけは嫌だ!

 前に伸ばしていた両腕で左右の橋脚を押す。平泳ぎの要領だ。

 スッと抵抗が消え、俺の身体は完全に高架線の向こう側に出た――やったぜ!

 ドドドォン!

 背後で重々しい破壊音が轟いた。

『ポペェェェッ!』

 下手クソなラッパのような音――これは俺の悲鳴だった。

 いででででででで!

 何がって!? 尻尾だよ尻尾!

 男にしか分からんタイプの痛みだぞコレ!

 伸ばした首を背後に回して見る。

 高架線が真っ二つになって崩れ、トンネルに残っていた尻尾の上に落ちていた。

 四つん這いのまま前進して尻尾を引き抜く。

 よかった……尻尾は潰れていない。いや、よくはないか。

 破壊しないで潜り抜けるつもりが結果としてこのザマだよ!

 俺の背中は単純なアーチ形ではなく、硬い背鰭のような突起が付いているらしい。

 しかも鉄筋コンクリートの高架線を両断するほどの鋭利な代物だと?

 スゲエ!

 でも使えねえ!

 背後から襲われた時くらいにしか役に立たねー。

 もともと防御用と考えればそれでいいのだろうが。

 しかし……やはり自分の車幅というか、寸法が分かっていないのに無茶な真似はするもんじゃないな。

 とにかく背鰭カッターと尻尾には今後気を付けるとしよう。

 俺はまたひとつ障害を突破した充実感を胸に荒川へと向かった。

 白くてやたら床面積の広い建物……確か卸売市場と倉庫だったか? それらの立ち並ぶ区画を通り抜け、俺はついに――ついに荒川の河川敷へ到着したのであった。

 第一部・完!

 ……そんな感じで一区切りをつけたいほどの達成感だが、移動距離からいえばせいぜい一キロメートルちょっとといったところだろう。

 だいたい何かが解決したわけでもないし、この悪夢が覚める気配もない。

 浮かれすぎだ。

 河川敷には大勢の市民が避難してきていた。

 花火大会かよってくらいの人混みだ。

 申し訳ないが通させてもらうぜ。

『ポォォォメェェェ~~』

 咆吼に驚いて赤く光る大量の虫みたいなのが一斉に動く……うん、気持ち悪い。

 軽く寒気すら覚える。俺はたぶん虫の大群が苦手だ。

 進路上に赤い光点が完全にいなくなったのを確認してから、俺は河川敷へ下り、荒川に入水した。

 入水――そう、景気よく飛び込みたいところだが、この巨体だ。河川敷にいる市民があふれた水にさらわれる危険もあるので慎重にならざるをえない。

 巨大怪獣にあるまじき細心の気遣いだぞ。

 ヘリで監視している連中が俺の考えを察してくれればいいが……

 とにかく大仏おばちゃんの助言通りに荒川に辿り着けた。

 川幅は二百メートルほどある。水深も十分だ。

 身長五十メートルを超える巨体でも余裕で浮く。

 ビバ、一級河川!

 水に入ったとたんにえらい勢いで俺の身体から湯気というか蒸気というか、白い煙が上がった。俺の体温はどうなってるんだ? まさか焼け石みたいに高温なのか。

 しかしこの水の冷たさは実に気持ちがいい。

 このまま荒川を下って海へ向かう――?

 何というイージー・オペレーション!

 ハハン、余裕過ぎて鼻歌でも歌いたい気分だぜ。

 軽く足で水を掻いてスイスイと前進する。実に軽快だ。

 どうやら俺の身体は陸上よりも水中の活動により適応しているらしい。

 シミュレーションゲームなら水場で移動力プラス3ってところか。

 さて、東京湾までどれくらいだ? 三十キロくらい?

 流れに半ば身を任せていても自転車より速そうだし、急がなくても二~三時間もあれば着きそうだな。

 海に出たら出たで自衛隊のイージス艦に標的にされたりとか最悪のパターンもありうるが……まあ、その時に考えればいいか。

 俺は実に呑気に構えていた。

 呑気すぎたといっていい。

 首尾よく荒川に辿り着けたことで浮かれていたのだ。

 実際プカプカ浮かんでいたんだからしょうがないともいえる。

 この頃が一番幸せだった――後になってつくづくそう思う。

 ピクニック気分はそう長くは続かなかった。

 前方に二本の橋が見えてきた頃、俺の聴覚は奇妙な『声』をキャッチした。

 飛行機の音かと思ったが、いったん泳ぎを止めて耳をそばだててみる。

『キュオ――――……』

 おっ……おおっ!?

 雷に打たれたような衝撃が俺の身体を走った。

 これはジェットエンジンの音じゃない。

 生き物の鳴き声だ――しかもの!

 さらに言えば声の主は高い処にいる。二十階建てのビルの上とか?

 方向は南東、およそ十キロ先といったところか。

 俺の耳は意外にも高性能だった。

 声の方向や距離どころか、相手のおおよその体重や居場所の高低まで把握できる。

 人間ほど小さいと判別不能だが、同じスケールならこうも詳細に分かるのか。

 さて……どうする?

 俺の目下の方針は荒川を下って東京湾に出ることだが、今の『声』の正体を確認するとなると大きな寄り道だ。

 ついでに言うとこの巨体で市街地を進むのはけっこう骨だ。

 邪魔なビルを薙ぎ倒して悠々進撃……とはいかない。

 障害物を避け、広い国道に沿って進まないと辿り着く前に日が暮れちまう。

 だが……万難を排してでも声の主とは会わねばならない。そんな気がする。

 俺が一夜にして人間から怪獣に変身したように、その声の主も同じ境遇かもしれない。

 つまり『仲間』だ。

 孤独な俺にとって何より必要なものだった。

 上手くすれば怪獣化の真相も分かるかも……そう考えると一秒でも早く会いたくなる。

 俺は荒川に架かる二本の橋を見上げた。

 手前は国道十七号、奥にあるのはJR埼京線だ。

 ……ふう。

 荒川をと下っていくだけなら楽勝だったのになあ。

 俺はひと言警告の咆吼を上げてから、河川敷に上陸し、国道十七号――中山道を南下するルートを選んだ。

 中山道も首都高と同じく乗り捨てられた自動車の大渋滞だった。

 渋滞は埼玉方面に向かう車線だけで、都心へ向かう側はガラガラだ。

 やはり……おかしい。

 埼京線は動いていないし、国道もこの状態だとすると、もしかして都内の交通機関は全面的に止まっているのか?

 まだ板橋区内だし結論を出すのは早計だが――

 情報が入ってこないことがこんなに不安だとは……せめてラジオが聴けたらなあ。

 プラモみたいな自動車を踏まないように、爪先で路肩に除けながら中山道を進むと、途中で首都高速五号池袋線と合流した。

 この高架橋……車で下を走るぶんにはいいが、怪獣にとってはスッゲー邪魔!

 いいや、もう。首都高に乗っちゃえ。

 どうせ赤塚で不通になってるんだ。俺のせいだけどな!

 俺は防音壁の一部を破り、ジャンプして高架橋に乗っかった。

 立ち上がると重心の偏りで倒壊の危険があるため、四つん這いの姿勢のままで体重を分散させつつ高架橋の上を進む。

 ……うん? 何だかとても歩きやすいぞ? さすが首都高。

 ペースが上がり、ほどなくして板橋区役所にさしかかった。

 そこで、俺が漠然と抱いていた不安が、現実の光景として目の前に現れた。

 板橋区役所のビルが……ミサイル攻撃でも受けたような有様になっていたからだ。

 最上階の一部が巨大な顎で囓られたように破壊されている。

 周辺の建物でもガラスが割れたり、看板が吹き飛ばされる等の被害が認められた。

 裏返しになったり、壁に叩き付けられて爆発炎上したと思しき車が周囲に何台もある。

 竜巻でも発生したのか――?

 そうじゃない。

 たぶん、違う。

 じゃあ何かと問われると……あまり深くは考えたくない気分だ。

 どうも嫌な予感がする。

 むしろ嫌な予感しかしない。

 それでも先へ進まざるをえない――誰に強制されたわけでもないが、真相を確認せずに逃げるという選択肢は俺にはないのだ。

 首都高を池袋方面に向かって進むこと数分。

『キュオオオォォォ――……』

 再び聞こえてきた咆吼に、俺は視線を上げて――初めて声の主を視認した。

 池袋上空に、陽光を反射してキラリと光る影が。

 それは、コウモリのような翼を広げて羽ばたくドラゴンの姿だった。

 東洋風の龍じゃない。

 両腕が翼になっている飛竜ワイバーンタイプだ。

 太くて長い尻尾も含めると体長は俺を上回るかもしれない。

 その巨体が自由に空を飛んでいる!

 さらに驚くべきことに、その飛竜は自衛隊の戦闘ヘリと交戦中だった。

 それも二機だ。

 ブーンと蜂の羽音のような銃声が聞こえる。

 ミサイルやロケット弾はすでに撃ち尽くしたのか、市街地への被害を懸念してのことか、機銃で飛竜を攻撃している。

 しかし効果的なダメージを与えられているとは言い難かった。

 なにせ飛竜の動きが素早い。

 飛行生物としてはブッチギリで史上最大だろうが、呑気に滑空なんかしていない。

 加速、急停止、反転、上昇、すべてを即座にやってのける。

 遠くから目で追うのですら混乱するほどトリッキーかつパワフルな空中機動!

 ヘリも二機で集中砲火を浴びせたいところだろうが、挟撃どころか追いすがるので精一杯という感じだ。

 飛竜はいったん直線飛行で離脱すると見せかけ、競泳のクイックターンよろしく瞬時に反転して、追いすがってきた二機のヘリの間をすり抜けた。

 おそらく飛竜の翼が起こ烈風に煽られたのだろう、二機のヘリは機体の安定を失って錐揉み状態になる。しかしさすがは自衛隊、すんでのところで体勢を立て直し、地表への激突は免れた。

 ……あ、ヤバい。

 安堵したのも束の間、飛竜が急降下してくる。

 おいおいおい! 今攻撃されたら間違いなく撃墜される!

『ポメェ~~~~~~ッ!(訳:あぶねえぇぇぇっ!)』

 静観するつもりが思わず声が出た。

 俺の呼び声に驚いたのか、飛竜はヘリへの攻撃を中断して反転、急上昇した。

 ほぼV字の軌道――どんな飛行能力だよ。

 もはや鳥どころじゃねえよ。虫だよ虫。トンボかお前は!?

 これがホントのドラゴンフライ……とか言ってる場合じゃない。

 誘導ミサイルとか撃っても当たるのか、あれ?

 自衛隊のヘリは攻撃を諦めたらしく、飛竜から距離を取った。

 飛竜の方もヘリに対する興味を失ったらしい。

 空中を旋回しながら地上に――つまりこの俺に注意を向けている。

 ここに至っていくつかの疑問の答えが出た。

 どうして俺の監視がただのヘリ一機だったのか――?

 暴れた覚えもないのに交通機関が止まっているのは何故なのか――?

 原因はこの飛竜だ。

 俺なんかよりも優先して対処すべき事案があったというわけだ。

 ………………

 …………

 ……たはは。

 いや、参ったね。

 大物ぶってた自分があまりにも恥ずかしい。

 この俺を放っておくとは何事だとか、事情も知らずに生意気言ってゴメンね。

 空飛ぶ大怪獣の相手で手一杯なのに、俺みたいな小物にも抜かりなく監視の目を光らせるなんて、さすが日本が世界に誇る自衛隊だわ。お見逸れしました。

 俺が掌返して大絶賛していることをどうにかしてお伝えしたいんだが――されても困るだろうが――生憎とそれどころじゃなさそうだ。

 この俺はあくまで人畜無害かつ友好的な怪獣として、自衛隊の皆さんのお手を煩わせることがないよう穏便に振る舞うのが基本方針だ。

 ところがこの飛竜は……すでにバリバリに戦っている。

 戦ってしまっている。

 言うなれば不良である。

 いっそテロリストだ。

 それは言い過ぎにしても暴れん坊には違いない。

 器物損壊だけでも被害額がいくらになるのか分かったもんじゃない。

 総額にしてウン千万円どころか軽く億単位だろう。

 ん? それを言うなら高架橋を壊した俺も同じか。

 人間から見ればどちらも害獣であり、怪獣だ。

 排除すべき異物。

 人類の敵。

 うう……いかんぞ!

 これは、非っ常~に、マズい事態だ。

 飛竜の方は平気かもしれないがこっちはそうはいかない。

 何せ鈍足だ。

 ミサイルなんか誘導しなくても狙えば当たる。

 多少皮膚が厚かろうが関係ない。

 集中砲火を浴びせられようものなら、たちどころに全身穴だらけ、蜂の巣の血だるまになって死ぬな……いや、死ぬね!

 同じ怪獣同士のよしみで飛竜と友達になるか?

 それとも自衛隊の味方をして飛竜と敵対するか?

 さあ――どうする?

 どうするよ、俺!?


         ★


 ……とまあ、以上が『これまでの経緯』なわけだが、ご理解いただけただろうか。

 ①朝起きたら巨大怪獣になっていた

 ②大仏おばちゃんのアドバイスで荒川を下る

 ③池袋で飛竜と遭遇←New!

 取り急ぎこの三点だけ押さえてもらえれば……あん?

 要約すれば三行で済む内容をダラダラと長話しやがって――だと!?

 大仏おばちゃんのくだりはいらねーだと!?

 伏線だよ!

 ウソだけどな!

 どこから説明すりゃいいか分かんねーから順を追って語ったんだよ!

 実のところ俺が何も分からんということは十分に伝わっただろうが!

 何せ、今の俺は自分がどんな姿をしているのかすら分からんのだからな!

 我ながら有益な情報がなさすぎてビックリだよ!

 とにかく大仏おばちゃんをdisることだけは神が許しても俺が許さねー。

 分かったか!?

 分かればよろしい。

 俺だって鬼じゃない。

 怪獣だけど。

 ……いかん。

 つい興奮してしまった。

 しかし興奮するなと言われても無理ってもんだ。

 飛竜にガンガンプレッシャーを受けている最中だからな。

 このプレッシャーってのも物理的な風圧と心理的な威圧のダブルときた。

 薄々気付いてはいたが、あの飛竜……まったく話が通じねー!

 怪獣同士なら言葉が通じるんじゃないかと淡い期待を抱いていたが……甘かった。

 相手の声を俺が翻訳できない時点で無理だと悟るべきだったのだ。

 飛竜の方も自衛隊の戦闘ヘリと一戦交えたばかりでピリピリしてるんだろう。

 冷静に対話を試みるには最悪のタイミングといえる。

 俺には元人間の自覚があるが、飛竜はどうなのか。

 俺だって怪獣の巨体で動いているうちに何となく楽しくなってしまうくらいだ、あれだけ自在に空を飛べたらさぞかし愉快痛快だろう。

 元は人間だったとしても、もはや人間性は消え失せているかもしれない。

 あるいは本能が理性を上回っているとか?

 日本には『人の形をしたモノには魂が宿る』という伝統的な考え方がある。

 だったら逆もまた然り、とは言えないだろうか。

 俺なんかはいまだに怪獣の着ぐるみを着込んだ人間の気分でいるが、その点あいつは違う。どう見ても中に人が入っている感じがない。

 質感もすげーリアルだし、動きが凄すぎるし、第一綺麗すぎる。

 特殊メイクどころか、あんなもんCGだろCG!

 仮にハリウッド産だとすれば言葉が通じないのも道理か。

 ともあれ、人間のプロポーションから離れるということは、魂の有様も異形のそれに変化してしまうのではないだろうか。

 幸いというべきか、今のところ俺には破壊衝動らしきものは湧いてこない。

 もともと平和主義者なのか、身体の仕組みからして積極的に攻撃するよりも防御を固めるタイプだからなのか。

 飛竜はどう見ても『攻撃は最大の防御』ってタイプだよな。

 戦ってみて不利だと思えば飛んで逃げればいいわけだし、面倒な防衛戦略は必要ない。

 飛べるって超有利!

 飛竜と友達になるか、自衛隊の味方をするかの二者択一っぽいことをさっき言ったばかりだが……たぶんどっちも無理だ。

 むしろ八方塞がりっぽいぞ、この状況。

 一応『逃げる』という選択肢はあるが……それも見逃してくれればの話だ。

 現状、俺は首都高から明治通りに降りてしまっている。

 正しくはというより足を踏み外して転げ落ちたわけだが。

 池袋から速やかに離れるとなると退却する先は王子方面だ。

 俺は飛竜を刺激しないように肩の間に首を引っ込め、目を合わさないようにしながら、四つん這いのままと後退した。

 我ながら卑屈極まりない姿勢だとは思うが、とにかく相手が悪すぎる。

 飛竜は間違いなく食物連鎖のピラミッドの頂点に君臨する生物だ。

 俺のように水陸両用の爬虫類にどうにかできる存在じゃない。

 注意を払うにも値しない雑魚だと判断して無視してもらえればもっけの幸いだ。

『グルルルルゥ……』

 飛竜が喉を鳴らした。

 うわ~……唸ってるぅ……

 動くなよ……こっちにゃ敵対の意思はないんだからな~……

 自衛隊のヘリが牽制してくれないかなーとちょっぴり期待したが、さすがに無理だと悟った。自衛隊からすれば怪獣二匹を同時に相手はできないし、むしろ怪獣同士で潰し合ってくれれば好都合と考えているはずだ。共倒れにでもなれば万々歳ってところか。

 あ~また胸焼けが……これってやっぱりストレスが原因なのか?

 わずかな気圧の変化を鼓膜で感じた直後、急に背中が重くなった。

 え?

 まさか――ウソだろ!?

『キシャアアアアア――ッ!』

 真上というか耳元で怪鳥のごとき咆吼を聞かされた。怖いしうるせえ!

 尖った嘴でガツガツと脳天をつつかれる。

 キャー! イヤー! やめてやめて!

 俺は完全に頭を甲羅の内側に引っ込めた。すると今度は腕を突かれたので両腕も引っ込める。ついでに両足と尻尾も収納して完全防御態勢をとった。結果、視覚も聴覚も遮断することになり、周囲の状況はもはや臭いくらいしか分からなくなる。

 まあ今さら説明するまでもないが、俺はカメ型の怪獣――だと思う。そのはずだ。

 自分の姿を客観的に見られないので断言はできないが、少なくとも胴体は背中も腹も分厚い甲羅で覆われている。甲羅のある生物といえば他には河童しか知らないが、もし河童ならさっきの攻撃で頭の皿を割られて死んでいるところだ。

 頼もしいことに俺の甲羅は飛竜の嘴や脚のかぎ爪よりも硬いらしく、突き破られそうな気配はなかった。

 とはいえ執拗に嘴で突かれたり爪でガリガリされるのは生きた心地がしない。

 まさかこの飛竜、俺を食おうとしてるんじゃ……?

 俺なんか食っても美味くないって! お腹壊すよ!

 うぬぬ……何かこう、戦わずして敵を撃退できる能力はないのか?

 猛毒なんて贅沢は言わない。スッゲー臭い屁をかますとか、そういうのでいいから!

 ……おっ?

 執拗な嘴の攻撃が止んだ。諦めてくれたのかな?

 背中がフッと軽くなる――離れた? やったぜ!

 解放されたと思って喜んだ俺だったが、その喜びはすぐに不安に変わった。

 軽くなったのは背中だけじゃない。まるで水の中に入ったような浮遊感――

 俺の身に……何が……起きている?

 恐る恐る甲羅から頭を出してみる。

 視界が開ける。

 そして俺は――チビりそうになった。

 眼下に池袋の街並みが広がっている。

 五十メートルの高さからの眺め……じゃない!

 俺は、空を、飛んでいた。

 飛竜の両脚の爪が、俺の背中の甲羅をガッチリ掴んで吊り下げている。

 体重は俺の方が重いはずなのに余裕で飛んでやがる……スゲーなお前!

 現在の高度はおそらく三百メートル以上だ。

 どうして分かるかって?

 それはな……サンシャイン60が下の方に見えてるからだよ!

 怪獣のスケールで高度三百メートルってどんな感じかって?

 人間のスケールに直すと……ええと、ビルの四階くらい?

 そう考えるとたいしたこと――あるよ! 高いよ! 超怖えよ!

 学校の校舎の二階からだったら飛び降りても無事に着地できるかもしんねーけど、四階から飛んだら死ぬか生きるかどっちかだろ!? つまりリアルに死の予感!

 飛竜は大きく旋回し、高度を少し下げた。

 正面にサンシャイン60が迫ってくる。

 おい、ウソだろ……だよな!?

 俺は飛竜の考えを理解した――こいつ、だ。

 俺にできたのは、再び首を引っ込めて最悪の事態に備えることだけだった。

 重力の感覚が消失し――直後、襲ってきたのは凄まじい衝撃だった。

 言葉で説明しようにも俺の語彙ではちょっと表現に困る。

『ドッギャ――ン!』だの『ズゴドゴバガァァァン!』だのと擬音だけで表現したところで要領を得ないだろう。

 自動車の衝突実験のダミー人形になった気分というか……

 鞄から出してみたら中身が偏ってた弁当箱の気分というか……

 とにかく猛烈にシェイクされた感じ。

 要するに最悪の気分ってことだ。

 甲羅から頭と両腕を出す。

 フロアの様子は……よく分からんが、とにかく瓦礫の山だ。

 俺がぶち抜いたのはサンシャイン60の四十階から五十階の間にあるオフィスらしい。

 足と尻尾を伸ばしてジタバタさせてみるが、床の感触がなく空を切るばかり――下半身はビルの外というわけか。

 こいつは洒落にならんぞ……高架橋の上で往生しかけた時よりもヤバい事態だ。

 両腕で突っ張って身体を押し出そうとしても、どこかで引っかかっているのかビクともしやがらねえ。

 これは『百舌モズ早贄はやにえ』みたいな状態か?

 クソッ……飛竜の野郎め、どういうつもりだ?

 キープしといて後で食うつもりなのか? そうなのか!?

 うう……胸糞悪い……吐きそう。

 この場で戻すとか地獄だぞ――などと考えていると、不意に尻尾をペンチみたいなもので挟まれた。

 痛い痛い痛い!

 凄い力で後ろに引っ張られ、俺の身体はサンシャイン60から引きずり出された。

 何処の誰だ!?

 誰でもない、飛竜の仕業だった。

 ビルに突っ込んだくらいじゃ死なないと知って、今度はもっと高い位置から落として完全にトドメを刺すつもりらしい。

 尻尾を掴んで引き出された俺の身体は、振り子のように弧を描いた。

 サーカスの空中ブランコみたい――と思う間もなく、飛竜が尻尾を放しやがった。

 甲羅を掴んで地上から離陸するのはOKでも、ホバリングの状態から尻尾を掴んで俺の巨体を吊り上げるのは無茶だったのか……それともわざとやったのか。

 わざとやったのだとしたら性格悪すぎだろと言いたい。

 俺はサンシャイン60と道路を挟んで対面する青い香水瓶みたいなビルに頭から突っ込み、跳ね返って首都高の高架橋の側面に激突、その後にようやく地面に墜落した。

 これは……効いたぜ……

 今度ばかりは鉄壁の防御力を誇る甲羅も凹んだかもしれん。

 それくらいのダメージがあった。

 当分寝ていたかったが、胸のムカつきが急激にMAXまで跳ね上がったので慌てて身体を起こし、喉を駆け上がってきた熱い塊を路上に吐き出した。

 ケロン、てな感じで口から飛び出したは胃液ではなく――オレンジ色に光る、溶岩のような、ドロッとした樹液というか、だった。

 ……何なんだ、これ?

 硫黄のような刺激臭が鼻をついたかと思うと、そのゲル状の物体は真っ赤な炎を噴いて激しく燃え上がり――爆発した。

 驚いて反射的に立ち上がった俺は、爆発の圧力に押されて後方にゴロンと一回転する。

 熱い熱い熱い!

 爆炎をモロに食らって炙られた鼻先を手で叩く。

 あ、熱い……!?

 俺はいったい何を吐き出したんだ!?

 目覚めて以降ずっと感じていた胸焼けの感覚が消えていた。

 まさか原因は……喉の奥に詰まっていた液体燃料だったのか?

 吐き出したことで空気か何かと反応して爆発的に燃焼した……?

 まるでナパームだ。

 そんなものをいったいどこで呑み込んだんだ!?

 呑み込んだ――?

 いや待て……そんなロケット燃料みたいな危険物が街中にあるか?

 飲み込んだ物じゃないとすれば……俺の体内から出てきた可能性は?

 つまり俺の体内に『ナパーム袋』的な器官があって、そこで作られたゲル状の爆薬が喉の奥までせり上がってくる――そういう身体の仕組みなのだとしたら!?

 確認するにはもう一度胸焼けの気分を味わう覚悟がいる。

 体内のことなので何をどうするかは説明しにくいが、わざとゲップをする要領で腹筋と横隔膜に力を込める。

 すると、すぐに胃の辺りから熱い塊が胸に上がってきた。

 こっ……こ・れ・だ!

 やはりそうか。これは俺のだ!

 試しにもう一度吐いてみるか――いや、やめておこう。

 これは武器だ。しかも切り札になりうる強力な武器なのだ。

 練習なんてしている場合じゃない。

 飛竜にそれと悟られるわけにはいかないからだ。

 しかし目の前にボトッと落ちるような代物じゃ役に立たない。

 もっと遠くへ撃ち出さなければ……唾や痰を吐くように?

 呼気の圧力を高めれば空気銃の原理で射程距離を伸ばせるのでは?

 鼻から息を吸い込んでみる。

 しかし甲羅という固い殻に包まれているせいか、胸を膨らませて空気を溜め込むことができない。

 しかし肺の容量自体まだまだありそうだ。

 そうだ。腹式呼吸ならどうだろう。

 胸ではなく下腹に空気を溜める感覚でやる呼吸法だ。

 横隔膜を逆に使う感じで腹式呼吸を試す。

 ……あれ?

 身体に空気が入っている感覚はあるが……鼻からは吸っていない?

 どういうことだ?

 俺は何度か腹式呼吸を繰り返した。口と鼻を閉じた状態でも空気が吸えている。

 そのうち脇腹の辺りに空気の流れを感じて手を当ててみた。

 腹式呼吸に合わせて、脇腹に空気が吸い込まれていくのが分かった。どうやら背甲と腹甲の間に空気の出入りするスリットがあるらしい。

 空気吸入口エア・インテーク

 それともえら

 俺の脇には鰓がある……のか?

 俺の知る限り、一般的なカメにこんな器官はないはずだ。

 するとやはり……俺は単純に巨大化しただけのカメではないということか。

 さすが怪獣だ。

 しかしこの脇鰓から吸い込まれた空気はそのまま肺に入っていく感じじゃないな。肺とつながってはいるが別の器官に送られているような――

 そうか、気嚢きのうだ!

 気嚢というのは鳥が持っている呼吸器官で、筒状になった肺の前後につながっている。鳥はこの気嚢を膨らませたり萎ませたりして常に新鮮な空気を肺に送り込むことができるため、ほ乳類の横隔膜よりもずっと呼吸効率が高いのだ。

 おっ、これは自前の知識っぽいぞ。

 といってもどうせ動物図鑑か何かで読んだ程度だろうが……

 人間の感覚で横隔膜を動かしていると思ったが、実は気嚢を使っているのか。あるいは両方持っていて使い分けができるのか。気嚢にせよ横隔膜にせよ、甲羅が邪魔をしているのに十分な働きができているのか?

 自分の身体のことだ、よく考えろ。

 もしかして……この気嚢はポンプとボンベの両方の機能があって、脇鰓から取り入れた空気を圧縮して溜め込んでいるのかもしれない。『ナパーム袋』に続いて『圧縮空気袋』みたいなものが体内にあるとすれば――?

 ナパームと……圧縮空気……?

 燃料と空気!

 こんなに相性のいい組み合わせが他にあるか!?

 頭上を巨大な影が通過し、烈風が吹き抜ける。

 飛竜め……俺が無事なのを知って次の攻撃の機会を窺っているらしい。

 今の俺は高いビルと首都高に挟まれた隙間の位置にいるため、空中から急降下して強襲するにも角度が限られる。

 飛竜の考えは読めていた。

 頑丈な甲羅を砕くため、さっきよりもずっと高くまで俺を運んで落とすつもりだ。

 あの飛行能力なら千メートルくらいまで余裕だろう。

 さすがの俺もその高度からの墜落には耐えられまい。

 甲羅が割れなくても中身の方が無事に済みそうにない。

 ……やるか?

 さもなくばやられるかだ。

 俺は頭と手足を甲羅に引っ込め、防御態勢をとった。

 ただし首は少し出して、視界を確保している。

 ここが安全地帯だとタカをくくっていると思わせればいい。

 あるいはもう俺なんか構うのも面倒臭えと無視してくれればなおよし。

 すぐに襲ってくるかと思いきや、飛竜はいったんサンシャイン60の屋上に降りてこちらを窺っている。

 凶暴なくせに妙なところで冷静だから困る。

 そうだ、首都高の高架橋に沿って進めば空からの攻撃を避けられるんじゃないか?

 行動範囲は大幅に制限されるが、荒川に戻りさえすれば――

 そういえば首都高って荒川の近くを通ってたっけ……などと雑念で気が緩んだのを悟られたのか、音もなく急降下してきた飛竜が頭上に迫っていた。

 背中に乗られるとマズい!

 俺は瞬間的に腕立ての要領で地面を押し、同時に尻尾を振る反動を利用して直立した。

 驚いた飛竜が翼を広げて、急停止する。

 急上昇して躱す暇なんか――与えるかよ!

 俺は大きく口を開き、喉までせり上がってきたゲル状爆薬を、気嚢に溜めた圧縮空気を利用して勢いよく吐き出した。

 散弾のように拡散したマグマ色の爆薬が、飛竜の身体に、翼の膜に付着する。

 ……あれ?

 爆発……しない!?

 実時間にしておそらくゼロコンマ何秒かの遅延だろうが、体感としては数秒遅れで、ようやくナパームが発火した。

 飛竜の身体のあちこちから真紅の炎が噴き上がる。

『ギュオオオオォォォ――ッ!?』

 飛竜の喉から悲鳴が上がった。効いてる効いてる!

 そのままヤキトリになっちまえ――と思ったが、しかし、飛竜は羽ばたいて抵抗した。

 翼の巻き起こした風でナパームが周囲に飛び散る。

 まだ完全に燃焼反応の起きていないナパームの滴が俺の足元に、首都高の高架橋に、隣のビルの壁面に張り付いた。

 ……おい待て……こいつは……?

 もしかして……いや、もしかしなくてもヤベえ!

 敵陣に放り込んだ手榴弾を投げ返されて慌てふためくマヌケな兵士の気分だ。

 大急ぎで後退しようとした俺の視界は、網膜を焼かんばかりに目映く輝き膨れ上がる爆炎の色に染まった――


         ☆


『……はい、カ――ット!』

 特技監督から声がかかる。

 爆薬による炎が上がるオープンセットに助手たちが駆け込み、炭酸ガスを撒いて火を消し止めた。クレーンで吊られて操演されている飛竜のプロップも消火されたが、こちらは火の勢いが強かったため真っ黒だ。いい出来だったのにもったいない。

 俺も火薬の煙を吸って喉を少しやられていた。二人の助手に両腕を抱えられながらセットを出ると、特技監督が笑顔で歩み寄ってきた。

 着ぐるみの甲羅と首筋の間に隠されているファスナーが開放され、汗だくのスーツアクターが顔を出す。頭にタオルを巻いた髭面のおっちゃんだ。

「お疲れ様でした! 今のカットでオールアップです」

 監督と握手を交わすスーツアクター……って、あれ?

 ………………

 …………

 ……俺は?

 セットの片付けはどんどん進んでいき、スーツアクターが抜け出した後のは美術スタッフに回収され、埃っぽい倉庫に運び込まれた。

 撮影が終わった後の怪獣の着ぐるみなんて、映画が大ヒットして続編が作られたりしない限りもう用済みだ。イベントに貸し出される予定がなければ、手入れもろくにされないまま倉庫の奥で朽ち果てていくだけ――

 あれからどれほどの月日が流れただろう。

 お呼びがかからないってことは、やっぱりヒットしなかったんだな。

 この倉庫、けっこう湿気があってカビ臭いんだよなー。

 後に映画が再評価されて資料として引っ張り出されることもあるかもしれないが、その頃には劣化してボロボロになってるんだろうなー。

 暇だなー……

 寂しいなー……

 ……ん? 何か焦げ臭いぞ?

 まさか……火事!?

 いつの間にやら辺りは火の海だ。

 おおい! 誰か! 誰か助け――


          ☆


 目覚めたとたんに煙を吸って咳き込む。

 空気が焦げ臭いうえにひどく埃っぽい。

 口と鼻を閉じ、気嚢に溜めた圧縮空気を肺に回して酸素を確保する。

 身体が……背中が重い。

 両手両脚で踏ん張って身を起こすと、背中に乗っていた大量の瓦礫が崩れ落ちた。

 そこでようやく俺は瞼を開けて周囲を見回す。

 視界に飛び込んできたのは、炎だ。

 サンシャインシティが……燃えている。

 それだけじゃない。

 すぐ傍の高架橋も、香水瓶みたいなビルも、無残に破壊されて煙を上げていた。

 まるっきり爆撃の跡だ。

 飛竜の姿は――見当たらない。

 飛んで逃げたのか。まあ、そうだろう。

 気を失っていたのはそう長い時間でもないらしい。夕方と呼ぶにはまだ早い。

 延焼の具合から見ても、経過したのはせいぜい三十分といったところか。

 それにしても――

 朝、目が覚めたら巨大怪獣になっているというだけでも十分なのに、気を失っている間に見ていた夢がそれと同じくらい不条理な悪夢ってのはどういうことだ!?

 悪夢から目覚めたのにまた悪夢ってのは……マジで勘弁してほしい。

 しかしこの破壊っぷりは想定外だった。

 俺の体内で生産されたナパームは思った以上の威力があったらしい。

 しかし狙い通りに命中と同時に爆発していれば飛竜だけを仕留められたはずだ。

 そうならなかったのはナパームの濃度や粘度、圧縮空気との混合比、吐き出す勢いなんかの条件が上手く調整できなかったせいだろう。

 つまりは研究不足&訓練不足だ。

 ぶっつけ本番だったからしょうがないとはいえ、危うく自爆するところだったぞ。

 俺は人間としての記憶を失っていると考えていたが、逆に考えれば『怪獣としての記憶』も喪失しているといえるのかもな。

 自分の身体の仕組みがまるで理解できていないのがその証拠だ。

 この必殺攻撃はひとまず〈ナパーム・ブレス〉とでも命名しておくか。

 次に飛竜と戦うことがあるなら、その時はもっと上手く使わなければ……

 いや、使うのは控えた方がいいかもしれない。

 何せこの威力だ。下手に撃ちまくったら東京大空襲以来の被害になりかねん。

 そして……ああ、何てこった!

 人類の敵と思われないように振る舞うはずが……これじゃ完全に破壊の化身だ。

 違うんだ!

 俺のせいじゃねえ!

 九割方あの飛竜が悪い!

 この訴えはどこへ持ち込めばいいのか……裁判になってもまず勝てそうにないけど。

 うう……落ち込むぜ。

 最悪だ。しかも俺自身が災厄ときてる。

 ……って、別に上手いこと言いたかったわけじゃないからな!

『――二十点ですね』

 おお、天から大仏おばちゃんの声が響いてくる。

 そして意外と駄洒落に厳しいときた。

『若者よ、当初の予定通りに荒川を下って海を目指すのです』

 やはりそれしかないか……そもそも寄り道したのが間違いの元だったわけだし。

 OK、了解したぜおばちゃん。

 もし今度、他の怪獣の鳴き声を耳にしても近寄らないことにしよう――

 俺はそう固く決意して歩き出した。

 なお、大仏おばちゃんの声が聞こえたのは幻聴であり、俺の妄想である。

 自問自答しているだけなので心配には及ばない。

 これが幻聴ではなく本物だと信じ始めたら本格的にヤバいと思ってもらっていい。

 大丈夫。

 俺は……まだ、大丈夫だ。

 今はそう信じていたい。

 信じさせてくれ。



 










 ひとまず現状で判明している怪獣のデータをメモっておこう。


[俺的怪獣図鑑]その①

■ファイル№1【火を吐く鈍亀】

[名称]なし(俺)

[身長]およそ五十メートル

[体重]不明。甲羅の分だけ重い。

[分類]カメ型陸棲怪獣

[移動力]D/直立二足歩行。

[地形適応]陸・水

[機動力]陸D/水C

[攻撃力]A/ナパーム・ブレス……口からゲル状の爆薬を吐く。

[防御力]A/甲羅による分厚い装甲。

[備考]元人間の平和主義者。ノロマ。甲羅の脇に鰓(?)がある。


■ファイル№2【空飛ぶ暴龍】

[名称]紅蓮飛竜(仮)

[身長]六十メートルくらい? 翼幅は百メートル超え。

[体重]不明。軽そう。俺の半分くらい?

[分類]ドラゴン・ワイバーン型飛行怪獣

[移動力]A/翼による高速飛行。

[地形適応]空/地上戦はたぶん苦手。

[機動力]A/トンボ並みの空中機動。

[攻撃力]C/羽ばたきの衝撃波。嘴と爪。拉致って投げ捨て。

[防御力]C

[備考]暴れん坊。話が通じない。

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