出入りし過ぎる男

杓井写楽

第1話

シャールは夢を見ました。右腕と右脚のない、顔の割れたグレブさんの夢を見ました。白い霧に沈んだ枯れた白木の林で、シャールはグレブさんとふたりきり、ふたりとも、湖に浸っていました。シャールは座って、青いズボンをひたひたにして、グレブさんは体を横たえて、割れたお顔以外の身体全てが、湖の浅瀬に転がって、お水を吸っていました。グレブさんのお身体が欠損だらけだったものですから、それにグレブさんは、それを自覚しているわけでもなさそうだったものでしたから。シャールは、僕にできることはない、そう思って、何も変わらない日常をなぞるように、グレブさんに穏やかな顔を与えていました。シャールはこのままグレブさんがおやすみになれば、それが彼の最後であると、わかっていました。グレブさんが、シャールが、こんなところにきてしまうずっとずっと前に、彼に言いたかった言えなかったいろんな事を思い出しながら飲み込み、なんともない頃、彼等の長い長い永遠のように続いた変わらない日常と言えた頃、シャールがグレブさんの所有物に触れもできなかった頃に、同じく触れもできなかったグレブさんの御髪を、やっと優しく優しく撫ぜるような、そういう夢を見たのです。


「シャール君は」

はい

「君はいつからそんなに強く?なったのですか?まるで怖いものがないみたい。いつかのきみとは別人みたいだ。」

あなたが砕けてねていた間に、僕は色んなものを捨てたのです。

「僕は長く眠っていましたか?」

いいえ。少しだけだった。レンチがあなたを待っていました。

「僕はまだ、ここがどこだかわからない。レンチは誰のものですか?」

まるでレンチがグレブさんのひとじゃない世界があるみたいな言い方ですね

「変な気がする」

何がでしょう

「なにがだと思う?」

わからないですよ 僕には

「シャール君は、そんなに態とらしく笑っただろうか?元々ですか?もしかしたら僕が死ぬ前いた世界とは少しだけ 君の意識がずれていて、もしくは進んでいて、君は少しだけなにかのままに行動できるようになっているのかもしれない ぼくは きみのこと、とても大事におもいます。ああ、僕、みんなにもあわなければいけない、今すぐみんなにあわなきゃ レンチは ひじりは?れっくんは?」

寝ています。夜中ですから。レクト君も。

「そうなのですか、ぼく お寝坊なのか 早起きなのかわからないな。れっくんの寝ている期間に目覚めるなんて 僕は運が悪い みんな、僕が起きたのに寝てるなんて」

朝になればみんなに会えますよ

「君はどうしておきてるの?」

眠れないのです いつの間にか 目が冴えて 横になっていても仕方ないから

「僕にあいにきてくれたのですか?」

ねえ グレブさん

「なあに?」

朝になればみんなに会えますから

「うん」

僕はいますから

「うん」

もう少し眠りましょう 変な時間に起きていると明日眠れなくなってしまいます レクト君が起きてれば、はやく寝てくださいって言うと思いますよ

「うん」

ね だからおやすみしてください


シャールは、またグレブさんを撫でました。延々と撫でていました。シャールはこの湖が、シャールの個人世界の氷の溶剤の湖だとは、言いません。言えませんでした。


/


シャールの夢は、夢にしてはシャールの現実に手を伸ばしすぎているようにも感じられました。夢のグレブさんが、起きても湖に横たわっていたからです。シャールは、夢で見た湖が本当に自分の世界の湖だったのかを確かめるために、朝起きてすぐにここに来ました。眼窩を中心にしてひび割れたグレブさんのお顔が水面に浮かんでいます。この光景を見るのはこれが初めてですが、夢をカウントするなら2回目です。黒字に赤色を貼り付けたみたいな目があった窪みは深いわけでも暗すぎるわけでもないただの穴で、放射状の亀裂の中心にありました。亀裂は細い顎まで伸び、赤い耳まで伸び、丸い額まで伸び、グレブさんの顔を分断していました。グレブさんのことは殆どお顔で認識していたので、グレブさんが分断されて、破壊されているのと相違ない情景でした。シャールは跪いて、シャールの乾いた唇が、眼窩の淵をなぞるくらいに近付いて、彼の名前を呼びました。返事はありません。顔を離さず、質感を凝視しながら、指で、眼窩から顎にかけての亀裂をなぞります。返事はありません。亀裂は指紋にぷちぷちと引っかかるように、人差し指の腹を引っ掻きました。柔らかなほっぺただったはずなのに、高い鼻梁だったはずなのに、過去にそういった肌だったものがそのまま安物の像になったかのような手触りで、精密なのにあっけないほど簡素で、硬く乾いていました。シャールの世界ではいくら雨が降っても降っても降っても湖の水位は変わりません。シャールは寂しくも寂しくなくもない心を放り投げるみたいに、乱暴な首の動かし方で白い空を見上げました。珍しく雨が止んでいました。グレブさんの身体で乾いているのは、ミニチュアの島のように湖上に取り残された、半分の顔面だけです。「どうして僕の世界にいるのですか。」シャールはそれが愚問だと気付いていました。シャールが連れてきたからです。「どうして僕の世界でこうなったのですか。」それも、どれもこれも、愚問、自作自演、自問自答です。シャールはグレブさんを自分の世界に招待して、自分のテリトリーに閉じ込めてしまいました。シャールは昨日の夢を、起きてすぐに書き留めていました。ねえその時点で、この湖にくれば、割れて動かず復活の道を閉ざされたグレブさんに出会えると知っていたのではないですか?シャールの世界に初めて上がったシャール以外の死体が、グレブさんになったのはどうしてでしょうか?シャールの世界に初めて上がったシャール以外の死体が、グレブさんになったのがどうしてかが、シャールにわからないはずがありませんでした。なんで、死んだか、わからない、ここで死んだのかもわからない、わからない、わからないと言っておけば、確定していく現実から、確実に抜け出せる……本当にそう言えますか?シャールは心の隅で不安をもみもみとしました。この世界でグレブさんが蘇るとしたら?シャール「様」の為の白く曇った世界に、グレブさんが生きて蘇る未来の可能性があるとしたら……。シャール自身でしたことなのに、自身の不安が小さく早足で追いかけてきました。追いかけっこ、追いかけっこなのです。生き返るはずのないグレブさんの生きた影が、ひとマスずつ追いかけてきて、シャールがそれをひとマスずつ引き放すのです。距離は縮まらないけれど、引き放せもしません。シャールは涙も出ない重苦しい頭をゆっくりと使いながら、糸を弾いたような低い耳鳴りを聞いていました。


「知りません。分かりません。」


/


白いカーテン越しに、遠くに連なる灰色の山々と白い空が見えています。空が白過ぎて、窓を叩いているしとしと雨が、視覚では全く認識できません。シャールはベッドに横たわり、窓の外をずーっと、ずーっと見つめています。病人のように。頭が使えません。脳みそのしわが一つ減ったみたいに。シャールの世界にグレブさんが現れた理由は、シャールにとってはわからないふりをしておくべきものです。悔しい悲しい辛い情けないどうして自分がこんな事をしたかぴんとこない理由です。グレブさんに、シャールはそれほど嫉妬していたでしょうか?むしゃくしゃしていたでしょうか?複雑ではあったけれど、グレブさんのこと、恨んだでしょうか?ひとりでに流れ着いたのではないかと、まだ心のどこかでは、本気で信じています。流れ着いたかのように水辺に横たわり、ひび割れて……。シャールは責任を感じていました。シャールは自分勝手ですが、完全に自分勝手ではないからです。責任を感じるべきかそれは適切ではないのかも判断できないでいました。シャールはシャールの世界にずーっと引きこもっています。引きこもるその少し前、表の世界からオルロレンチが消えました。オルロレンチもここにいます。シャールの所為で、シャールの手で。「うう」崩れる涙腺への答えのように、唸りました。涙腺は、崩れていません。こんな時だからこそ泣けません。何もかも山積みである気分です。しなくちゃいけない謝罪がいっぱいいっぱいで、整理しなくちゃいけない死骸がいっぱいいっぱいで、自分だけの世界に自分では制御できないものがいっぱいいっぱいで、もうだめだと頭に爪を立ててうずくまりました。シーツが崩れて、シャールの脚に絡まりました。表の世界にはレンチもいない、グレブさんもいない。突如、発作がきたかのような唐突さで、頭に静寂が訪れました。意識的にやったことでもなし。知りもしないことであるし。漂流してきただけなのです。荒波を鎮めて、シャールは自己を眺めました。深呼吸をしました。シャールは漂流を傍観しています。漂うものを追うなんて。また、無理に因果を追うなんて。シャールがグレブを引きずり込んだのかもしれません。引きずり込む理由なら、少しシャールがシャールに寄り添えば生まれるものなのですから。後ろめたいことなんてひとつもないのに後ろめたい後ろめたい人生でした。でも今は?逆ではないですか?シャールは今、後ろめたいことを明確に言葉にできます。なのに何の後ろめたさもない。本当はレンチにもグレブさんにも、悪いなんて思ってない癖に。

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