二度目の空

杓井写楽

第1話

ひじりがザインを発見したのは、夜中になってからでした。この世界に来たばかりの、それも最近よくぶっ倒れてはゲロを吐いているザインが、ひじりが心配していたとおりにぶっ倒れてゲロを吐いていたのでひじりもほとんど気が気じゃなくなりながら、ザインを風呂場に引っ張ってって、昏睡させたままに汚れたところを綺麗にして、とりあえず体が冷えないうちに自分の部屋のベッドに裸のまま寝かせました。いつから倒れていたかはわかりませんが、家の前に近いところにいたので決してそんなに時間は経っていないと予測しました。でも、彼の苦しみは、永遠みたいなもんだって、ひじりは知っていました。それを、ひじりは自分の責任っちゃ責任だと思っていました。ザインの体の造り主はひじりです。ザインは違う世界から来ている6人のうちの1人で、最もこの世界の体との相性が悪く、ひじりが最も、今この世界において最も、気にかけている人物でもあります。いつも、この世界に酔ったみたいに、食事をした日はその食事を、食事をしなかった日は退化した水っぽい胃液を吐きました。倒れることも多かったのですが、嘔吐も、それも大体、同じく異世界から来ていたモーモーちゃん、そう呼ばれている青年が面倒を見ていてくれました。あまりにひどい時はひじりのところに相談に来ていましたが、それもザイン本人が、ではなく、モーモーちゃんがです。ザインにはどうにも、自分の体の不調も、ひいては自分の命さえも、どうしても関心が持てないようでした。それは病的とも言える程度にでしたが、そればっかりはこの世界に来ているからやけになっているわけじゃなく、あっちの世界にいる時からだと、モーモーちゃんは話してくれました。

「この人の事は俺にもわかりません。」

彼はそう言いましたが、それでも彼はザインのことを最もよくわかっている人物だとひじりは踏んでいました。彼に教わったザインについての情報をつなぎ合わせることが、一番信憑性のあるデータになると感じていました。ひじりはこの世界でいう、創造主みたいなものです。けれど、ひじりはこの世界で気にしなきゃいけないことなんて、新しい、これから生むもののことしかなかったくらいに全てがうまくいってたもので、こうして現れた顕著な不調を持つ人物、ザインのことは、いつも、とっても、気にかけていました。気にかけずにはいられませんでした。そして今日がこれです。これからは本格的に、ザインのことを自分の部屋で面倒見る気で、ひじりはいました。今は落ち着いていて、自分のベッドで寝ていますが、意識が戻ったわけではありません。ひじりはベッドの横に椅子を引っ張ってきて、ベッドの脇にもともと備え付けてあるテーブルの上にポットとカップとタバコと灰皿をガチャガチャ置いて、そこで一夜を過ごす気で椅子に腰掛けました。ザイン。最高に美しくできた体だったのに。それも、自分の予備にしたいくらいに。今は安らかな寝顔も、さっきまではゲロの中に突っ伏していました。きっとザインにとってこの世界は、ゲロのドブの中みたいなものです。ザインのこと、これからどうするか、考えながら、紅茶を結構なペースで消費していたら、ザインは急にぱっちりと目を開けました。空中を見ながら、「犯して、ここで死にたい」と言いました。その声は弱々しかったけれど、自分が弱々しいなんて微塵も気付いていないかのように、目だけが爛々としていました。痛々しい、ひじりはそう思いました。自分の手から生まれ出でたものが、苦しそうにしているを見るのが、こんなに心が痛いことだなんて。苦い顔して、ザインの頭を撫でました。ザインは、それでひじりに気づいたみたいに、ひじりを、爛々としたままの目で見てまた口を開いて、

「君が犯してよ。ここにいても、もうだめだから」

そう言いました。ダメじゃないって言ってあげたかったけれど、この子がダメって言うならダメなのです。認識とは、そういうものです。

「何かあったんでしょ、何があったの。」

ひじりはザインの言葉に答えずに、質問で返しました。体の数カ所に痣と引っ掻き傷があったのを見ました。誰かと何か、あそこか、どこかであったのです。

「死のうとしたんだよ。」

「モーモーちゃんを犯して、モーモーちゃんに犯されたら、ここで死ねると思って」

でも逃げられたから、死ねなかった。ザインはそう話しました。段々、爛々とした目はしなくなって、かといって眠る気のある顔になっていくわけでもありません。介抱の一環として少しだけ与えた自分の血が、彼を余計に眠れなくさせているのかもしれませんでした。彼のことは、彼でもわかりません。彼は自分の状態を自分で把握することが、人並み以上にできません。だから、モーモーちゃんに、頼らざるを得なかったのです。ひじりも、ザインも。

「キスしてよ、」

なんか、疲れちゃった。

ひじりには、何に疲れちゃったのかまではわかりません。この世界のことかもしれませんし、それ以前からのことかもしれませんし、どっちもかもしれません。モーモーちゃんと、以前から何かあったのかもしれませんし、別になかったけれどのことなのかもしれません。ひじりには、そういうことは大して言及すべき問題だとは思えませんでした。目の前のザインが疲れちゃったと言っていて、キスしたいと言ってるのが全てでした。ひじりは、ザインが大切でした。それはひじりが、手がかかれば手がかかるほどについそっちを贔屓してしまう気質の持ち主だったからとか、ザインが偉い天使を殺してしまう神話の黒い悪魔みたいに色濃く美しかったからとか、その割に嘘みたいに弱っているからとか、そういう理由や言い訳みたいなものを超えて、ただなんとなく根本的に惹かれているから、ということに、自分では気付かないまま、ひじりはザインを覗き込んで、ザインの頭のてっぺんを撫でて、白いまつげを下向きにして、瞼を閉じて、キスしました。それは音もしないくらいのキスで、粘膜と粘膜が触れていることを忘れさせるくらい軽いものでした。そのままゆっくり口を離そうと体を起こしはじめたひじりの頭を、白いさらさらの髪ごしにだっこするみたいに、にゅっと差し出された長い腕が掴んで引き寄せました。さっきまで布団に隠れていてあるのかないのかすら分からなかったはずの腕はひじりが想像していたよりも強く絡みつき、ザインの口は、ひじりが息を吸わなければいけないことなんて知らないみたいに、ひじりの柔らかい唇を包みこみます。さっきのキスのときとは比べ物にならないくらい押し潰したりします。やわらかい唇を割って入ってしまって、身を押し返そうとするひじりの歯列をれろ、と舐め回しながら、ひじりが離れよう、離れようとすればするほど、ひじりの頭を強く抱え込み、息のできなくて少し開いた歯列をも割って、器用に動く長い舌が、捕えるみたいにひじりの舌を絡めとりました。じゅるじゅるっ、と恥ずかしげもなく下品な音を立てて、唾液を吸って、もっと、すがるみたいに抱き寄せて、顎を上向きにして、首の筋や、喉仏を、もっと隆起させ、それは唾液を飲み込むために蠢きます。お布団にちんと寝ていたのは、これをカモフラージュするための擬態だったのではというくらいの獰猛さで、ザインはひじりの甘い体液を貪りました。ひじりにとって、とても長い時間をかけて。もう、キスされていても、鼻で息をすることに慣れました。ひじりの抵抗はずっと続くものではありませんでした。はじめに、少しだけザインから逃れようとして、頭を抱えられたら、そのままでした。一度ザインがかわいそうに見えてしまうと、抵抗なんて、拒否なんて、できそうにありませんでした。唾液を貪り続けるザインは自分なしじゃ生きられないものに見えましたし、このままこうしてつながり続けていれば、ザインなしで生きられなくなるのはこっちな気もしました。それは不思議な感覚でした。怖いような気がしなくもありませんでしたが、基本的に、ひじりにとって怖いものなんてこの世にはあまりありません。すべて、憎いものも理解できないものも含めて、すべてが可愛いものに、愛すべきものに分類されます。また、抵抗して、少しだけ離れた口で、ザインは「美味しい」と呟いて、ほとんど一瞬の隙を見せないままにひじりの首筋食らいつきました。さすがに抵抗しました。ちょっと、何…、悪態にも満たない悪態をつきながらザインの胸あたりを押し返しますが、回されていた腕は組み替えられて、食べにくいから食べやすくするだけみたいに自然に、ひじりはベッドの上に引き寄せられました。抵抗を許さないみたいにザインの腕がひじりを捕まえて、ザインは自らの唾液が伝っていくことなんて気にも留めないで、ひじりの首を余さず味わおうとするみたいにします。唾液は筋肉をなぞるみたいにつるつるすべってひじりを濡らして、部屋の唯一の明かり、すぐ側の間接照明に、赤っぽくぬらぬらと照らされます。唾液で滑る歯でぐりぐりと甘噛みされて、痛いし、いたくて、きっと歯が立てられなくても痛い気がしました。くぅとか、うーとか、やめろとか、言わなくはないのですが、すべての抵抗は特筆する必要もなく無駄でした。ザインの長い指がシャツの一番上のボタンに手をかけ、ひとつ外されました。外したそばから舌が降りて、その下のボタンもその下のボタンも、外されていきます。人前で肌を晒すことが本当に久々で、食われるからとはまた別の寒気がして、ザインを叱りました。もうザインはどこも弱々しくありません。万物の父の体液は、美味いし、効くし、頭を冴え渡らせます。それにしても回復が早すぎるように見えましたが、自分でもどれだけ弱っているか、どれだけ回復しているかなんてザインは恐らくわかっていません。目の前に美味しいものがあるから、喰っているだけなのです。それが後で胃もたれをもたらすかとか、それで自分が回復しているかとかなんていちいち考えるやつはこんな顔しません。無駄だとはわかっていても身を捩りザインを押し返しましたが、想像以上に無駄なことに正直驚きを覚えました。本当に強いと素直に感心しました。ザインの大きく開く口も、力なんて入れなくても大きな力を持った赤くて長い手指も、ひじりの中に奇特な明滅を生み出します。考えれば確かに、この子がお腹空いてるから、すごくおいしいから、食べたいから、なんとなく、そういう気分、それだけで誰かの全てを奪うだけの力のある子なのは明白だったのです。神話の、母乳をせがむ赤子に行動原理は近いはずなのに、あまりに大きすぎて、自分が歩いてきた道に、大抵のものが残らない。ザインのことは愛しいです。それにひじりは、ザインがいくら獰猛で大きくても別に怖くはありませんでした。自分を全部食わせてでも、ザインのことは守りたいと確かに思いました。しかしそれとこれとは別だと考えるまあまあノーマルな日常的な方の常識とか、なめんじゃねえみたいなシンプルな抵抗がひじりの今の原動力でした。外されたボタンの下の肌が晒されていることが異様に我慢ならなくて、自分でも驚くくらいに恥ずかしくて、鎖骨あたりに集中しているらしい頭を引っ掴んで引き剥がそうとしますができません。何もさせてくれません。そうこうしているうちに抵抗する元気が先ほどよりなくなって、この先何が起こるかが、本格的に恐ろしくなってきました。ザインが、この子が、本当に腹が減りすぎて本能で自分を喰っているなら、自然とより濃厚な体液が得られる方法に行き着くと容易に想像できました。最終的に行き着く先は、言うまでもありません。今ですらなんの抵抗もできていない事実を一瞬、本当に理解したくなくなって、頭が真っ白になりかけました。

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