さんぽでおわり

杓井写楽

第1話

«シャールの日記より抜粋≫


≪僕は理由なしに歩き出すことはできません。どうか神様、僕からずっと何かを奪い取っていてください。僕を不幸にしておいてください。満たされたときその時僕は生きることも死ぬこともできなくなってしまうでしょうから。≫







シャールの人生はシャールの知りうる限り短く、数分、数秒のものかもしれませんでした。彼には現時点で、過去がありません。シャールに与えられた人生は、眼前に突然現れた人生は、記憶のつながりを満了して表れたものではないようなのです。彼には「今」があり、「今」は機能不全なく次々と過去に移り行くようでしたが、もっと遠い過去を眺めることができません。とある地点以降、「向こう側」の過去がズッポリ抜け落ちているようでした。彼は何か、思い出せもしないいろいろなこと、本当にいろいろなこと?それとも存在しないもの?それに置いてけぼりを食らって、まっさらな頭の中に取り残されて、立ちすくんでいるのでした。これは比喩で、彼は暗い部屋のベッドで、横たわっていたのですが。目を閉じたまま、シャールは、自己の感性と口だけは、おそらく稼働するだろう、そのくらいには覚醒している自己を、いやに冷静に観察していました。なんらかの視界を得ても、感性で受け止め、ある程度は言語化できそうだと推察しました。しかし彼は自分の名前を知らず、自分の顔を知りません。シャールは視界を得るために瞼だけを、震えるくらいに微細に、動かしました。それがこの人生のはじまりでした。ベッドに横たわるシャールの目の高さより少し上に「彼」はいました。椅子の上に。「彼」はシャールを見降ろしていました。「彼」はゆっくりと目を開いたシャールを、不全の体で見降ろしていました。シャールの横ばいになった視界の中央には、生首が鎮座していました。それが「彼」でした。それがはじまりでした。潤いと無縁の、清潔な乾いた顔。異様な光景なのでしょう。シャールの感性が正しいのであれば。シャールは思考のかすれた頭で僅かな光を瞳に寄せ集め、なんとか、生首が椅子に乗っている、もしくは乗せられていること、それは目を開いていてシャールを見ていること、視界をぐるりとして、今は恐らく夜で、自分が白いシーツのベッドに寝ていたらしいということ、自分と生首の居るこの部屋には窓が二つあり、背後の窓から差し込んだ月光が、生首の彼とシャールとフローリングの床を照らしているということ、ひとつひとつ、ゆっくりと、指でつついていくように、親しみを持って確かめました。腕をずずずと動かして、体を支えて起こす動作をすると、長い時間をかけてとろけた筋肉が縮んで、ゆるゆるになったジョイントを少しずつ定位置に引き戻し噛み合わせるように、身が音を立てました。僅かな月光に照らされた生首にシャールの影が落ちました。男の頭部のようでした。明るい髪をしているようでした。それくらいしかわかりません。そのくらい部屋は暗いのです。そこまで認識した頃にはある程度頭は冴え、視界は澄み、身体は良好な働きをしていました。気持ちが軽い、と思いました。”全てが0から始まり、整頓されていないものなど何一つない。僕の人生には片付けなければならないものなんて何一つない。”目覚めという言葉にふさわしい晴れ晴れとした目覚めを、シャールは愛おしみ、目を細めました。

”僕の人生に罪はない。”

自意識の完成度合いに対し、自己があまりに無垢に思えました。

この無音の部屋において、どこからどこまでが自己なのかがはっきりしたころ、生首の瞬きに気が付きました。シャールはその時初めて、生首に驚かなかった自分に驚くことになりました。その驚きを境に、はじめて、自己の人生が熱を帯びていく心地がしました。はじめて、空白の頭に心が流れ込んでいく心地がしました。その驚きは小さな爆発で、シャールにとって「他者」との歴史のはじまりでした。

「明かりを点けてください。」

それは生首が発した声で、シャールが初めて耳にした他人の言葉でした。





«月ってこんなに近かっただろうか?明るかっただろうか?»

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さんぽでおわり 杓井写楽 @shakuisharaku

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