帝国の夕凪
イオン・ベイ
プロローグ -Vorspiel
……おーい、誰か、誰かいないのか?
男には何も見えなかった。何も聞こえないし、四肢の感覚は何もなかった。ただ、大量の血の匂いが彼の鼻から脳髄を突き刺すように入り込んでいた。
「……!~~……ぃ!おい!大丈夫か?!」
初めに戻ってきたのは聴覚だった。誰の声かさっぱり分からないが、呼ばれているのだから答えなければならない
「ぁ……あ……ゴホッ、ガハッ……はぁ……」
しかし、思ったように声を出すことは出来なかった。咳き込む度にひどい痛みに襲われる。だが、その衝撃によって瞼の上に積もっていた大量の土埃が払われ、ようやく周りが視えるようになった。喉に詰まっていた血反吐が吐き出され、微かにしか動かなかった頭がようやく機能し始めたのだ。
終わりだ。
呼吸を繰り返しても苦しみは一向に和らぐことはない。自分の意志では首を動かすことも叶わなかったが、先程の声の主が身体をひっくり返してくれたのだろう、視線は天を仰いだ。
「あ……」
軍服姿の男は必死で呼び掛けていたのも一転、急に黙り込んでしまった。多分、俺が助かる見込みはもうないのだ。だから、なんとしても伝えなければならない。
「待ってくれ、ポ……ポケット、の、中……」
上手く口が回らないが、彼は俺の言いたいことをよく理解していた。あっという間に探し求めていたものを目の前に持ってきてくれたのだから。
「これか?」
「そうだ……それを、元の持ち主のところへ。俺はもう駄目だ、だから……」
「分かった、必ず届ける。あんたは……」
「いや、そのままにしてくれ……」
その兵士が目を伏せようとしてきたので、俺は断った。正真正銘、最期の頼みを容れてくれて、彼は視界からいなくなった。残ったのは白い雲が点々と漂う青空だけだった。何の変哲もないその空が、この上なく美しいものに思えたのだった。
永遠に続くように思えた瞬間も、やがてぼやけて失われていく。そして全ての色が消えた時、俺の意識は家族の姿を思い浮かべていた。
……親父とお袋にはたくさん迷惑をかけてしまったな。不出来な息子だったが、今になってはどうにもならない。
この先、マリーにも苦労させてしまうだろう。俺が愛したただ一人の女。いつまでも心をとらえて離さなかった。俺がいなくなったら、きっと深く傷つくだろう。
ゾフィーはもう学校に通う年だったか。初めての子供だった。戦争が起きてから偶にしか会いに帰れなかったが、大きく成長したものだ。だけど、二人目のフランツが心配だ。あの子はまだ幼いし、俺によく懐いていたから、泣き叫んでしまうに違いない。
……最後に、まだマリーのお腹の中にいる、生まれてきていない我が子へ。俺のことなんて何も分からないだろうが、どうかこの先、今の地獄のような戦争を知らずに生きていてほしい。それが唯一の……
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