鹿姫の嫁入り

祈岡青

鹿の姫

 世界の北端に位置する雪の国、慶琳王国けいりんおうこくには"雪の華"と呼ばれる守り神がいるという。雪のように真白く無垢な色の髪と、宝玉を嵌め込んだように美しく輝く青い瞳をもつ者。

 広大な山脈と深い森とともに生きる慶琳の人々は、あらゆる自然に精霊を見出だし、大切にして暮らしている。

 彼らがいちばんに敬う雪の精霊、その加護を受けているのだという王の一族。なかでももっともいにしえからの寵愛を受けた、国の守り神が雪華せっか


 玉や金銀、石炭や鉄。かの国の山脈に眠る豊富な資源を狙って果敢にも雪山へと挑み、吹雪に巻き込まれ凍死寸前だった少年は、次第に純白の中へと埋まっていく身体と朦朧とする意識のなかで、白銀の狼を見た。

 前方が見渡せないほどの吹雪の中で、なぜだかはっきりと目に映った白い毛並みと青い双眸。あの話と同じだと、少年は記憶が途切れるまでのあいだずっと、かつて聞いた伝承のことを考えていた。




 鹿の一族の娘が隣国へと嫁ぐことになった。

 姫君の乗る駕籠は細々とした嫁入り道具がともに運べるよう、大人三人はゆうに座ってくつろげるだけの広さがある。その内側から入り口となる簾を押し上げて、はやぶさは青く澄みきった晴れの空を見上げた。遠くに、見たことのないふくろうが飛んでいる。


「やあ、大きいですねえ。しかも白い」


 地上からの距離と目測で判断されたその大きさに感嘆の声を上げると、隼につられてか、脇のあいだから覗くようにして彼の姫君が空を見た。首をかしげた拍子に、髪にあしらわれた金細工や虹色に輝く玉の飾りがしゃらしゃらと音を立てた。顔を覆い隠す布を払いあげてあらわれるのは、紅が引かれたくちびると、鮮やかな色に輝く瞳。今年で十五になる美しい姫であった。瀕死のところを拾われて以降、隼は彼女に仕えている。もう十年になるだろうか。


「あれ、ハシコガネシロフクロウか? 珍しいな。羽根を狙われてほとんど捕り尽くされたと聞いていたが、まさか実物を見られるとは。あれは両翼を広げると成人男性くらいの大きさになるらしいぞ」

「へえ、それはすごい。宮の方では飛んでいない種ですよね」


 慶琳王国の王宮は、国で五番目に高い山、二股に別れた頂のあいだの窪地に座している。ほとんどの季節で雪が降りつづける閉ざされたところだ。青々とした草が一面に生え、渓流が涼やかに流れるここら一体とは環境がまったく違う。必然、生態系も違ってくるのだろう。


「珍しいということは、絶滅が危惧されている種か何かですか?」

「というか絶滅したと聞いていたんだが。ここからじゃ分かりにくいが、あれの羽根は先の方だけ金色をしていてな」


 幾重にも慎重に重ねられた薄紫の花嫁衣装から、するりと細くて華奢な指先があらわになって天を示した。


「近くでみると、その先端の金色が白い翼に波打つ模様を描いているようでたいそう美しかったらしい。棲息域が高地じゃないうえ国境近辺だったために、隣国側からも狙われて激減したと書物にあった」


 悲しい逸話の残る鳥だ。ひょっとしたらあれが最後の一羽かもしれない、などと思えば、胸に込みあげるものがあった。その美しい鳥が今、隣国へと嫁いでいく花嫁行列を見送るように飛んでいることにも、少なからず感動を覚える。


「そういえばあなたから銀狼の話はよく聞きましたが、白いふくろうの言い伝えは聞いたことがありませんね。あれも雪の使者として大切にされていた存在なのですか?」

「いや、そうでも。あれは別名春待ちふくろうというんだが」

「おや、かわいらしい」

「鳴き声が、ハァーハァーっと人間が寒さにかじかんだ手に吹きかける息と似ているから、早く春が来てくれ、そうでなくてはこのまま凍え死んでしまう、というふくろうなんだ」


 全然かわいくなかった。慶琳は雪国だからか凍死にまつわる説話が多い。かつてそれで死にかけた隼にとっては耳が痛くなるような話ばかりだ。


「転じてあれが飛ぶと雪が降る、天気が荒れると言われるようになってな。いつのまにかすっかり凶報の使者となってしまって、数が減るのをだれも省みなかったそうだ」


 絶滅したはずの凶報を届ける鳥が、花嫁行列の上をずっと旋回している。


「いやあ出発前に良いものを見た。幸先が悪すぎるな、ハッハッハッハ」


 頭をしまい豪快に笑い出した姫に、隼はげっそりとしながら御簾を下ろした。


「笑い事じゃないですよ、まったく洒落になっていない……」


 これから鹿族の姫が嫁ごうとしている隣国の王子は、ひどく敵が多い。

 隣国は今、後継者争いの真っ最中にあった。鹿姫を欲した王子は現王三番目の息子。一番目の王子は身体が弱いために早々に離脱、四番目の王子も血族の争いを好まず出家して離脱、残った二番目と三番目の王子と現王の弟君とで、熾烈な争いが繰り広げられているという。


 三番目の王子は政略戦争の駒争いのひとつに負け、一度慶琳との国境付近まで逃げてきたことがある。去年の夏のことだった。

 両国を隔てる川岸で力尽き、体の半分が川にたゆたったまま気を失っていたところを、近くにいた鹿族の長の娘が拾った。献身的な看病を受けるうち、王子は優しく聡明な娘に恋をした。鹿姫しかひめのほうもまた、繊細な感性を持つ王子に惹かれていった。それで今回の婚姻が成立した。


「まあ、そんな美しい恋物語が本音半分、もう半分はうちとの繋がりがほしかったんだろうよ」

「そんなことは……」

「ないとはいわせないさ」


 胡座をかき、ゆったりとした動作で肘掛けに頬杖をついた姫は、高貴な家柄の者にしか許されない尊大な雰囲気を纏っている。有無をいわさぬ姫の態度に、隼は口を閉じた。


 渓流沿いに住まう鹿の姫が、ずっと高地にある雪山を登りきって王宮に辿り着いた日には、隼もそこにいた。着れるだけの厚着をして何日もかけて山を上がってきた娘は、玉座の間に通された。鹿、熊、虎、うお、それぞれの一族の代表者が玉座を中心にして左右に座している。その厳かな冷たいへやで、娘は跪き、頭を床に擦りつけて結婚の許しを乞うた。彼を愛しているのだと。


「この婚姻に、王をはじめとした各代表者は皆反対されていましたね」

「もともと他国との交流に積極的な国ではないからな。現王がちょっと愉快なくらい根明なだけで。その現王すら少しは渋い顔をした。なにせこの婚姻が決まれば、内戦まっただ中の他国と外戚関係ができるのだから」

「しかし最終的には切なる訴えに現王も根負けされた」


 できればその思いを、娘のまっすぐな気持ちを政略だけで片付けたくはないというのが人情というものだ。そういうと姫にはきっと嗤われてしまうので、隼は黙っていた。


 話のうちに小休憩が終わったのか、あたりが少し騒がしくなった。姫の駕籠や嫁入り道具を積んだ車を引くため、御者が馬に轡を噛ませようとしているらしい。鳴き声がそこかしこからする。

 慶琳からの嫁入り行列は、相手が王族であるわりには小規模だった。姫の乗る駕籠と合わせても四つしか車がない。お付きの者も全員合わせて百に満たない。

 これは鹿姫の意向でもある。贅をこらした盛大なものより、普段の彼女らしいものを詰めて行きたい。この車よりも後ろにつづく嫁入り道具の列には、鹿や兎を捕るための弓、川で魚を捕るための罠なども含まれているそうだ。賢い娘だと、隼は頭が下がる思いだった。

 再び揺れだした駕籠の中で、彼の姫は爪の甘皮を剥いている。顎下で、顔を隠す布がひらひらと揺れた。隼は彼女が深く剥きすぎないかはらはらしながらその様子を見守った。


「姫、どうかもう少し緊張感お持ちいただけませんか。もうすぐ国境を越え、敵の懐に入ります。どうかあなたに万が一のないよう」

「堅いなまったく。おまえがいればどうってことないだろうに」


 爪をいじるまま軽やかに笑う姫が、隼から簾のほうに顔を向けた。


「そろそろ国境を越える、か」


 彼女が何気なく呟いた瞬間、簾が激しく揺れ、縒られた繊維を切り裂いて矢尻が駕籠の中へと侵入してきた。


「しまった!」


 射られた、と隼が身を起こすのと同時に、姫は射込まれた矢を流れのままに素手で捕らえた。それをつまらなさそうに隼に投げ渡す。


「やる」

「いや、やるといわれましても」

「おまえがいいように使え」


 興味がないとでもいいたげに、姫はひらひらと白い手を振り、また頬杖をついた。


「姫様! ご無事ですか! 姫様!」


 先頭で行列を指揮していた花嫁の父親が血相を変えて飛んできた。彼が身に纏う外套は、このめでたい日に合わせた派手なものだったが、今の場の空気からは浮いてしまっている。

 穴が開いて少し見通しがよくなってしまった簾を押し退け、隼は安心させるように矢を見せた。


「長、こちらは大事ない。ほら、射られた矢は私が対処したゆえ。姫に怪我はない」


 奥まったところに座す姫が、長に見えるようかすかに会釈した。


「行列の者たちに怪我はないか?」

「ええ、馬たちが多少興奮しておりますが、射られたのは姫の駕籠のみです。かなり遠方から。待ち伏せされていたのでしょう」

「やはりか」


 険しい表情の鹿族の長と隼は顔を見合わせ、「手はず通りに」とささやきあった。行列が再び動き出す。


「その矢、矢尻に毒もついてないし、確実に殺したいというよりは敵も探り探りというやつだな」

「意外ですね。こちらはもっと気合いをいれて武装してきたというのに」


 列の先に駆け戻っていく長の、鮮やかな背中を見送る。伝統紋様を原色で隙間なく描いたあの外套の下に、彼は矢筒と弓を背負い、腰には刀を帯びている。他の若衆たちもそうだ。


「いや、こんなものだろう」


 そういって落ち着いているのは彼の姫君ばかりだ。


「連中は花嫁も第三王子も排除したいが、一歩間違えれば国内の政権争いどころではなく、この慶琳王国が攻めてくるのだからな」


 この、と国名をいうときの彼女は、きっと大きく口角を上げていた。顔を隠していても表情は手に取るようにわかる。そこから滲み出るのは矜持だ。


 慶琳王国は、鉱山による豊富な資源と精霊信仰の神秘に彩られるばかりでなく、有数の軍事強国でもある。

 まだここが国という概念すら持たなかった頃、人間と精霊が交わって生まれたのがこの国の人々だという。だから姫のような常人とは思えぬ強靭な肉体を持つ者が多い、といわれている。


 その姿、恐れを知らず、夜を知らず、弱さを知らず。


 今もなお語り継がれるその評判を産み出したのは、約百年前に起きた大規模戦線の影響だ。当時、慶琳から遥か離れた砂漠の国を中心に、十もの国と民族を巻き込んだ大戦があった。

 慶琳王国はその戦いに参加していなかったが、近隣の国に婿にもらわれていった魚の一族の青年から、彼の住まう水源の国が攻め込まれたという報せが来た。青年が婿に入った家は資産家であったが別に王族というわけではない。それでも、当時の王は山をかき分けて届いた文を読むなり国一番の軍、すなわち近衛軍の派遣を決定した。

 水源の国の王都ももはや陥落かというとき、闇を切り取ったような馬に跨がった漆黒の軍団は、白日のもとに躍り出た。

 青年の出した早馬が届くまでに十日かかったが、そこからはわずか五夜のことだったそうだ。三百人に及ぶ軍団は眠ることもせずに大陸を駆け、たった一人の同胞とその家族を救うためにあらわれたのだという。そしてすぐさま敵軍を一人残らず排除した。その早さ、強さ、恐ろしさ。百年後に至るまで色褪せずに語られる由縁になった。

 現実的なことをいうなら、慶琳は質の良い鉄が大量に取れるうえ、それらで作られた刃はひどく切れ味が良く丈夫な特級品となる。だから他国は喉から手が出るほど慶琳産の武器がほしい。


「第三王子が慶琳王国という巨大な力を手に入れれば力の均衡は一気に傾くだろう。鹿姫が行く先は楽園ではない。戦の中心よ」


 静かに告げる彼の姫に、隼はひとつ頷いた。


「ええ、そうなのでしょう」


 だからこそ隼と姫はここにいる。


 花嫁行列はいよいよ両国の境となっている川へと到達した。川幅は広いが流れはゆるやかで、川底に並ぶ石がはっきりとみえるほどに水が綺麗だ。

 対岸へとかけられた木の橋を列を細めて渡っていく。そろそろ先頭の一団が渡りきっただろうかというときだった。


「止まられよ!」


 あたりに大音声が響いた。


「ゴーラン光国に輿入れなさる、慶琳王国の姫君の一団とお見受けする! 命が惜しくば、その三台にも及ぶ嫁入りの宝の数々、置いていかれよ!」

「ずいぶんと品のいい口上を述べる盗賊だな」


 橋の真ん中あたりで止まってしまった駕籠の中で、姫君がふんと鼻を鳴らした。清流の涼やかな音に紛れて、長が前方で張り上げる声がここまで届いた。


「嫁入り道具を賊に盗られたなどということがあれば、我が娘一生の恥! 嫁にいくことも国に帰ることもままならぬ! きさまらに渡すものなどひとつもない! 立ち去れ!」

「なれば血を流してでも奪い取るのみ!」


 刃を鞘から引き抜く、高く澄んだ音がした。簾の穴から、隣国側の川岸に腹這いになって潜む弓兵の姿が見える。その数、見えているだけで二十はいるだろうか。


はやぶさ


 対面の姫がこの名を呼ぶ。「行け」と短く命じられた瞬間、隼は駕籠の床を蹴っていた。投石のように飛び出し、落下防止にと橋の両脇に立てられた柵の上にトンと軽やかに飛び乗る。拍子に、青い布地いっぱいに金色の紋様が施された外套が翻る。その下では、すでに短弓を引き絞っていた。まずは草葉の陰に隠れていたひとりを射ぬく。

 それが戦闘の合図になった。

 赤、金、緑、藍。鮮やかな原色の紋様が幾重にも広がるさまは、祭りの夜に浮かぶ提灯の飾り付けのように幻想的で美しかった。列を組んでいた男たちが、それぞれの外套の下から一斉に弓を構える。

 いにしえより鹿狩りを生業とし、その名を一族に冠してきた若衆総出の弓射であった。

 一矢で敵を仕留める、そうでなければ狩猟民族の名折れよと、橋の上に縦一列にされたとて、目の前に邪魔なものがあるとて、最後尾からでも向こう岸の大将を射ぬかん。そういう一族だ。それが、動乱の光国の王子に所望された姫君に受け継がれているものでもある。


「我らが姫君を守れェ!」

「オォォォォォ!」


 川の底でも割れたかと思うような雄叫びだった。さすがの士気の高さに笑みをひとつこぼし、連続して三人ほどを討ち取った隼は、柵の渡りの上を駆け出した。狙うは大将、橋の終わりに立ちはだかる男だ。汚した衣服で一応賊のふりをしているようだが、部下たちの動きが良すぎる。訓練された軍隊だと思いながら、隼は隣国の領土めがけて飛び降りた。腰に下げた刀を抜き取り、着地ざまに振り下ろす。敵の首領は難なく一撃をかわした。


「さすがの身のこなし。名のある武将とお見受けするが、どちら様で?」


 首領の顔が大きく歪んだ。隼の言いぐさに、かなり頭に血が上った様子だが、もちろん名乗るわけにはいかない。そのまま二人は数合切りあった。背後では射撃合戦が繰り広げられている。

 重なりあった刃と共に、隼と首領は至近距離で睨み合った。


「引け、光国の軍人。今日は晴れの日、いたずらに怪我人を増やすな」

「きさまらこそ、このまま国に帰れ。他国の政治など乱すな。今ならまだ、おまえたちの姫君に傷はつけん」

「傷はつけない、か」


 射られた矢を素手で掴んだ姫の姿を思い返し、隼は「感慨深いな」と呟いた。それが相手にどんな印象を与えたのかはわからないが、あまり良くはなかったようだ。


「そうか、ならば、覚悟しろよ獣人ども」


 獣人とは、動物を捌きその皮を纏う狩猟民族への蔑称だった。隼を突き放し、首領が指笛を吹く。

 甲高い音が鳴り響き、川の水面が激しく揺れだした。何事かと振り返れば、橋の下からいくつも人間の腕が生えてきた。


「仕込み兵が川の中にもいたか!」


 橋のふちへと、黒々とした伏兵たちの指先がかかる。


「真ん中の駕籠を狙え! 王子の嫁はその中にいる!」


 駕籠に群がる黒い影に、ふと、隼は笑みを深くした。


「姫を狙うか」


 けものの者と称された慶琳の人々へ、彼の姫へ、隼の腹の底から沸き上がってくる感情は怒りではい。興奮だった。

 獣人というのは侮蔑の意があると同時に、百年前の伝説のもととなった彼らへの畏怖の念も込められている。その意味を、光国の人間たちは思い知ることになるだろう。


「引かぬなら、とくと見るがいい。我らがけものの姫を。それをおまえたちのあの世への手向けとしよう」


 駕籠の入り口となっていた簾を乱雑に蹴りあげて、鹿の姫はその姿をあらわした。

 大樹の枝振りのような角を持った牡鹿の頭。その角の広がりは決して数年を生きた鹿が持てるものではない。木を薄く削って先端をくるくると丸めた飾りをいくつもあしらい、立派な角を有した牡鹿の頭蓋骨、それをかぶったけものの姫君。


 かの一族には、狩の初めての獲物を鹿にする風習がある。そうして獲った鹿の頭蓋骨は、以降祭りや神事の際に身につける大切な神器となる。鹿姫がこの牡鹿を射止めたのは十二の歳だったという。


「これは私だけの力で獲れたものではありません。きっと、森の精霊が力を貸してくださったから。私の影となる者に、どうかご加護がありますよう」


 そう、お守りとして持たせてもらったものを、必ず無事に届けると約束していた。だから彼女はそれをかぶっている。彼女のそばが、一番安全だから。


 あらわれた姫に、対峙した伏兵たちが唖然としたように動きを止めた。その一瞬で、一列目にいた者たちの首がそろって川の中へと飛んでいった。薄紫の花嫁衣装を脱ぎ捨て、数多の簪を引き抜き、白地の戦装束に身を包んだ右手に握られるは雪の如く白い柄の刀。隼はほうと息を吐き出した。


 その姿、恐れを知らず、夜を知らず、弱さを知らず。


 だが度肝を抜かれたのは敵ばかりではない。

 牡鹿の頭蓋の後頭部より流れ出る白銀の髪。眼窩の穴からのぞく、煌々とした青い瞳。慶琳王国にいにしえから伝わる国の守り神、雪華せっか。その当代、英明王えいめいおう第八王子、北陽山白慈王殿下ほくようさんはくじおうでんか


北慈王ほくじおう殿下!?」


 第八王子の略式敬称をいう鹿族の長のひっくり返った声がした。輿入れの道が危険なので駕籠の中には影武者を立てるということは打ち合わせていたが、まさか自分の娘の代わりに現王の実子が入っていたとは思うまい。


「手を止めるな! 援護しろ!」


 川中から橋に上がっていた兵をほとんど切り捨てて、彼女は橋を渡り始めた。飛んでくる無数の矢をひと振りで払い、ずんずんと光国に近づいてくる異形の姫に、敵方からか細い悲鳴があがった。

 彼女が大きく振りかぶると、鹿の頭蓋骨の飾りと、刀の柄につけられた明るい青色の飾り房が同じ方向に引かれていった。雪のように真白い髪が、動きに合わせて広がっていく景色が美しく、隼は彼のけものの姫に見惚れた。その横を、豪速で姫の刀が飛んでいった。

 ドサリと背後で重い音がする。ああそういえば敵将の相手をしていたのだったと思い出した頃に、頬から一筋、ぬめりとしたあたたかなものが流れた。


「聞け、隣国の者ども!」


 空気がひりつくような怒号だった。橋の最後の一歩に立つ異形の姫が、光国側の土地にいる人間ひとりひとりを睨みつけていく。


「おまえたちの仕えるだれが王になってもかまわない。おまえたちの争いに興味などない。しかし、我が慶琳の娘にひとつでも傷をつけてみよ、あまつさえ殺してみよ。政権争いなど二度とできぬよう、王都をさら地にしてくれるわ」


 まさに一騎当千、けものの姫君。隼は、彼の姫が規模の大きな啖呵を切るのを目を細めて聞いていた。


「この、大馬鹿者!」


 生き残りの兵士がすっかり逃げ帰り決着がついたというのに、麗しの姫君は肩を怒らせたまま隼に食ってかかった。


「戦闘中にぼけっとするやつがいるか!死にたいのか!」


 ものすごく怒っているらしい姫に、かえって隼は破顔した。


「お許しを。あなたの勇姿に見惚れておりましたので、北影山青慈王殿下ほくえいさんせいじおうでんか


 胸ぐらに掴みかかってくる姫に向かい、ごく一部の者しか呼ぶことのない、彼女に当てられた敬称をささやく。


「その名前、長ったらしいから真生まおでいいといっただろ」


 当の本人は嫌そうに顔をしかめるばかりだった。

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