第30話 吉野へ

 新しい年の1月5日、琴は近所のカフェの駐車場にいた。遅いな、ヨシノさん。じっとしてると寒いし、やっぱ、ウィンドブレーカー着よ。リュックを開けた途端、スマホから着信音が聞こえた。メールだ。


『ごめん、琴ちゃん。コウヘイが熱出してるから行けなくなっちゃった。今度にするから本当にごめんね』


えー?中止?うーん、せっかく用意したのにな。新しいホイールだし。琴は考えた。ヨシノさん、吉野は明日香の棚田から南に行ったら、そして山を越えたら行けるって言ってた。私、明日香の棚田までは一人で行った事あるし、行ってみよう。吉野からメールしたら、コウヘイさんもびっくりして熱下がるんじゃない。琴は楽しくなってきた。一人でサイクリングロードに乗り出し、休憩しながら南に走る。橿原を過ぎ、明日香村に入った。一人でも全然OKだ。棚田が見える場所から舗装のきれいな道を走ってゆくと、案内看板があった。『奥明日香へようこそ』。奥明日香、そういう地名なんだここらへん。道は森の中へ吸い込まれている。よーし、山越えるぞ。

張り切っていた琴だったが、この峠道は大変だった。ヨシノさんの指導通り、ジワジワ登っても登ってもまだまだ坂が続く。どこまで続くのよ、ずっとクネクネ登りじゃん、あーしんどい。

幾つ目かの急カーブを曲がったら山肌が崩れていた。えー?この坂で崖崩れ?うわ、大丈夫かな。琴は恐々と立ち漕ぎで、落石と土砂の間をすり抜けようとした。登り勾配だ。走り出した瞬間ペダルに力が乗らず、琴はふらついた。懸命に立て直そうしたが車体が傾き、後輪が滑って大きな落石を擦る。うわっーっ、ガシャーン。

痛!琴は何が起きたか咄嗟には判らなかった。ヘルメットが路面にぶつかり、土のにおいが鼻を突いた。転んだんだ。岩に当たらないで良かった。地面に手をついて琴は立上がった。ちょっと擦りむいたみたいだけど幸い大きなケガはないようだ。土を払い、すずらん号を引き起こした。しばらく押してゆこう、大丈夫?すずらんちゃん。


 すずらん号を押し歩きかけた琴だったが、ハンドルバーを通じて感じる振動がいつもと違うことに気がついた。視線を落とすと後輪がペシャンコになっている。

あれ?あ、パンク? なんでここで? 汗が急に冷え、頭から寒々とした嫌気が降りてきた。そう言えば、コウヘイさんが言ってたな。パンクは一番起こって欲しくない所で起こるんですって。その通りだ。風に山の木々が唸っている。

大変、チューブ替えなきゃ。今日はすずらんちゃんには私しかいないんだ。思い直して琴はリュックを開け、使い捨て手袋を取り出し、習ったことを思い出しながらチューブ交換を始めた。えーっとまずトップに入れて、ブレーキ開放して、ひっくり返して、タイヤを外す と。坂道での作業は、車体が安定せず思ったより大変だった。おっと、倒れないでね、固いな、えい、うー、よっ、あ、あー外れた!

えーっと、どこがパンクしてるか見とけってゆりが言ってたっけ。琴はタイヤを持って、回しながら見ていった。地面に座るとお尻が冷たい。


あれ?えー?えーっ?うそ?なんで?

損傷したのはチューブだけではなかった。タイヤのトレッド面と側面の間にザクッと切れ目が入っている。

どうしよう…。タイヤなんて持ってない。琴は泣きそうになった。コウヘイさんならすぐ手当してくれるのに、山中には誰も居ない。そうだ、電話で聞いてみよう。琴はスマホを取り出した。


え?うそ?電波がない! この山の中には電波が届いていなかった。マップを出してみても地図がダウンロードされず、GPSが示す点が虚しくポツンとあるだけだった。琴は途方に暮れた。どうしよう、一人で来るんじゃなかった。タイヤがこんなじゃ、走れないよ。ゆり、どうしたらいい?頬を伝う涙に風が吹きつけ、寒い山は一層寒くなった。


その頃、ゆりはお母さんと、カフェ・ワッフルに来ていた。お正月と言っても、この足じゃ出歩けないしつまんない。ボヤキながら久し振りのパンケーキを頬張っていたのだ。


♪チョリーン


「あれ?ヨシノさん?」

「あ、ゆりちゃん、明けましておめでとう、あら、お母さんと一緒なんだ」

「はい、おめでとうございます。ヨシノさん、コトと一緒に吉野じゃなかったですか?」

「うん、それがね、コウヘイが熱出しちゃって行けなくなったのよ」

「え?だって、コトから、明日香着いたー、これから吉野行くーってメッセージ入ってましたよ?」

「え?琴ちゃん、もしかしたら一人で行っちゃったの?あの峠っておととい、崖崩れあったんだよ。大丈夫かな?」

「道知ってるんですかコトは?」

「ううん、明日香から真っ直ぐ南って言っただけで、詳しくは知らないと思うし、

第一、帰りの道は教えてないよ」

「えー?コト、天然だから、何も考えずに行ってるかも。遭難したら大変だ。今日寒いし」

「うん、どうしよう、今から車で行ってみようかな」

「だって、コウヘイさん、熱出してんでしょ。あたし、お爺ちゃんに聞いてみる。ね、お母さん、お爺ちゃんって今日、橿原神宮だよね」


ゆりは、羽田大先輩に慌てて電話した。

「あ、お爺ちゃん、ゆりだよ、あのね、今橿原神宮? あのね、コトがさ、一人で吉野にツーリングに行っちゃってさ、多分、明日香からほら、あの何峠?茄子峠?瓜峠?え?芋峠?あ、それ、そこ越えようとしてるんだ。崖崩れがあったってヨシノさん言ってるから心配で。うん、行ってくれる?助かる。ごめんね、ありがとう」


「どう?羽田大先輩、行ってくれるって?」

「うん、奥明日香なら三十分で行けるって言ってた」

「自転車だよね」

「もちろん」

「じゃ、さ、私、車で明日香まで行くわ。和菓子屋さんにいるって、後で大先輩に言っといて」

「え?コウヘイさんは放っておくんですか?」

「ああ、大丈夫だよ。あんなんじゃ死なないよ」

ニコッと笑って、ヨシノさんも飛び出して行った。ヨシノさんの四駆なら、二人と二台は乗せて帰って来られる。ゆりは少し胸をなでおろした。


 琴の上には雪が舞っていた。寒さにタイヤも固くなっている。手も悴んで上手く動かない。汗も冷えてウィンドブレーカだけでは身体だって震えが来る。そんな中で苦労して一旦チューブを替えてみたものの、空気を少し入れただけで、タイヤの裂け目からチューブが飛び出し破裂しそうになった。それで慌てて空気を抜いて、琴もタイヤもへたり込んでしまっていたのだ。このまま押して帰るしかないのかな。どれだけ時間かかるんだろう。道は一本だけど暗くなったらわからないし。なんでお正月からこんなことになったんだ。考え出すと情けなさが溢れてくる。


その時だった。崖崩れの向こうから自転車が姿を現した。泥除けとサイドバックのついたランドナータイプだ。


「琴ちゃん?」


え?琴はびっくりした。 「はい、あの?どなたですか」


「ああ、ゆりの祖父です。羽田です」


ええ?えええ?なんでここにゆりのお爺ちゃんが現れるんだ?峠の怪奇か?


「いや、ゆりから電話かかってきて、琴ちゃんがこっちに向かったみたいで崖崩れあったから助けろって言われてね。ジジ使いの荒い孫娘だから。で、丁度橿原に居たんですぐに走って来たんですよ。無事でよかったって あれ? 無事じゃないねえ」


琴の胸は熱くなった。イケメン兄さんよりずーっといい。なんかほら、ゆり、有難う。肩にかかった雪を払いのけて琴は立ち上がった。


「ああ、タイヤを岩で切っちゃったんだ。こりゃ致命傷だな」

羽田大先輩は、よっこらしょとリュックを降ろし、中からガムテープを取り出した。

「あ、これね。養生テープなんですけどね、結構丈夫だから重ね貼りして応急処置しますよ。千円札でもいけるって人も居るんだけど、試す勇気はないなあ」

喋りながらテープをちぎって、タイヤの裂けた部分を裏返しにして、貼ってゆく。ニ枚三枚と向きを変えて交互に重ねると一応裂け目は塞がった。

「これで空気を緩く入れて、徐行で行きましょ。明日香まで行ければ、ヨシノさんが車で来てくれる筈だから」

大先輩はタイヤを嵌めて、チューブを押し込み、長めの携帯ポンプを取り出して空気を入れた。すずらん号は何とか形になった。

「急な坂は押し歩きで、路面が良い平坦な所は乗りましょうか」

「はい、有難うございます。本当に、有難うございます」

「いや、ゆりも琴ちゃんに助けられたって言ってたし、自転車乗りはみんなお互いさまなんですよ」 大先輩は続ける。

「ゆりは小さいころに足に大怪我してね。もう歩けないかと思ったけど無事に治って、そしたら今度の病気でしょ。二回も復活するんだから運の強い子ですよ。これは持って生まれたものだなあって思います」

その語り口からは、ゆりに対する深い愛情が滲み出ていた。

「孫娘は本当に可愛い。椎名さんだっておんなじですよ、きっと」

琴は、爺様からのクリスマスプレゼントの話をした。

「はっは、自転車乗りらしいなあ。こけた時、リムやスポーク何ともなくて本当によかったですよ。守ってくれたのかなあ」


やがて見えてきた明日香村の和菓子店には、ヨシノさんの四駆が停まっていた。

「いやー、お待たせ、ヨシノさん」 大先輩が引き戸を開けた。

「あー、琴ちゃん無事だった?ごめんね、一人で行かせて。私がついてなくて、怖かったでしょう」

琴は胸がつかえ、次に涙が堰を切った。

「ごめんなさい、みんなに、来てもらって、助けてもらって…」

もう声にはならなかった。


「ま、ぜんざいでも食べて温まろうや。ここの餡子は絶品だからね」

「みたらしも美味しいのよ。ツーリングには和菓子が合うの」

「はい… おいしい…」


落ち着いた琴は、すずらん号とともにヨシノさんに車で送ってもらった。

「タイヤも替えなくちゃね」

「はい、落とし玉で、替えます」

「大丈夫よ、きっとコウヘイの奢りだよ。今回の発端だからね、彼が」

明るく笑うヨシノさんの声を聞きながら、琴は、羽田大先輩の言葉を思い出していた。

自転車乗りはみんなお互いさま、なんていい言葉だろう。駄目だ、車はどうしたって眠くなる。


「琴ちゃん、大冒険ってところだな」

「はい、春になったら責任もってリベンジさせます」

「椎名さんにもこっそり報告しておこう」

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