どこからが意識なのか、考えてみた

向風歩夢

どこからが意識なのか、考えてみた

 皆さんはいわゆる物心がついたのはいつだろうか?

 私がいつ物心ついたのか、思い出してみた。

 3~4歳の頃に近所の八百屋に設置されたテレビを見ているときに自分が自分であると認識していた記憶がある。

「そんなの記憶違いじゃねーの?」、「物心ついたときなんて覚えてるわけねぇだろ! 嘘をつけ!」と言われるかもしれないが、本当だ。こればかりは信じてもらうしかない。後でまた話をするが、少しこのことを記憶に留めておいてほしい。


 どこからが意識なのか? という問いだが、これまた、未だ現代科学を持ってしても答えの出ていないことである。しかし、それでも語りたいと思ってしまうのはそれだけ、意識という問題が人を引き付けてしまう魅力的な題材だからだろう。

 これから話すのは完全なる私の妄想、想像の産物である。科学的根拠など一切ない。それでも、もし、少しでも興味を持って頂けるなら読み進めて頂けると嬉しい。


 さて、どこからが意識なのか、という問いに対して、ひとつだけ私の中ではっきりと決めていることがある、というより一般論になるのだが、人間の自我は意識の十分条件になるということだ。


 自我があることをどうやって確認するのかについては議論するところであるだろうが、少なくとも私は持っているし、ほとんどの人間は自我があると思う。


 読んで頂いている方の中には、微生物の活動等も意識の一つであると考える方もいると思うが、やはり私は少なくとも世界の中に自分がいるということを認識できる能力、すなわち自我がなければ意識とは言わないのではないか、と考えている。(もしかしたら、微生物にも自我はあるかもしれないが……可能性は低いと私は考えている。)

 

 したがって、人間の自我が意識の十分条件に当てはまると言ったが、それに対して意識の必要条件は自我があることだと私は定義したい。自我があれば有機物でも無機物でも構わない、意識があるということになる。では、自我があるとは何なのかという疑問が出て来るだろうが、明確な答えを私は出せない。犬や猫も持っていそうなのだが、彼らと正確に交信する術を我々は持っていないので、想像の域を超えることはできない。さらに言ってしまえば自分以外の人間でさえ自我があるかは確認しようがない。証明する方法がないのだ。自分自身で納得できる答えを出すしかない。


 そこで冒頭の話に戻るのだが、自分が自我を持った時、すなわち、物心ついたときの状況を思い出せば、自我を持つ条件が出せるのではないか、他者に証明することはできないにしても自分なりに答えが出せるのではないか、と考えた。


 私が物心ついたのは、八百屋のテレビを見ていた時だった。そして、何を考えていたのかと言うと、「この前、この八百屋に来た時はテレビにヒーローが映っていたのに……今は映ってない……」と考えていたのだ。

 つまり、どういうことかというと、物心ついたときに考えていたことは、物心つく前に獲得していた知識、思い出だったということだ。

 このことを踏まえて考えると、過去に自分が得た情報を検索できる能力、検索した情報を分析し判断する能力、この2つが緊密に連携するとともに、扱える情報量が格段に増加した時、それを処理するための機能として、自我が芽生えるのではないかと考えた。


 重ねて申し上げるが、完全に私の妄想である。上記の2つの能力だけが自我をもたらすものではないとも思っているが、自我すなわち意識が発現する条件にはなっているのではないかというのが私の考え方だ。


 分かりづらい説明だったかと思うが、ご容赦願いたい。お読みいただきありがとうございました。

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