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どこからが意識なのか、考えてみたへの応援コメント
またまたエッセイを書いて頂きありがとうございます♪
『過去に自分が得た情報を検索できる能力、検索した情報を分析し判断する能力』について、八百屋のテレビの例をあげて説明して頂きありがとうございます。
僕は本文前半のフレーズ
『犬や猫も持っていそうなのだが、彼らと正確に交信する術を我々は持っていないので、想像の域を超えることはできない。さらに言ってしまえば自分以外の人間でさえ自我があるかは確認しようがない。証明する方法がないのだ。自分自身で納得できる答えを出すしかない』
のところに共感しました。
『自我』については哲学的ゾンビで例
えることにも無理があるので、確かに自分自身で納得できる答えを出すしかないですね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
本企画に参加している方々のレベルが高く、自分の浅い考えを曝け出すのは恥ずかしいのですが……自分の考え方を知ってもらいたいという欲求には勝てず、投稿している次第です。
あと、ここで聞いていいことなのかは分からないのですが、宗教のお題についてお伺いしたいのですが、条件に宗教の内、どれか一つ決めてくださいとなっておりますが、無宗教の観点から作品を投稿することは可能でしょうか?
どこからが意識なのか、考えてみたへの応援コメント
なるほど、自我が発現する条件、面白い仮説だと思いますね。
「分かりづらい」と書かれていましたが、そんなことはなかったですよ。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
空知さんが分かっていただけたなら良かったです。
そもそも自分で分かりづらいと思った文章を投稿するなよという話ですよね……
今後も私の投稿を読んで頂く機会がありましたら、率直なご意見お聞かせください。
よろしくお願いします。
編集済
どこからが意識なのか、考えてみたへの応援コメント
カント曰く、形而上のことについて悩んでしまうのは人間にとって「不可避の病」だそうです。
いや〜。
同じ病に罹ってしまいましたね。
しかも、この病、感染症みたいです。
追記
形而上学は
「自然、即ち形あるものを超えた、上位の原理についての学」
という意味です。
(実は誤訳だったんですが)
存在の意味、神の存在、霊魂の不死、宇宙の無限性など、自然界を越えた(これは西洋的な意味でのNature)問題を「形而上的な問題」と格好着けて言ってみました。
宣伝になってしまうので少し恐縮ですが、今書いてる小説の第五章と第六章のテーマが「私は何のために生まれてきたのだろう?」です。
まだ、下書きですけど……。
作者からの返信
形而上学については深くは知らないのですが、なぜ、僕らが存在するのか、永遠のテーマだと感じています。
誰かを感染させるくらいの文章を書けるようになりたいですね。
コメントありがとうございます。