びいだま

@proton614

1話完結

ビー玉が入っているの、と言った。

 娘の春香と、はじめて二人で、海に行った日のことだった。波打ち際で足先を濡らして、海沿いの商店街を歩いた。夕飯までには帰らないといけない。春香と、私と、夫の、3人の食事を作らなくては。

春香の手を引いて、日の当たるホームに出る。電車は、もう止まっていた。私たちは車掌さんに軽く頭をさげて、16時2分発の電車に飛び乗った。


いつからか、わからない。昔から私の右腕には、しこりがある。これ、なんだろう、と聞いたら、母は、脂肪の塊、と言った。

その瞬間のことは、古く些細な記憶なのに、よく覚えている。成長と共に、しこりはわずかにくすみを帯びて、目立つようになっていった。しかし誰もそれに触れようとはしなかった。

言葉でも、指でも。

女の子には、こういうきらいがある。大人が、たいして気にも留めずに放つ言葉を、いつまでも抜けない刺のように、心に持ち続けるのだ。

「大きな蚊に、刺されちゃった?」

春香が、ふいに、私の腕のしこりを、指先で触れた。

私は、春香の右腕を見る。よく似た娘だけれど、遺伝するものではなかったらしい。春香の肌はいつ見ても、膨らみかけた、桜のつぼみのように白く、なめらかだった。

「ちがうよ、これは」

あの言葉が、のどに詰まる。

私もいつか、言ってしまうのだろうか。春香が大人になっても、心に刺さったままになる、何気ない、刺のような一言を。

電車が揺れる。西日が、じわりと首筋を照らした。

ふと視線を落とした時、網袋が目に留まった。春香の握るその袋には、青いビー玉が3つ入っている。海沿いの小さな商店街で、買ってやったものだった。

「ビー玉」

「え?」

言葉にしたつもりはなかった。春香が聞き返したので、声に出したことに気付いたくらいだ。春香の握る赤い網袋が、ビー玉を飲み込んだ胃袋に見えた。網袋の中でビー玉は、絶えず青い光を宿し続けている。

「ビー玉が、入っているの」

海よりも海らしい、空よりも空らしい青を極めた、透明の、冷たいビー玉が、もしも私の腕に、埋め込まれていたとしたら。

「はるちゃん、ビー玉好きでしょう? 」

春香は羨望の眼差しでうなずいた。

「どうやって入れたの?」

春香は大きな目を見開いて、私のしこりを、初めて見るもののように、凝視していた。

「はるちゃんもほしいなあ」

こんな些細な一言に、情けなくも暖かく、私は救われていくのだ。私はこの子に、トゲを刺してしまうかもしれないというのに。

私はそっと、腕のしこりに触れた。

「子どもの頃にね、蚊に刺されたの」

考えると、どんどんアイディアが湧いてきた。このビー玉が、私の中に取り込まれていく、物語が。

「それがかゆくて、掻きむしって、血が出て。傷口にビー玉を置いてみたら、冷たかった」

右腕のしこりを指先で撫でる。笑ってしまいたくなるほど真剣な、春香の瞳を見つめた。この世を映し始めて、まだ5年と経たない、真新しい瞳を。

夕暮れの畳へ、色とりどりのビー玉が転がっていく、そんな光景が、胸の奥深くへ渡っていくような気がした。

春香は息をひそめて、慎重に聞いた。

「傷口に、びいだま、入っちゃった?」

 ここにも、黒いビー玉がある。そんなことを思いながら、私は春香と目線を合わせて

「うん」

と、うなずいた。

傷口から、私の体内に取り込まれていくビー玉。めきめき積み重なる血小板が、青い海と空の色でできた、球体のガラスを覆っていく。ゆっくりと沈む太陽のように、それは時間をかけて、私の中に取り込まれたのだ。

「テレビを見ている間にね、気付いたらビー玉、かさぶたの下にあった」

 春香は慎重に、指先でしこりをなでた。

「そのまま、かさぶたも治ったんだね」

世界のすべてを知ったかのように、春香は納得してうなずいた。私は思わずふきだす。私のしこりは誇り高い、冷気をまとっているような気がした。

電車が揺れた。銀色の手すりにぶつかって、痛い、と小さく声を上げると、春香が勢いよく立ち上がった。

「びいだま、割れてない?」

春香は私の右腕を、小さな手のひらを使って、撫でて確かめる。それは、私の欠片ひとつさえ、なくしてはいけないとでもいうように。春香は、割れて私の皮膚の下に飛び散った、ガラスの破片を探すように、私の腕をしばらくさすった。

床に転がった、ビー玉。春香の髪にのこる、潮の香り。首筋にあたる、陽光の温度。窓の隙間から吹き込む風の音。私の腕をなでる、天使の手。

「割れてないから、大丈夫」

私は最上級のくすぐったさにゆさぶられながら、夕食の献立を考え始めた。

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