リュシカちゃんの日常

朝霧

リュシカちゃんの日常

 聞きなれた声が聞こえてきた、そろそろ目を覚まさなければならないらしい。

 ベッドの中から這い出した、カーテンが開かれた窓から差し込む光はそれほど強くはないが、起きたばかりの目には少々厳しいものだった。

「おはようございます、お嬢様」

 いつも通りのメイドに自分もおはようと返した。

 その自分の声に何か違和感を持った。

 自分の声はこんなに高かっただろうか、と。

 いや……高いと言うよりもこれは…………幼い?

 いや、多分気のせいだろう、もしくは起きたばかりの時は時々声の調子が悪くなるからおそらくそれだけ。

 そう思いながらベッドから抜け出した、光に目が慣れてきたらしく、曖昧だった視界の焦点があっていく。

 ベッドから降りて、メイドの顔を見上げて強烈な違和感を持った。

「……お前、身長伸ばしたか?」

 メイドの身長が何故か異様に高く見えたのだ、もう少し小さかったような気がするのだが。

「いいえ、お嬢様。いつもと変わりませんわ」

 メイドは私の言葉を否定した。

 それもそうかと思ったところで、気付いた。

 メイドが大きくなっているのではない。

 私が小さくなっているのだ。

 ……おかしい。

 自分の体を見下ろして、違和感に目が回りそうになった。

「私、縮んでないか……?」

 メイドと私は頭半分ほどしか違いがなかった気がするのだが……

 視点がやけに低い気がする、何かがおかしい。

「いいえ、お嬢様。いつも通りですわ」

 ……。

 確かにそうか。

 どうも寝ぼけていたらしい。

 よく考えてみれば自分はまだ10にもなっていない子供だ。

 平均的な成人女性と同じ身長を持つメイドとさして変わらぬ身長を持っているわけがない。

「……悪い。寝ぼけていた」

「ええ。そのようですね」

 メイドは柔らかく微笑んだ後、さあこちらへと手招きした。


「あ、リュシカちゃん。おっはよー」

 メイドに身なりを整えてもらった後、食事に向かったら先に食卓についていた母上がニッコリと笑った。

「……お、おはよう……?」

 何故かとんでもない違和感を持った。

 理由はわからないが、自分の中の何かがこれは違うと全力で否定している気がする。

 よくわからないが、これは違う。

 しかし一体何が違うと言うのだ?

 いつもと同じ風景じゃないか。

「……おい」

 その場で考え込んでいたら母上と同じく食卓についていた父上に声をかけられたので慌てて座った。


 食事を終えた頃には違和感はほとんど消えていた。

 だって余りにもいつも通りだったから。

 いつものように母上が嬉しそうに食べながら話しかけてくることに適当に相槌を打つだけのいつもの風景だった。

 一体何に違和感を持ったと言うのか……

 食事を終えた後は特に絶対にやるべきこともないので本でも読んで過ごすことにした。

 暗い書庫の中に一人きりで入って棚を見上げた。

 ここがこの屋敷の中で1番好きな場所だった。


 午後からは魔術の修練があるが、午前中は暇なのだ。

 本を読むのに飽きれば森でも散策するか。

 そろそろいい毒の花が……

 …………毒?

 私は何を考えている?

 毒など集めて何をする気だ?

 メイドにでもくれてやるつもりだったのだろうか?

 しかも一人で行こうとした気がする。

 森の中は魔物だけでなく毒を持つ植物も多くて危険だから、もしも用があるなら必ず父上かメイドと行くようにきつく言いつけられているのに。

 ……やはり、何かがおかしい。

 私の中で何かが確実にずれている。

 しかし、何がおかしいのか具体的には何もわからない。

 書棚を見上げた状態で考え込んでいると、背後から微かに何者かの気配を感じた。

 振り返ると見慣れた赤毛と見慣れた気の抜けた笑顔があった。

「なんだ、母上」

 入ってきた音も気配もなかったが、元々盗賊であったからそれほど驚いてない。

「えへへ……暇だから遊びに来た」

「そうか」

 ここにきた理由もいつも通りのものだったらしい。

 思わず溜息をついた。

 この親は毎回毎回暇だからと用もないのにここに入り浸り、私の読書の邪魔をしてくるのだ。

「リュシカちゃん、今日は何読むの?」

「さあな。今から考えるところだ」

 本当は物語でも読むつもりだったが、そうすると内容を教えろだの朗読してくれだの言われる可能性が高いのでやめておく。

 書棚の間を歩いて小難しい魔術書が並んでいる書棚の前に立つ。

 後ろについてきた母上が、小さく、うぇ、と悲鳴をあげた。

 母上は字を読むことはできるし読書もそこまで嫌いというわけではないが、難しい本を読むのは嫌いなのだ。

 特に専門書系は基本的に拒絶反応を見せる。

 棚の中から1番ややこしそうなタイトルの本を抜き取った。

 分厚くて、中を軽くみてみるとどのページも小さな文字がびっちり詰まっている。

「うわあ……リュシカちゃん、それわかるの……?」

「さあな。読んでみなければわからん」

 半分も理解できないだろうが、変に簡単なものを選ぶといちいち突っ込んでくるから面倒だ。

 とりあえず目次を開く。

 何やら色々と小難しい項目目が書いてあるが……思いの外理解できる?

 実はそれほど難しい内容ではないのだろうか、そう思うが、自分でも何故理解できるのかよくわからない。

 座学も魔術も父上に割と厳しめに叩き込まれているが、この内容を理解できるほどの知識を私が持ち合わせているというのはどうもおかしい気がする。

 ……まあ、良い。

 読めるのなら読めばいい、理解できるのなら理解してしまえ。

 本を抱えて、書庫の端にある机に向かう。

 そこに本を下ろすとどすりと重苦しい音が立った。

 目次をパラリとめくって中を読んでいく。

 本を読んでいると自分のちょうど向かいの席に母上が腰を下ろした。

 持ってきたのは童話集のようである。


 時々母上が暇そうな声で話しかけてきたが、空返事をしているうちにその声も聞こえてこなくなった。

 代わりに聞こえてきたのは健やかな寝息。

 本から顔を上げてそちらをみると、自分の向かいで母上が机に突っ伏して居眠りしてた。

「……母上、寝るなら部屋に戻れ」

 声をかけるが返答はない。

 思わず溜息をついた。

 ……まあ、いいか。

 今は春だ、風邪をひくことはないだろう。

 ならもうこのまま放置してしまえ、寝ぼけてる母上は色々と面倒だ。

 気の抜けた顔で眠り続ける母上の顔を見て、こういうところが面倒な男を引き寄せるのだろう、と一人思った。


 母上が眠りに落ちてそれほど経たないうちに書庫のドアが開いた。

「やはりここか……おい、起きろ」

 入ってきた父上が机に突っ伏している母上を呆れ顔で見て、溜息をついた後に母上の肩を揺さぶった。

 おそらく姿が見えないから探していたのだろう。

 時々屋敷を抜け出して森の中を散策している時があるから、おそらくそれを危惧して。

 この男は割と過保護なのである。

 それも、病的に。

 おそらく首都の屋敷からこんな辺境の地に居を移したのもその過保護が行きすぎた結果なのだろう。

 父上は母上を極力他人――特に男と接触させたくないらしい。

 これだけ聴くと父上がただ母上に執着しすぎているだけのようにも取れるし、実際独占欲もあるのだろうが、それを上回るほど、父上は母上を心配しているのだ。

 9年も寝食をともにしていればそのくらいは理解できた。

 どうしてそんなことになったのかというと、昔色々あったらしい。

 私は何があったのかは聞いてないし何があったのかもわからないが、おそらく結構酷いことだったのだろう。

 ……わからない?

 また強烈な違和感が襲ってきた。

 頭のどこかで何かが、わからないわけがないと叫んでいる。

 だが、理性では知るわけもないと理解していた。

 何度か聞いたことはあったが、子供に聞かせる話じゃないと教えてもらったことはないのだから。

 ……うん、おかしいことは何もない。

 今日はなんなのだろうか? ただ普通に生活しているだけでこんなにも違和感を感じ続けるのはおかしくないか?

 風邪でもひいたのだろうか? それとも他に何かあるのだろうか?

 とりあえず、今日は少し早めに寝てもいいかもしれない。

 そんな事を考えた時、肩を揺さぶられていた母上がゆっくりと目を開いた。

「……う、ん?」

「こんなところで寝るな」

 赤い瞳がぼんやりと父上の姿を捉える。

 寝ぼけていた顔が花が綻ぶような笑顔にゆっくりと変化した直後、母上はガバリと起き上がった。

 そして倒れこむように父上に抱きついた。

「……おい、ひっつくな」

 慣れた様子で母上を受け止めた父上は母上を引き剥がそうとした。

 しかし、母上は力一杯父上の体を抱きしめて離れようとしない。

「へへ…………えへへへへ…………」

 不気味に嬉しそうな声で母上は笑う。

 酔っ払いのようだと思ったが、ただ寝ぼけて甘えているだけなのだ。

 昔からよくあることらしい、

 というか私もたまにやられる。

 だから起こさなかったのだ。

「おい、いい加減にしろ」

「いや」

 不気味に笑う母上を引き剥がせなかった父上が嫌そうな顔を作って母上にそう言ったが、母上はへにゃりと笑ってさらにひっつく。

 そして目を閉じた。

 本当に寝ぼけていただけだったらしい、父上に引っ付いたまま何事もなかったかのように眠っている。

「おい、ルーラ。起きろ」

 眠りに落ちた事で力が緩まったのか、父上は母上の身体をようやっと引き剥がして、肩を掴んで転ばないように支えつつ揺らした。

 母上は起きなかった。

 完全に寝てる。

 父上は深々と溜息をついて、慣れた手つきで母上の身体を抱えた。

「母上はよく寝るな」

「全くだ……」

 苦々しげな顔で答えた後父上は出ていった。

 母上をベッドに放り込みにいったのだろう、昼食前には叩き起こすんだろうが、その直前までは寝かしてやるのだから父上は割と甘い。

 …………。

 …………?

 …………っ!?

「……あ、れ?」

 これはおかしい。

 おかしい、おかしい、絶対に何かがおかしい。

 違う、違う、違う、私の日常はこれではなかった。

 では、何が日常だった?

 もっと暗くて、もっと――

 それに、父上も母上も――

 その何かに手が触れそうになった時、心臓が酷く痛んだ。

 ヒュウ、と喉からおかしな音が出る、心臓と喉が痛い。

 痛い、痛い、痛い、痛い。

 思い出したく、ない……!!

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 ……………………。

 …………えっと、何だったか?



 そろそろ昼食の時間になるからと適当なところで切り上げて書庫を出た。

「おはよーりゅしかちゃん……」

「おはよう、よく眠れたか?」

 もう食卓についていた母上は朝よりも眠そうな顔で片手をヒラヒラと振った。

「んー……あんまりー……変な夢見てた気がする……」

「そうか」

 夢見心地が悪かったらしい、変な時間に寝るからそうなるんだ。

 この調子だと昼食を食べた後にまた昼寝しそうだ。

 ……父上からしてみると、下手に動き回られるよりはそちらの方がマシだろうが。

 それにしても、なんでこんなによく寝るんだろうか、母上は。

 実は夜眠れてないとかだったりするのだろうか? いや、それはないか。

「なんかローランドが女装してた気がする……ちょー可愛かった」

「は?」

 母上のよくわからん発言に父上が目を丸くする。

「そうか、父上が女装を……可愛かったのか?」

 純粋に疑問に思ったので聞いてみた。

「うん。可愛いってか綺麗な感じ? 美人さんだったよ?」

「ほう……」

 ちらりと父上の顔を盗み見ると、なんとも言えない顔をしていた。

「それで思ったんだけど、リュシカちゃんはきっと美人さんになるよ」

「そ、そうか……」

 父親の女装姿と比較されてそう言われるのはなんかモヤモヤしたがまあいいか。

 確かに父上もそれなりに顔は整っている。

 女版父上と言われるほど父上にそっくりな私もそうなってるはずなのだ。

 ……まあ、母上には当然負けてるわけだが。

 それにしても、もうちょっと頑張っても良かったんじゃないだろうか母上の因子。

 似てるとことが目の色しかない、だから並んでもあんまり親子に見えない。

 そこまで気にしてるわけじゃないからどうでもいいが。

 

 昼食を食べた後は魔術の修練をした。

 昼食を食べたら目が冴えたのか、元気になった母上が魔術の修練を見に来たが、いつも通りのことなので特に気にはならなかった。

 だが、終わった後に偉い偉いと頭をぐちゃぐちゃにされたのはちょっと嫌だった。

 修練が終わった後はまた書庫に引きこもった。

 今度は母上はついてこなかったので、適当に童話集を引っ張り出して読んだ。

 午前中に読んでいた本の続きを読んでも良かったが、こういった類の本は母上がいる時に読み始めると面倒だから一人きりの時に読むに限る。

 内容は極ありふれたものだった、どこかで読んだことのある話ばかりで心に残ったものはなかった。

 思い出してみれば、童話やら物語系の本はあらかた読み尽くしている気がする。

 そろそろ新しい本が欲しいと思った、誕生日にでも頼んでみるか。

 書庫で本を読んでいるうちに日は暮れ、そろそろ夕食の時間だった。

「リュシカちゃん、明日お城に行くことになったよ」

「明日? 随分急だな」

 食卓で母上がニッコリ笑ってそんなことを言って来たので、少し驚いた。

 緊急の用があるのか、それとも突発的に呼び出されたのか。

 おそらく後者、王妃様が友人である母上とお茶をしたいとか言って来たのだろう。

「まあ、良い。――留守は任せよ」

 母上が城に行くというということは当然父上も行くのだろう。

 なら、屋敷に残るのは私とメイドだけだ。

 いつ頃出るのかは知らないがおそらく二人とも夜まで帰ってこないだろう。

 久しぶりの楽しいお留守番である、しかも結構長い時間になりそうだ。

 多少ハメを外しても問題はあるまい、たまには日中何もせずにぐうたらするか、自分の身のためにならない類の書物を読み漁るか……

 非常に楽しみだ。

「留守番はしなくて結構だ。お前も来い」

 父上の非情なセリフに思わず顔をしかめた。

「な、何故だ……私がそっちに行ったところで何もないであろう?」

 以前も何度か連れていかれたことがあるが、本当に特にやることなんかないのだ。

 正直言って暇である、うちにいた方が何倍も有意義だ。

「殿下がお前に会いたがっているそうだ……でなければなら私もお前のような無愛想で生意気な子供を連れて行きたくない」

 そのセリフに少しだけムッとしたが、無愛想なのも生意気なのも承知してるので無駄に腹を立てても無意味だろう。

 残念ながら性格まで父に似たからな、母上の愛想の良さか無邪気さが欠片でもあればもう少しマシだったが。

 それにしてもまたあの殿下は何を考えているのやら。

 会ったところで特に会話が弾むわけでもないし、向こうだって私がいたところで楽しくはないだろうに、何故定期的に会いたがるのか……

「連れて行きたくないならそれで結構じゃないか。仮病でも使えばいい」

「馬鹿かお前は。そんなことをしてみろ、王妃様達が心配する。それに勘付かれた時に心象が悪くなる」

 馬鹿は言い過ぎだろうと思ったが、いちいち反論しているとキリがないから黙っておく。

 それに嘘をついてもどうせ母上のせいでバレそうなこともなんとなく予想はできた。

 他に行かずに済む方法を考えてみた。

 外せない用事がある、という言い訳を考えてみたが、これもダメだ。

 基本的に屋敷内だけで世界が完結している私に外せない用事などあるわけがない。

 それに相手は王族だ、王族を蔑ろにしてまで優先すべき事項にできるものなどほとんどないだろう。

 仮病ならうつしたら大変だからでなんとかなるのだが……

 いっそ自分で自分を病魔で呪うという手もあるにはあるが……解呪されそうだし……

 うーん……

 思いつかない……

「……ふん、なら仕方ない」

 できれば行きたくないが、いい案も思いつかないので素直について行くか……

 本でも持っていくか……最悪それを読めば時間は潰せる……

「リュシカちゃん、お城行くのそんなに嫌? 私は久しぶりに外出られるから楽しみだよ?」

「嫌という程では……やることもないし暇だし面倒だからうちにいたいだけで……」

 別に城で嫌な思いをした事はない、王達は皆優しいし、私にもよくしてくれている。

 ただ、退屈なだけだ。

 それから……私はあまり外に出るべきではない。

 今は例外だ、あの話を聞いて、それでも私の手を取った奴に義理は返すべきだ。

 全部終わったらまた屋敷に戻って、それで……

 …………

 ………………?

 ……今、私は何かを考えていなかったか?

 何を考えていたのだろうか?

 思い出せない。

「リュシカちゃんって、案外ものぐさだよねー」

「……ふん」

 何を考えていたのか思い出そうと考え込みかけた時に母上がそう言って笑ったから、思考が霧散した。

 まあいいだろう、きっととてもどうでもいいことだ。

「そういえばさー、お城に行くのは午後からなわけじゃん? その前にちょっと街の方も見たいなー」

「……駄目だ」

 母上が父上を上目遣いで見上げながらねだると、父上は少し考えたあとその提案を破却した。

「むー……ケチ」

「ケチじゃない……お前らは目を離すとすぐにいなくなるだろう」

 確かに母上はすぐにいなくなる。

 興味があるものがあるとフラフラとそちらに向かうのだ。

 しかも母上はもともと盗賊だ、隠密行動にそれなりに精通してるからそれを使って本当にいつの間にかいなくなる。

 いなくなった方は呑気だが、いなくなられた方としてはたまったものではないらしい。

 あの旅の際に母上はしょっちゅう仲間達とはぐれては父上の肝を冷やして発見された後にガミガミ怒られていたようだ。

 それでも懲りないのが母上の悪いところだ。

 ……と、そこまで思ってふと気付いた。

 今、父上はお前らと私と母上をひとまとめにして扱わなかったか?

「おい、父上。何故お前らなのだ?」

「……お前も同じだからだ馬鹿娘。……お前は変なところばかり母親に似ているからな」

 どこが同じだ。

 私はそんなこと一度もした覚えは……

 いや、あったか?

 しかし思う浮かんだのは父上の仏頂面ではなくて、見覚えのない女の顔と声だった。

 半ば呆れたような顔でその女は私の両頬をつねりながら言う、リュシカ、手前がいなくなったせいでこっちは大惨事だボケ、と。

 この女は誰だ?

 見覚えはない、そして先ほどまでは思い出せていた女の顔も声も薄れていく。

 よくある夢で見た光景のように薄れて消えていく。

 ……これはなんの記憶だ?

 ……夢と現実があるごっちゃになっていたのだろうか?

 おそらくそうだろう、あんな女に会った事はないのだから。

 本当に?

「リュシカちゃん、どうかした?」

「いや……なんでもない」

 思いの外考え込んでいたらしく、母上が少し心配そうな顔でこちらを見ていた。

 そうだ、きっと夢なのだ、考え込んでも意味などない。

「それと父上、私が母上と同じなのは目の色くらいだ。それ以外はほとんど全部父上に似てしまったからな」

「……どこがだ。お前は案外母親似だよ。ものぐさなところも、興味のあるものができると他に意識が向かなくなるのも、笑った時の間抜け面も……悪いところばかり似ている」

「ちょっとー、遠回りに私の悪口言ってない? てか間抜け面ってひどい」

 母親がちょっと機嫌を損ねたような顔で父上に抗議する。

「そうだぞ失敬な。私は母上ほどものぐさではないし、母上ほど考えなしではないし、笑った顔はどちらかと言うと父上に似た悪人面だと評判なんだぞ?」

「リュシカちゃんひどーい」

 母上がおかーさんは悲しいよ、と目元を抑えて泣き真似を始めたがさらっと無視した。

 どうせ大して傷付いてなどいないのだ、母上はかなり図太いからな。

「……そうか、自覚がないのか」

 父上が半ば呆れたような顔でそんなことを言ってきた。

 自覚も何も母上よりも何十倍もましなのだから、それはもう似ていると言う次元ではないだろう。

「リュシカちゃんと私、そんなに似てないと思うけどなー……君にそっくりじゃん、堅物で愛想なくて滅多に笑わないところとかそっくり」

 母上が私の悪口言った、酷い。

 だが、自分が心底可愛げのない女であることは十分理解しているから否定はできないし別に傷付いてもいない。

 あの大馬鹿者は私の事を可愛いとかほざいたし、あの大ボケ毒マニアにも多少可愛げがあるとか言われたが、そんなわけがな…………

 …………なんの話をしていたんだったか?

「堅物で悪かったな……それよりいいのか? 今のでそいつが大分落ち込んでいるようだが?」

「え? ……あっ!! リュシカちゃんごめん!! 別にリュシカちゃんの悪口言ったわけじゃないんだ!! ほ、ほらリュシカちゃんは可愛いから堅物で愛想なくて笑わなくてもめちゃくちゃ可愛いし、たまに笑ってるところ見るとすごいラッキーな気がして嬉しいし!」

「あんまりフォローになってないぞ、母上」

 考え込んでいたのを落ち込んでいると勘違いされたらしい。

 勘違いだと正してもいいが、別にいいか。

「……と言うか父上のフォローはしないのだな、母上」

 気が悪そうな仏頂面のままの父上を見て母上にそう言って見た。

 母上は父上を意外そうな顔で見た。

「うん? あれ、ちょっと気にしてる?」

「……別に」

 口では否定したが、絶対気にしてると思う。

「そっかあ……ごめんね……でも私は堅物で愛想なくてたまに笑ってくれる君のことが大好きだからなあ……なんて言うか安定感あって安心する。クソ真面目でいろんな事をいっぱい頑張っるのも知ってるし、私みたいのに本気で怒って私のために泣いてくれたのは君くらいだしなあ……」

「……ふん」

 褒めてるんだか貶してるんだか惚気てるんだかよくわからない母上の発言に父上の表情が変わった。

 怒っているような表情だが顔がガチガチに固まってるし、おそらくただの照れ隠しだ。

 おそらく大好きだと言われて内心かなり舞い上がっているのではないだろうか?

 堅物で面倒な男だからそれを表に出す事をよしとしていないのだろう。

 本当に面倒な男だ。

 さっさとその好意を正直に何の含みもなく伝えられていたのなら、多少は……たしょう、は…………

 …………。

 ………………あれ。

 やはり、これは……違う。

「リュシカちゃん? リュシカちゃん、大丈夫!?」

「……何が?」

 顔を上げると、母上が変な顔でこちらを見ていた。

「顔真っ青なんだけど。……え? 私のせい?」

「あんなのでそこまで気を悪くするほど傷付きやすい奴ではないだろう、そいつは。……おい、どうした? 何かあったか?」

 父上がめずらしく私の事を心配している。

 すごい、本当に珍しい。

 あまりの珍しさに何を考えていたのかすっかり忘れた。

「いや……なんでもない……何か嫌な事を思い出していた気がするのだが……何を思い出していたのかすらもう忘れた」

 そういうと両親は訝しげな表情をした。


「リュシカちゃん、リュシカちゃん、今日一緒に寝ていい?」

 夜の読書を早々に切り上げて寝る準備をしようと思ったところで母上がそんなことを言ってきた。

 嫌だというと母上はしょぼくれた。

「あのなあ……母上、私はもう9歳なんだ……一人で眠れるのなら一人で寝たいんだよ」

「……たまにはいいじゃん」

 いじいじと母上は引き下がらない。

「だいたいどういう風の吹き回しだ?」

「……だって今日、リュシカちゃん様子おかしいし」

 それを言われると否定はできない。

 自分でも今日の自分がおかしいことは理解していた。

 今日1日を振り返ってみると、やたらと正体不明な違和感を持っていたり、記憶が時々途切れたり……

 だが、だからと言って一人で眠れない訳では……

「だからちょっと心配なんだよねえ……だから、駄目?」

 …………。

 ……まあ、いいか。

 さっさと寝たいし、ここで嫌だと言っても仕方なさそうだ。

「わかった」

 溜息を飲み込んでそういうと母上は嬉しそうな顔で笑った。

 

 二人でベッドの中に潜り込んでも、窮屈さは感じない筈だった。

 ベッド自体が大きかったのもあるのだろう、成人女性としては小柄で痩せっぽっちな母上が入ったところで広さは十二分にある。

 広さは十二分にあるのだが、何故か私は窮屈な思いをしていた。

「母上、離せ」

「いや」

 何故かというと、母上が私の体をぬいぐるみにでもするように抱き抱えているからだった。

 擬音でわかりやすく表現すると、ぎゅー、て言ったような感じだった。

 流石に苦しい、これでは寝にくくて仕方ない。

 おかしな夢を見そうだ。

「母上、離さなくてもいいから少し緩めてくれ、苦しい」

「え、ごめん」

 母上の腕の力が弱まった。

 そしてできた隙間から逃げようとしたが、阻止された。

「逃がさないよー?」

 顔は見えないがおそらくにこにこ上機嫌で笑っているのだろう。

 ……9歳にもなって流石にこれはどうかと思うのだが。

 あの毒マニアに見られたら爆笑されそうな気がするからやめてほしい。

「……リュシカちゃん、あったかい」

「どちらかというと母上の方が体温が高いと思うが?」

「そんなことないよ……」

 そう言って笑う母上の声はとろんとしていて、眠そうだ。

 昼寝してたのにもう眠いらしい、どれだけ眠れば気が住むんだろうかこの人は。

「おやすみ、リュシカちゃん……」

「……ああ、おやすみ」

 その声の後に聞こえて来たのは静かな寝息だった。

 やれやれと溜息をつきそうになったが、それは欠伸に変わった。

 ああ、私も結構、眠い。

 というか母上が温いせいで眠気がどんどん増していく。

 じきにそんなことも考えられなくなって、私の意識は沈んでいった。


 雨がざあざあと降っている。

 屋敷の中から見る雨は好きだったが、外で浴びる雨は嫌いだと思った。

 ――魔力がもうほとんどない。

 使い慣れない、というよりも適性がまるでない治癒魔術になんぞ手を出すからこうなったのだろう。

 ああ、馬鹿なことをした。

 慣れないことなどしないで、転移なり浮遊なりを使ってさっさとあの幼い聖女を見つけてしまえばそれで終わりだったのに。

 そうすれば、魔力切れで私が死にかけることはなかっただろうに。

 それでも仕方がないと諦めよう。

 あれは致命傷だった。

 それにあんなに大量の血を見たのは久しぶりだ、だから狼狽えてしまった。

 この私が、大量出血など見慣れた私が、あの程度で動揺するなんて。

 一昔前の自分が今の自分を見たらとても憎らしく嘲笑ってくるのだろう。

 くだらないことを考えながら、下を見下ろす。

 血色はいい、傷も治った。

 魔力切れで死にかけの自分と違って、少なくとも凍死や衰弱死することはないだろう。

 なら上出来だ、私は十分やりきった。

 ――血管に冷水でも混ぜ込まれたかのように全身が冷え切っていて、指先が痛いほど冷たくてもう上手く動かせない。

 後ほんの少しでも魔力が残っていたら火をつけられただろうが、きっとそれも無意味だった。

 熾せたとしてもほんの小さな灯火程度だっただろうし、きっとこの雨ですぐ消えてしまっただろうから。

 寒い、と遺言になりそうな掠れた声が漏れた時、奴が目を覚ました。

 虚ろな青色を見て、最期にこれが見られたのだから、ここで逝っても悔いは残らないだろう。

 どうせ行き先は地獄だ。

 それでも地獄の両親――特に父親にざまあみろと言えそうな土産話もできたから、これでいい。

 充分だ、もう充分だ。

 もうすでに私は報われている、だからもう――

 ぬくもりが?に触れた。

 すでにぼやけた視界で奴が私の?に触れている事をかろうじて確認する。

 その後は、もうよくわからない。

 死にかけの意識で私が認識したのは、奴が私の身体を抱きしめた事くらいだった。

 冷え切った身体には痛いくらいの温もりに、馬鹿な男め、と思ったところで意識がぶつりと切れた。


「おはようございます、奥様、お嬢様」

「……おはよう」

 聞きなれたメイドの声に半ば寝ぼけた状態でそう返した。

 身体がやけに重くて暖かいと思ったら、母上に抱きしめられたままだった。

 メイドの声など届いていないのか、能天気で幸せそうな顔で寝息を立てているだけだ。

「おい、起きろ母上」

 ペチペチと?を叩くと、母上は小さく呻きながら目を開く。

「うぅん……おはよ、りゅしかちゃん……めいどちゃん……」

「痛い、母上離せ」

 寝ぼけているのか母上は満面の笑みを浮かべて私の身体を強く抱きすくめる。

 割と痛いのだが、母上はよくわからない笑い声を立てるだけでちっとも力を弱めようとしない。

「えへへへへ……」

 笑いながら再び目を閉じた、おそらく完全に寝ぼけている。

 ……少しだけカチンときた。

「――」

 小さく呪文を唱える。

 そして、冷気をまとわせた指先で母上の薄い腹を思い切り掴んだ。

 肉があまりない腹は掴み所がなく指が上滑りしたが、それでも効果は十分だったようで。

「――!!?」

 母上は奇っ怪な悲鳴をあげながら完全に目を覚ました。


「うう……リュシカちゃんひどい」

「まだ言うか」

 未だにぐちぐちと言い続ける母上に溜息をつく。

 父上がすっ飛んできた時は流石にやりすぎたと思ったが、さっさと目を覚まさない母上が悪い。

「ちょー冷たかった……」

「大した冷たさではなかったであろう?」

 この程度なら笑って流せる程度のダメージしかなかっただろうに、何故今日はこんなにしつこいのだろうか。

「でもびっくりした……ローランドのよりマシだけど……リュシカちゃんまで……」

 おかーさんは悲しいよ、と母上が泣き真似をする。

 今ちょっと聞き流すには惜しいフレーズが聞こえた気がするので遠慮なく聞いてみることにしよう。

「そういえば父上はどうやって母上を起こしているのだ?」

 よく考えてみると、寝起きの悪い母上を父上が普段どのように起こしているのかは聞いたことがなかったし、見たこともない。

 なんとなく叩き起こしているという印象はあったのだが、実際手を挙げているのか魔術を使って強制的に目を覚まさせているのかはわからなかった。

「んー? 知りたい?」

 母上が何故か人の悪い笑顔でニタニタとそう言った。

 ちらりと父上の顔を見ると、目に見えて狼狽えていた。

 ……ほほう?

「是非に」

 面白いことになりそうだと私も笑う。

「じゃ教えてあげるー……えっとね」

「ルーラ」

「なあに?」

 切羽詰まった様子の父上に話を遮られた母上はキョトンとした顔を父上に向ける。

 その顔を見た父上は苦虫を噛みしめるような表情をしていた。

「…………今日、街に連れてってやる。前食べたがってた菓子屋の焼き菓子も買ってやる。だから……黙ってろ」

「ホント!?」

 やったー、と母上が破顔する。

 食べ物でつるのか……そしてつられるのか母上……

「ってわけでごめんねリュシカちゃん、やっぱ内緒」

「……実の娘より菓子を優先するのか、母上」

 そう言うと母上は狼狽えて始めたのに。

「だ、だって久しぶりに街に連れてってくれるって……ローランドが自発的に私をデートに誘ってくれるなんて天地がひっくり返るくらい滅多にないことだし……」

「そうか、あれデートの誘いだったのか……なら私は留守番でもしていよう、邪魔をするのも悪いからな……終わったら迎えにきてくれ」

 いじいじとしたふりをすると母上が更に狼狽えた。

 少し愉快。

「えと……あれは言葉の綾というかなんというか……そういう意味じゃなくて……一緒に出かけることをデートって言っただけで……リュシカちゃんを連れてかないって意味じゃなくて……」

「別に置いていってもらって一向に構わん。人混みは嫌いだからむしろそっちの方が助かる」

 きっぱり言ったら母上がしょぼくれた。

 非常に悲しそうな顔をしているが、大仰すぎるから多少のふりは入っているのだろう。

「リュシカちゃん……一緒に行ってくれないの……?」

「…………私がいても邪魔だろう?」

「邪魔じゃないよ、一緒の方がうれしいよ」

 ふむ……

「本」

「本?」

「新しい本が欲しい……本屋に寄るならついていくが?」

 そういうと、母上は顔を輝かせた。

「うん、行く行く!」

 しょぼくれた顔から一転、非常に嬉しそうな顔である。

 ……私も父上のことが言えないくらい、母上には甘くなるな。


 朝食を済ませ支度が終わった後、街に向かった。

 街までは徒歩だと1日以上かかるらしいが、父上が転移魔術を使ったので一瞬でついた。

「うわあ……久しぶりだなあ……」

 目を輝かせる母上の手を父上が掴む。

 母上は興味があることがあるとふらっとそっちの方向に紛れるから、そうならないようにだろう。

 ……扱いが子供にするそれとほぼ同等である。

 まあ、母上は私よりも子供っぽいからそうなってしまうのも仕方がないのだろう。

 と、思っていたら父上に手を掴まれた。

「なんだ父上」

「お前もすぐにいなくなるからな」

「母上と同じ扱いをするな父上。私は母上ほど身勝手な行動はしない」

 そう言って手を振りほどく、まったく……

 親子三人で手をつないで……というのはなんだろう……個人的に恥ずかしい……

 それならいちゃついてる夫婦とその子供という図式の方がまだまし……だと思う。

 ……母上がもう少ししっかりしていればな。

「あ、なんだろあれ面白そう」

 と、何かを見つけたらしい母上が父上の手を引っ張る。

「おい、引っ張るな、落ち着けみっともない」

 とか言いながら、それでも父上は母上をその場に留めようとはせずについていく。

 私もついていこうとした。

「――!?」

 が、先程父上に掴まれたのとは逆の手を何者かに掴まれ、引っ張られる。

「喚くな、毒ぶっ込むぞ」

 叫び声を上げようとしたところで、ぞっとするような冷たい囁き声が聞こえてきた。

 思わず黙り込む。

 聞こえてきたのは女の声。

 女は人混みの中を器用に縫って歩いて、暗い路地裏へ。

 引き摺り込まれた路地裏で見上げた女の顔はやけに特徴がなかった。

 どこにでもいそうな、大きな特徴がない事が特徴のような、そんなみてくれだった。

 女はそのどこにでもいそうな顔を大仰に歪めて溜息をついた。

「全く、やあっと見つけたと思ったら、何チビになってんだよお前」

「……は?」

 意味がわからない。

 ひょっとして何かの勘違いか人違いかと思って指摘しようとしたところで、女が呆れたような顔のまま私の?に手を伸ばし、つねった。

 そんなに痛くないが見知らぬ他人に顔を触れられるのは不快だった。

「手間かけさせやがって……さっさと帰るぞリュシカ、つーわけでとっとと起きやがれ」

「ひとちがいだ」

 そう言ったのはほぼ同時。

 特徴のない女は何故か目を丸くした。

「お前、リュシカだよな?」

「リュシカではあるが、人違いであろう? 私は貴様のことなど知らぬ」

 そう言うと、女は私の?をつねる力を若干強めた。

 少し痛い、いい加減放してほしい。

「はあ!? リュシカ貴様、大親友である私の顔を忘れたのか? え、何? 頭の中までガキンチョ化してるの? お前」

「私に親友なんぞおらんわ」

 バッサリ言い捨てると、女は呆気にとられた。

 と言うか、さっきからチビになってるだのガキンチョ化だの……この女は何を言っているんだ?

「え……? 冗談でなく本当に覚えてない……? 一緒に双頭のバジリスク狩ったり毒女二人組として活躍した記憶も……ない?」

「そんな奇っ怪な記憶は持っていない。人違いだ」

 そう言うと、女はうわーと表情を暗くさせた。

「……本当に、記憶もその姿のままなんだな、お前。……ならしゃーない、初めっから説明するわ……リュシカ、手前はうっかりドジを踏んで目を覚まさなくなった」

「……は?」

 本当に何を言っているんだろうか、この女は。

 目覚めなくなった、と言われても起きているのだが……

「……原因を探った私達はある魔物の術によってお前が夢の世界に囚われた事を知った。外からは何をやっても目が覚めないっていう呪いでな、仕方ないから大親友である私がお前の夢の中までお前を探しにきたわけだ」

「……何を、訳のわからない事を」

 そういった術は確かにある。

 母上も昔それに囚われて、父上が必死こいて助けて……

 と言っても母上の場合は元凶の魔物を殺したらなんとかなったという話だが……

 ……そんな話、聞いた事があっただろうか?

 いいや、聞いたことがない。

 なのに何故自分はそんな事を知っている?

「ようするに、ここはお前が見てる夢の中だ。お前の事だ、どうせ違和感くらいは感じてたんだろう? さっさと起きるぞリュシカ。このままだとお前、衰弱死するぞ」

 女の言葉に考え込む。

 確かに違和感はあった、具体的にいうと昨日の朝から。

 では一昨日はどうだっただろうかと思い出してみたが……よく思い出せない。

「……お前がここを夢の中だと認識して、元の記憶を思い出せば夢は覚める。そう言われたんだけど、いい加減思い出したか?」

 ………………。

 いや違う。

 全部気のせいなのだ、大体なんで私はこんな怪しげな女の言う事を鵜呑みに仕掛けている?

「……冗談も、大概に」

 ここが夢? この女は何をいっているんだ?

 頭のおかしい変人なのだろうか?

 そうに決まっている。

 でなければ私は……

「……お前、あの時自分の記憶は絶対に忘れられないって言ってたけど、あれは嘘だったのか? いや違うな、お前が思い出そうとしてないだけだ。らしくもないじゃないかリュシカ、お前が目をそらすなんて」

「……なにを、言って」

 わけがわからない。

 ただなんとなく。

 これ以上この女の話を聞くのはよくないと、そう思った。

 その時、一陣の風が吹く。

 私の体が浮き上がって、路地裏の一歩外まで引き戻された。

「なっ!? リュシカてめ……。……っ!!?」

 私に向かって何かを叫びかけた女の言葉が途中で止まる。

 その喉元には、銀色に光る短刀の刃が背後から突きつけられていた。

「うちの子に、何してるのかな?」

 女に短刀を突きつけているその人物――母上が完全に笑みを消した無表情でそう言った。

 あまり見たことのないその表情に、背筋がぞくりと凍りつく。

「……無事か?」

 声に見上げると魔術で私を引き寄せた父上が女に杖を向けたままちらりとこちらを見やる。

 問題ないと言おうとしたところで、女がかすかに笑い声をあげた。

「……そうか、これがお前の望みか……はは……流石に万事休す、ってわけで退散させてもらうわ」

「……逃げられると」

 母上が淡々とそう言う声を引き裂くように女は叫び声をあげた。

「てめー覚えてろよリュシカ!! 今起きなかった事を死ぬほど後悔させてやる!! 具体的に言うと顔面をアーティスティックに落書きしてやる!! 嫌ならさっさと起きやがれ!」

 そう叫んだ一瞬後、女の姿が消失した。


「え? ――何、これ?」

 目の前で消滅した女の姿に母上が目を白黒させる。

 私はあたりを見渡したが、その姿は見つからないし、気配を探っても感じられない。

「ルーラ、気配はまだあるか?」

「ううん。ない。ローランド、そっちはどう? 魔力感じる?」

 父上は無言で首を振る、自分でも魔力探知をしてみたが、あの女らしき反応は引っかからなかった。

「……転移魔法、かなあ?」

「……いや、そんな術を使った気配はなかった」

 転移魔法は大掛かりな術だ、発動に時間がかかる上に使用した後はしばらくその場に魔力の残滓が残る。

 だけど、それすら感じられない。

 本当に、幻が消えたかのように消え去っているのだ。

「なんかよくわからないけど……気配ないし…………。リュシカちゃん大丈夫!? ごめんね私のせいだ……」

 考え込んでいた母上が私の顔を見て表情を一転。

 直後にきつく抱きしめられていた。

「は、母上痛い……!!」

「ごめんね……私がしっかりしてればもっと早くに気付いたのに……」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめられる、割と本気で痛いのだがなんとかしてくれないだろうか?

「ルーラ、リュシカが潰れるぞ」

「……え? あっ……ご、ごめん!」

 父上に指摘されて母上はやっと力を緩めた。

 本当に潰れるかと思った。

 母上は腕力がないからそのぶん手加減抜きで抱きしめてくることがあって、そう言う時は今回みたいに苦しくて痛いのだ。

「……それで、あの女はなんだったんだ? 何かされたか?」

「いや何も……恐らくは人違いだったのであろう……よくわからない事を喚いていただけで……」

 父上に問いかけられたので素直によくわからないと言う事を答えた。

 本当に何がしたかったんだろうか、あの女は。

「最後によくわからないことを言っていたし……頭のおかしい変人さんだったのかな?」

 母上の言葉にそうかもしれないと頷いた。


「……ということがあったんだ」

 小さなケーキを頬張りつつ、そんなふうに話を締める。

 ケーキは美味しいが、自分には少し甘すぎる気がした。

 何故かコーヒーを寄越せと思った、コーヒーは飲めないのに。

「……大丈夫?」

 同じくケーキを食べていた自分と同い年のこの国の王子は心配そうな顔でそう言ってきた。

「別に平気だ」

 話すこともないから先ほど変な女に絡まれた話をしてみたが、早くも話題が尽きた。

 大人達は大人達で少しややこしい話があるらしくこの場にはいない。

 詳しく聞いていなかったから知らなかったが、単純に遊びに招かれたわけではないらしい。

 母上と王妃がいれば二人の会話を聞いているだけである程度退屈はしのげるのだが。

 私も殿下も会話は不得手だった。

 だから会話は弾まないし、大して面白くもない。

 ほら見ろやっぱりやることがないじゃないかと思いつつ、この空気が別に嫌いな空気ではないことに気付いたのはつい最近のことだ。

 無駄に話しかけられて会話をさせられるよりはずっと気が楽で、疲れないからだ。

 だから話し相手にするなら、ある意味では正解なのだろう。

 途中で話に口を挟んでくることもないし、最後まで聞いた上で疑問点があれば短く要点だけ聞いてくるところも良い。

 ……ただ、話す事がなくなると両者ともにだんまりになるのでそれはそれでなんとなく気まずいのだが。

「……庭行く?」

「庭……?」

 何故急に庭?

 意味がわからない。

「今綺麗な花が咲いてるから……見る?」

「ああ、そういうことか……」

 確かに今の季節なら様々な花が咲くだろう。

 このままだんまりでいるよりは楽しそうだ。


 確かに庭には綺麗な花が咲いていた。

 うちの屋敷にある花は大体毒々しい色合いをした猛毒の花ばかりなので、こういういわゆる普通の花は新鮮に見える。

 毒々しくない淡い色合いの花も多く、ビビッドカラーなうちの屋敷の庭とは大違いだ。

 素直に綺麗だと思った。

 そういえば、これを何年か前に初めて見たときは驚いたものだ。

 その日まで、私が知っている花は毒があって色合いの濃いもの、もしくは極端に暗い色のものばかりだったから。

 だからあの日、ベール越しにそれを見るのがあまりにももったいなくて、絶対に外すなと言いつけられていたそれを……

 ……なんの話だ?

「……気に入った?」

「ああ、ここは綺麗だな」

 話し掛けられたので思考を中断し、素直にそう答えた。

 そういうと、殿下は小さく笑っていた。

 しばらく花を見て庭の中を歩いて回っていた。

 城の庭は異様に広い、そういえばあの日は見て回っているうちに迷ったが……

「そういえば……覚えているか?」

 と、後ろを振り返ると誰もいない。

 見えるのは花ばかりで、見慣れた青い目の少年の姿はどこにもない。

 はぐれてしまったようである。

 まあ、そのうち合流できるだろう。

 そう楽観視して、鮮やかな花を見る。

「リュシカ」

 海に似た色の花を見つけた時、背後から声をかけられた。

 聞きなれた声に違和感なく振り返るとそこには見慣れた見慣れない青年の姿があった。

「…………誰だ?」

 背後にいたのはまだ少年と呼んでも違和感のない若い男だった。

 金色の髪に海と同じ色の青色はつい先ほどはぐれた殿下と全く同じ色で、少しだけ混乱した。

 色だけでなく顔もそっくりだ、殿下が成長したらおそらくこうなるのだろうというほどに。

 あまりにもそっくりなので実は私が知らないだけで殿下には兄がいるのだろうかと思ったが、そんな話は聞いたことがない。

 では親戚だろうか? こんなに似ている親戚がいるという話も聞いたことがないが……

「僕のこと、わからない?」

「…………初対面だと思うが? どこかであったことがあるだろうか? そこまで殿下にそっくりな人間にあっていれば記憶に残っていそうだが、全く記憶にない」

 少し考えたがそう答える。

 それでも違和感が付きまとった。

 殿下に似ているから記憶にないことに違和感があるのか?

 ……いや、違う。

 何故だろうか?

 どうして殿下の姿よりも今自分の目の前にいる男の方が見慣れていると感じるのだろうか?

「……本当に覚えていない?」

「ああ、全く」

 だが覚えていない、こんな男は知らないはずだ。

「なら、思い出して」

「思い出すも何も、初対面だと思うのだが……いつ、どこであったことがある? それを聞けば思い出せるかもしれんが……」

 記憶にはないが、向こうが一方的にこちらを知っている可能性はなくもない。

 人違いである可能性もあるが、先程名前を呼んだから違うだろう。

「この庭で。10年前に」

「……人違いだ。私は今年で9歳になる。10年前なら私はまだ生まれてすらいない」

 完全に人違いだ。

 というか普通に気付くものじゃないだろうか?

 そう思っていたら男はさらに不可解なことを言い出した。

「違う。今の君は17歳で、僕らが初めて会ったのは君と僕が7歳の頃だ」


「……貴様、何を言っている?」

 意味がわからない。

 17歳? この男は一体何を言っている?

 そういえばと思い出す。

 街で私を路地裏に引きずり込んだあの女はこう言っていたのだ。

 やっと見つけたと思ったら、何チビになってんだよ、と。

 それから、頭の中までガキンチョ化してるのかとも聞かれた気がする。

 …………。

 ……この男、あの不審者の知り合いだったりするのだろうか?

「やっぱり思い出せない?」

「思い出せないも何も……意味がわからないのだが……」

「……そう」

 男はそう言って少しだけ表情を翳らせた。

「僕らが最初にあったのはこの庭だった。君は一人であの辺りに立って花を見ていた」

 男はそう言って私の右後ろを指差した。

「君はそこで、顔にしていたベールを外していた。僕がいることに気付いた時、ひどく怖がっているような、怯えたような顔をした」

「ベール……?」

 そんなものをした事は一度もないはずだ。

 ――けしてそれを外すなよ、その色はあれの血を引いている証。

 誰かの恐ろしい声が脳裏に響いた。

 ひどく冷たくて恐ろしいその声はなぜか父上の声に似ていた。

 ……そんなわけがない、父上にこんな声で話しかけられたことなど。

 ……むしろよくある事ではなかっただろうか?

 違う、違う違う違う違う!! 

「だけど、すぐに怖い顔をして、自分の顔を、その目を見たことを黙っているように僕を脅したんだ」

「何を……何を言っている……」

 そんな記憶は私にはない、そんな事は覚えていない。

「いいや、君は覚えているはずだよ。思い出したくないだけだ」

「覚えていないと言っているであろう!!」

 思わず叫んだ、もうやめてくれと心が軋む。

 男は苦しそうな表情を浮かべて、意を決したような顔で私の目を見た。

「……リュシカ、落ち着いてよく聞いて」

 ……やめろ。

 聞きたくない、それ以上は聞きたくない。

「君の両親は、もう死んでいる」


「……違う」

 自分の声はとても弱々しかった。

 本当はもっとしっかりと否定したかった、何を馬鹿なことを言っていると笑い飛ばしたかった。

 なのに、それができない。

「……この夢は君の願望だ。普通の両親が……自分が幸せな生活を送っている、という願いが作り出した夢。だけど、君はあの日僕らにこう話した……君の父親は不死身だったはずの君の母親を殺して、そして自殺した、と」

 そんなわけがない、という反論の言葉を吐き出すその前に、その記憶は私の脳裏を焼いた。

 誰かの笑い声と、誰かの死体と、誰かが自分で自分の胸を突き刺したその瞬間と。

 薄くて白い体に馬乗りになって、その白い胸にナイフを突き刺した、とても嫌な感覚を。

「あ…………」

 思い出した。

 ふと正気になったように、夢から覚めるように、本来の記憶を思い出す。

 そうだ。私は9才でなく17歳で、仲のいい幸せな家族なんて嘘っぱちで、狂って壊れていたのが本当で。

 母上は不死身で、自分が死ぬために世界を壊そうとしてとんでもない罪を犯して、その罪を許せなかった父上が母上を殺そうとして。

 その復讐の過程で私が生まれて、私は母上を殺す道具に使われて……

 そこまで自覚した瞬間、私は高く、大く濁った絶叫を上げていた。

 それとともに、世界にヒビが入り、砕けていく。

 これは夢だ、夢だった、全部嘘っぱちだった。

 隠していた自分の願望をそっくりそのまま再現しただけの夢だった。

 男が――殿下が叫び続ける私の身体を抱きしめる。

「ごめん、リュシカ」

 殿下はそう言って何度も何度も謝った。

 馬鹿な男だ、と壊れそうになる心の片隅でそう思った。

 これは夢だ、優しいだけの偽りの世界だった。

 現実の私は、現実の私の家族はあまりにも狂っていて、どうしようもないほど壊れていた。

 それでも、確かに救いはあったのだ、こんな自分に手を差し出してくれた誰かがいたのだ。

 苦しくて仕方ないし、思い出したくなかったとは思うが――そのことを思い出すことができてよかった。

 夢に囲まれていたらきっと、その本当に大切なことを忘れたまま死んだのだろう。

 だから、これでいいのだ。

 そう思う事が出来た時に世界は完全に砕け散って、私は意識を失った。


───────────────────────────────────────────

残酷な夢 了

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リュシカちゃんの日常 朝霧 @asagiri

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