9錠

95


 明滅。


 まるで自分の視界を全て塞がれた感覚を纏っていた。フラッシュを眼前でたかれたような痛い程の眩しさが瞼の奥の奥まで僕の瞳を突く。ちかちか目の中で瞬く光の群れは、今をとにかく理解しようとする僕の全ての邪魔をする。光った後は、その後ろの暗闇へ落ちていくだけ。何も見えなくなった歪んだ視界の中で、僕は今、どんな体勢でいるのかさえ自覚に乏しかった。自分が今、どんな状況に陥っているかでさえ。とんと分からず。前も後ろも、上も下も、理解の範疇から外れてしまっていることに気付いた。

 ただ、ひどく気持ちが悪いまどろみの中へと一瞬で連れて行かれたのだ。


「子犬!!子犬、聞こえるか!」

「ノアくん、ノアくん!?大丈夫かい!ノアくん!」


 脳が揺れる。目が、開かない。息が辛い。ぐにゃりと景色にひずみを見出すこの光景は、いつも付き合ったことがある嫌な感覚だ。そう、移動魔法を使った時、みたいに。

 誰かが遠くで何かを呼んでいるような声が聞こえる。何故か僕には、壁を数枚越しに挟んだように、おぼろげな反響しか耳に入ってこなかった。聞こえるのに聞こえない。誰かいるの、誰がいるの。声が届かない、気持ちを音に出来ない。ここは、どこ。狭い、暗い、息苦しい。

 必死に言葉を出そうとした口からは、鉄のような味がした。どろりと口の奥の方から込み上げてくる、泥のような不快な何かが、僕の身体の中から外へ出て行っている。その不快感が、このままずっとずっと居座り続けるような。意識が、黒い黒い場所へ、強制的に沈められていく。


「すまん!着いたぞ!状況は!?」

「Ⅰクラス、ノア・マヒーザ、突然失神を起こしました。接触反応呼名反応共に無し、顔色減退、脈も遅くなっています」

「倒れて五分程です。倒れる前に多量の吐血あり、この範囲の地面に散らばりました、出血箇所までは分かりません!」


 あ。ああ。あああ。

 頭を強く打った時と同じ衝撃が、僕の痛みの火花を散らす。

 気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い。泣きたい程に吐きたい程に目を背けたい程に、気持ち悪い!腹の中に、胸の奥に、嫌な予感が渦巻くように孕まされている。感じたことの無い、何か。

 遠くに追いやられていた誰かが叫ぶような声が少し大きくなり、僕の意識は欠片のみ覚醒したらしい。そして、混乱によって誤魔化されていた痛苦までもが一気に蘇る。身体のど真ん中に牙を立てられたみたいに、蝕まれていく。


 助けて、


 頭も、身体も、全てが壊れてしまいそうだ!痛いと叫ぶ前に、助けてという声だけが僕の頭の中に響いた。ぐるりと真逆に動いた眼球が涙を垂らして、瞼の下で閉じている。ひどく、身体が重い。僕の身体はこんなにも思い通りに動かなかったか。全身が麻痺したように、地面に落ちた身体をそのまま縫いとめられているかのようだ。動きたいのに、何も出来ない。叫びたい、痛がりたい、少しでもこの苦痛を逃すために踠いてみたいのに!たすけて、助けて、痛い痛い痛いいたい痛いいたいいたい、いたい、ーーーー!!!


 悲鳴を上げて逃げたい、心臓の近くで何かが暴れ回っている。無数の棘がついた手に僕の中身を直接掻き回されているような痛みが、死を強引に覚悟させる。悪戯にはらわたを開かれる、冒涜的なまでの激痛に、あたたかい中身とは逆に冷えていく身体。僕はどこを見ているんだ、僕は今どこにいて何をしているんだ。これは、生きていると言えるのか。


 苦しい、痛い、たすけて、たすけてだれか、にいさん、かあさん、とうさん、


 えりー、ぜ、


「ありがとう、それだけ分かりゃ十分だ!癒術院には既に連絡をしてある、緊急搬送するぞ!今敷地内まで迎えが来る!まずは応急処置だ、やるぞアマンダ!」

「ええ。お二人は一度離れていて下さいませ。ご安心下さい、速やかに痛覚遮断の術式を行います。ラム先生、中は見えますか」

「……出血箇所特定、魔力器官と肺だ。…ひどいな、器官の下半分が破裂してやがる。その影響を食らったみたいだな。そこ周辺が血塗れだ。あっち着いたら開胸で原因を見つけた方がいい。一々許可待ってたら本当に死んじまう、」

「呼吸状態回復に努めます。まだ蘇生魔法が使える範疇です、痛みと不快感だけでも惑わせておきましょう。……ああ、なんて、なんてかわいそう、」


 固く結ばれていた糸が、切り落とされた、ような。何か、大切なものを、僕は無くしてしまったのではないかという喪失感が。急激な睡魔を伴った現在に、べっとりと張り付いて降りかかってくる。


「……エリーゼくん、一応の人払いをしておこう。まだ生徒の出入りも少ない時間とは言え、直に騒がしくなる。…彼も、自分が思い描いていることとは別の場面で見世物になるのは嫌だろう」

「ーーああ。アタクシ達は二人揃って、治癒が専門でも無し。何も出来ぬことは、…仕方無い、」

「エリーゼくん、」


 誰のせいでもないよ、

 誰かがそんなことを、言った気がした。


 失われていく光。遠くに消えていく星のように小さな輝き。段々と遠のいていく声。

 差し伸べられた誰かの手の幻覚を見た。嬉しかった。けれど、そこへ手を、伸ばせなかった。


 何かを回想することも、後悔する暇でさえも微塵も無く。全てを許されず、与えられない。ただただ何かに翻弄されている。思い返す時間も、声を出す余力も奪われ。泣き濡れる幼子のように、よく分からない真っ暗な空間へ打ち捨てられていく。


 ああ、僕は、僕は何をしていたんだ。悪夢なら醒めてほしい。だって僕、まだ、まだ何も、……。

 …そうだ、僕。僕は、…温室で、…。

 頭の中に霧がかかったみたいだ。今度こそ、沈んでしまう意識に抗いたかったのに。

 悪夢の中でようやっと手を伸ばせた瞬間、僕という身体が四散していくのを感じた。


 × × ×


 時は、残酷に過ぎる。例え今に未練を残そうが、誰の都合も考えてはくれない。

 リドミナ学園。休暇明けの新学期、四日目の朝。七年の転校生が温室で意識不明の重体で発見されたことは、その日の礼拝時に全生徒の耳にまで届く大きな事態となっていた。


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