12

 リース家の空にも、朝は訪れ夜は来る。

 カシタ山より遠く離れたカナリア王都。ノア・マヒーザによるリドミナ学園への侵入と伯爵令嬢の極々自然に見せかけた誘拐行為から一夜明けた今日。時間の経過と共に、既に動き出す人物は幾人も存在していた。

 繋がった空、その下に置かれている広い邸宅。名のある家であることが、視界に入りきらない程広大な外観だけでも理解出来るだろう。

 邸宅の中、ほんの少しの間沈黙を保っていたその口を開く人物は、リースの名を持つ者のうちで現在この家系の実権を握っている者だった。


「嗚呼、頭が痛い……、」


 下がりなさい、と冷淡な声で告げてやれば。この空間からそんなに解放されたかったのか、そそくさと目の前の侍女達は彼の室から出て行った。そんな姿を目にしてから数分も経たないうちに愚痴と溜息がこのように彼の口から現われてしまう。…主人供の愚行を見ていながら止められずして、こちらからの怒りの言葉も受け止める覚悟が無いとは、年若い使用人達はこれだから仕様の無い。一部の人事見直しをそろそろ考えねばならないようだ。今の状況にひたすら頭を痛めねばならないのも、彼の立場であるリースの長兄としての勤めと言うやつだろうか。

 彼は、一人になった広い執務室で陰鬱とした空気に飲み込まれようとしていた。もっとも、死んだ魚のように全くと言っていい程生気の無い瞳よりも、今の落胆の感情を分かりやすく表しているだろう口許は見えることは無い。顔の下半分を覆い隠す黒のフェイスベールが、彼の口の動きですら見るなと悪態を付いているように艶やかな雰囲気を出していた。爽やかさを思わせる銀の短髪とは裏腹に、青白い色をした肌が印象を変えさせる。くたびれた視線を作る瞳は銀縁の眼鏡を被せられており。左目の下にある泣きぼくろがその物憂げな様子を助長していて。

 つまりこの男は、一目見てひどく疲労している様子だった。


「おつかれさまです、えどがーさま、」


 片手で眼鏡を外し目頭を揉みほぐす男の名を呼んだのは、たどたどしい声の持ち主。幼さを感じさせる話し方とは真逆に背が高く体格も良い青年が、ティーポットとカップを傍らで用意している。青年からエドガーと名を呼ばれた彼は、視線を隣まで持っていくと不器用に微笑んだ。まるで、その青年を怖がらせまいと懸命に作った笑い方。ありがとう、と言って手渡される紅茶を受け取った。一人であった執務室に、ほんの少しの癒しが与えられた瞬間である。


「あじ、だいじょうぶですか」

「…ええ。貴方もこの国の言葉がだいぶ上手になりましたね、クロエ」

「ありがとうございます。くろえはうれしいです」


 浅黒い、と言うよりも更に灰色に近い肌色を持つ青年は嬉しそうに微笑んだ。その肌は、地上で太陽が恵みをくれることを待つだけの人間達よりも、太陽に更に近くで愛された証だ。薄い肌色が特徴的な人種が多いこの大陸では良い意味でも悪い意味でも目立つだろう。クロエと呼ばれたその青年の装いは、自身の肌色よりも濃い黒色を纏っていた。どことなく、エドガーの着ている上品な服装と似通う点が多い。華美では無いが執務に向いている落ち着いた黒一色の上着と下衣に、左の後頭部には同じように黒い色をした短いモーニングベールが黒薔薇の花飾りに押さえつけられて揺れていた。上から下まで、まるで喪に服しているかのような出で立ちに加え、青年の体躯には似合わない程繊細な装飾であると言うのにそのアンバランスさがより青年を麗しく見せている。

 その様子を見ていると、この二人がいてこそこの空間は完成するのだろうと自然と思うだろう。妖しげでありながら、美しい。雰囲気が酷似している彼らを見れば、誰しもまずは息を呑むに違いない。紅茶で舌を潤し、次いで出された言葉…隠されていて見えないエドガーのその口元の動きを、クロエだけははっきりと目で追っているように見えた。


「全く、リース家の恥は、あの愚図の父親一人だけで十分だと思ったんですけれどね」


 その言葉自体、刺すような苛烈さを伴っている。父親、と自分自身で吐いたその単語にすら嫌悪感を示したのかエドガーは、嫌なことを思い出しつつも今だけは文句を言わずにはいられない。それもこれも、長く続く栄誉ある爵位を持つこの家名に泥を塗りつける輩が複数人出たせいだ。昨日、王立リドミナ学園で起きたとある事件がエドガーの頭の八割以上を埋める羽目になったのは、よりにもよってこのリース家の肉親が数人も他人に紛れ愚行に走ったという経緯がある。

 …リース家の現当主である長兄、エドガー・リースの名を知らぬ者はこの国の社交界には存在しないだろう。それ以外の界隈でも、少しでも学のある者は名前程度は思い浮かぶことは出来る程の実力と功績を携えている。今現在、このリース家を支えている大きな柱が彼であるということは、他にいる69人の弟妹と使用人全員をまとめ上げなおかつ外交も積極的に行える上に王家との交流も途絶えていない点を見れば納得せざるを得ない。36男、34女、所謂過剰な大家族という所帯を抱えて指揮を執るその姿は、小国の王と比較してみても劣ることは無い。リース家はカナリア王国で爵位を持つ一族の中では一番人としての数が多すぎると言うのに、事件や問題などが全く起こらなかっただけでもどれだけ真摯に勤めているのかが分かるだろう。


「えりーぜさまのおへやは、どうされますか」

「…家財はそのまま、今は置いておきます。私の承認も得られていない絶縁状などただの落書き同然で効力など無いと言うのに、何が彼らをそんなに自惚れさせたのでしょうか。…あの父親の、頭の悪い部分だけが強く遺伝されたのでしょうかね」


 一番末の、34女であるエリーゼ・リース。今に至るまでの全ての始まりは、彼女がこの屋敷に”連れて来られて”からだ。外交と称して様々な場所で同時に女を作っては子を孕ませる最悪で最低の父親が、現状最後にこの邸宅に放り込んだのが彼女。エドガーにとっては歳の離れた可愛い末妹という認識はあるが、如何せん邸宅も広すぎる上自身も常にここにはおらず、リドミナ学園に年の近い弟妹と一緒に入学させてからと言うもの更に会う時間は減った。


 …エドガーには、唯一の大きな悩みがある。先程から何度も口に出してしまう程に憎らしい、父親、という存在だ。即ち現在のリース家の70人の子供に血を分けた者であるのだが、彼についての詳しい情報を知るのは極々一部の年長の兄姉と、エドガーの隣にいつの間にか専属の使用人として仕えるようになっていたクロエだけ。事情を深く知る者だからこそ、エドガーはエリーゼがあの脳味噌が足りない父親の犠牲者になったことを悔やんでいた。赤子の頃のエリーゼを、初めてまともに抱いたのはこの腕で、決して父親の腕では無かった。その時点でエドガーは父親を激しく非難したが、彼女の母親の情報さえも分からず終いで、また放蕩に走る姿に全身の血管が切れそうな程の怒りを抱いたことも覚えている。当主が父親で無く何故長兄のエドガーなのか、察する者も多いだろうが一時的に実権を奪ったことから成るのが今のリース家で。表向きには父親は隠居したというていで話してはいるが、裏では長い間に渉り、リース家の存続に関わる大きな事態が動き続けていた。それらの裏事情などという醜い面は、決して世間には見せられやしない。だからこそ、あの存在はリースの恥として秘匿することにした。そうして年月が幾らか経ったと言うに、あの男の種でもって産まれた者は何割か頭が弱くなるのだろうか。


「どうして、あの子だけが…」


 エリーゼは、いつから孤立していたのだろう。多くをまとめあげるが故に、小さくか弱い叫びを聞き入れる余裕も無かったことを後悔するしか無い。彼女の見目が一族の中でも大きく違うことは、きっかけに過ぎないだろう。彼女自身の個性も、家での立場を狭める色を放っていたから。そして昨日、積もり積もった悪意の矢面に立たされたその子は。忽然と、消えてしまった。エドガーでも無い、誰でも無い、ただ一人の青年によって連れ去られてしまった。

 昨日の事件と言うのは、実に愚かで下らないの一文で評価を終えて構わない。学園での問題行動も重なり、その彼女をあろうことか私的に断罪しようとした者が数百人で彼女を取り囲んで学園追放を迫ったのだと言う…そして、その中に、数人。エリーゼに年が近い弟妹が混じっていたという報告も。信じられないと思いはしたが、その情報を持って訪れた人物とその情報源を知れば、嘘だなどと弱音を吐くことすら出来なかった。王と王女が支援しているあの学園でリースの名に恥をさらすような行為をした弟妹の存在だけでも、今後の家系に影響が出る程の大事だと言うのに、エドガーの頭を痛くするもうひとつの理由は、その断罪の場からエリーゼが連れ去られたという事実である。


「えどがーさま。…えりーぜさまを、さらったはんにんは?」

「既に顔も名前も、住処も特定出来ています。この国では偽名など使えませんからね、…ちょうど、その日に学園の見学を希望していた平民の一人だそうです」

「――くろえが、こわしにいきましょうか?そのこをこわして、えりーぜさまをつれてくる。くろえには、かんたんにできるとおもいます」

「…気持ちだけ、受け取っておきます。ありがとう、クロエ。貴方は本当に、いい子です」 


 リースの家の者に手を出そうなどと、考える輩は居もしないだろう。例え嫌われた末妹であろうが、家名の大きさを前にすればそんな勇気ですらなくなる。だと言うのにその誘拐犯は、そんじょそこらにいる犯罪者などよりも豪胆に堂々と。昨日、エリーゼを王都から奪い去った。白昼堂々、まるで彼女の断罪の流れを知っているかのように乱入して。彼女にとっての唯一の逃げ道になるような言葉を吐いて、たぶらかして。その手を取った彼女をそのまま、連れ去ってしまった。善意の人間だとしても相当な怪しさだが、まだいい。エリーゼは簡単に人の手を取ることは無い、その彼女が自らその青年について行ったと言うことは、彼女が自分の意志で決めたのか。それとも、追い詰められた彼女の心の隙を利用してだまくらかして連れて行ったのか。

 つまりは、彼女を危険な目にあわせるような人間であるかどうかの見極めが早急に必要であるのだ。幸いにも王家と親密な繋がりがあるこの家には早く正しい情報がすぐに手元に揃う。エドガーは、机の上にある水晶石に手を伸ばした。記録媒体として利用されているこの魔道具は、写真や文字を宙に転写して表示する。


「彼はノア・マヒーザ。…城下に時折、カシタ農園の名で市に参加していますね」

「……かした、のうえん、…どこかで、」

「既に依頼の上で動いて貰った調査班には、誘拐の手順も特定して貰っています。……移動範囲は極短いですが、空間魔法の心得があるようで。その術で王都からカシタ山への相当の遠距離でさえ一日も経たずに逃げきった…彼の実力がどの程度かは分りません。だからこそ下手に表から手を出すと、また場所を変えて逃げの一手を取られるでしょう」


 若くして規格外の天才というものを、エドガーは一人だけ知っている。…齢十になるかならないかという時に、我が愚かな父親に天罰を下した…あまりにも残酷無比な強さを与えられた、ベニアーロ・クラウリスという青年を。あのレベルの人間は、本来産まれてはならない領域外の枠だ。ノアという青年がそこまでの者だとは思えないが、万が一。万が一、相当の魔術の使い手だと言うのならば、エリーゼを手元に置いておく理由を知りたい。一日経っても身代金の要求なども一切無し、そもそも嫌われている末娘だけを狙ったのは何故だ。見学にきたその日に偶然突発的にエリーゼを浚ったとは思えない計画的犯行の形跡に、あらかじめリース家の愚行が学園より外に漏れないよう情報機関を抑制した自分の判断は間違っていなかったと思った。今は、表では目立った動きをして彼を刺激するべきでは無い。

 そう、表では、の話だ。接触する機会がとにかく必要である。


「今回は、あの方の力を大きく借りることになるでしょうね……」

「…くろえじゃだめですか?」

「駄目ということでは無いのですよ。……ただ、適材適所と言いますか。彼の名前を出したあの方の、…ああ、あんな恐ろしい表情を見せられては、私とて逆らえません。この依頼は、あの方にだけしなければと…」

「ああ、あの、しつじちょうさん、ですか」

「ええ。ウィドー・バレスク……報告に来て下さったのは彼でしたが。どうにも、ノア・マヒーザを知っている素振りでして。…私達が動くのは、彼が事を済ませてからの方がよいでしょう」


 その時はまた、クロエに頼みますから。そう微笑んだエドガーの言葉に、クロエも満足したのか素直に返事を返す。

 …少しずつ、少しずつ時間は進んで行く。自覚の無い縁を、知らぬ存ぜぬ域での点が線で繋がる時は、すぐ近く。エドガーは、宙に浮かぶ紺色を持つ青年の画像を見て、何とも表現しがたい感情を抑え込むことに必死になっていた。

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