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 本日も、カシタ農園に異常は無し。晴天の下、空の様子とは反対に曇る思考を持つ僕ではあったが。見回りとチェックを終えて朝食の用意に取り掛かる頃には落ち着きを見せ始めていた。

 不安を感じそうな程の甘ったるさを、別段嫌ったことは無い。小さい頃から兄さんが作ってくれた味だからと言うのもあるけれど、その甘さに慣れすぎた自分と、恐らく甘すぎる物はあまり好まなさそうな彼女との味覚には差があるだろう。と言うより、僕の甘さに対する味覚は兄さんの例の紅茶で多分壊れかけている。兄さん程では無いが、紅茶に混ぜる角砂糖の量は多いし、ミルクに足していくハニーの量も多い。これでよく太らないなと思うものの、畑作業でその分全部を消費しているから大丈夫だ。本当、男の身体は肉体労働に特に向いている、背も高く育ってほくほくと言ったところである。

 キッチンの前、一人立つ僕の周りにはようやくおいしそうなにおいがふわりと漂っていた。木製のコップの中にどろりと注がれていく蜜は、このカシタ山で製造を続けているとびきり糖度の高い花から採られた蜜だ。最初、地球の記憶にあった蜂蜜よりもとんでもなく甘いことに驚いたこともある、僕にとって一番の故郷の味。あたためたミルクを重ねるように上から足して、スプーンでかきまぜる。そこへ乗せるように花弁を浮かべれば栄養満点のカシタ農園特製ハニーミルクが簡単に出来上がるわけだ。す、と一息香りを楽しんでから食卓に三人分の軽食を数点用意する。鳩時計は既に七時を過ぎ、後は他の二人が起きてくるのを待つだけだ。


「おはよう、ノアー。…あれ?エリーゼちゃんはまだかあ」

「おはよ兄さん。うん、多分、疲れが出たんだと思うよ」


 彼女の分のコップに甘さは控えめのミルクを注いで置いた時。着替えもぴしっと終わらせた兄さんがキッチン前の食卓へ足を運ぶ姿が見えた。早起きと言うのは山奥の農家にとっては苦では無い。太陽と共に起きて月と共に寝ることも多い生活だと体内時計はしっかりと機能し、いつでもこのように、二人して爽やかに目が輝くのだ。

 ここで取れた卵でたっぷりと浸して完成させたテーブル上のフレンチトーストは、ひと昔前まで哀れなくらいつきまくっていた黒い焦げ目はなくなっていて。とろとろに垂らされた花の蜜に、美味しそうな淡い焦げ目が映えるよう引き立たされていた。ちょっとずつではあるが僕の料理の腕前も進歩はある、主夫も兼任出来るくらいまではレパートリーを増やさなくてはなといつだって思っているのは内緒だ。

 席に着く前に行儀悪く、自分の分のトーストに手を伸ばしてその場で一口食む兄さんを見て苦笑する。蜜がついた手のままどっか触らないでよ、と一応釘を刺しておいた。兄弟とは言え、あまり似ていない僕の目から見ればこういうだらしなさそうな姿まで男前に見えるのだから不思議だ。昨日はエリーゼも一緒にいたからかしっかりとした風体に仕上がっていたけれど、本来の男兄弟二人暮らしなんて大雑把も大雑把。…女性一人生活に混じるだけで、何だか自然としっかりしようとする気持ちが生まれるのはどこの世界も共通なんだろうなあと思う。


「まあ王都暮らしと山奥暮らしじゃ、身体に変化がおっつくかどうかも心配だし。…それかもしかして、朝もメイドさんとかに起こしてもらってた、とかあったり?もし朝苦手だったりとかしたら、なんか本当にお嬢様って感じでかわいいよなあ」

「……とりあえず僕が呼んでくるね」


 わかりやすいな、と兄さんにわざとらしく笑われるも。故意にチラチラ僕の顔を伺っているのが丸見えなのだ、完全に僕をたきつけようとしているだろう!何で兄という生き物ってこう、そういう方面でもお節介を焼こうとしてくれるのだろうか。兄さんも僕と同じでろくに女性と付き合ってきたことなど無いと言うのに、変にそういう気を回すのが上手だ。まあ、商業の交流として色んな方面にカシタ農園の顔として契約作業をさらりとこなせる兄さんなのだから、僕とは培ってきたコミュニケーション能力の違いというものがあるのだろう。

 しかし、兄さんの言葉に、ああそういう視点もあったのかと気付かされる。朝の場面ひとつにしろ、エリーゼの起床時間すら昨日知り合ったばかりの僕には何も分からないのだ。夜に何度目覚めるのか、それともいつもぐっすりと眠れるタイプなのか、寝不足なのか低血圧なのか、当たり前ではあるがそんな細かい部分の知識なぞ前世で見たキャラクターファンブックにも記載は一切無い。リース家はとかく様々な界隈に幅を利かせている、その分貴族としての名は広まっている為身分にあった生活はしていたのだろう。正直、平民である僕には朝から豪勢な生活と言うもののイメージが出来ない、でも何となく「いっぱい使用人を引き連れていて身の回りの世話を手伝ってくれる」という図だけは容易く想像出来る。慣れない生活圏にまで彼女を連れてきてしまったのは僕なのだから、勿論ここに慣れてくれるのなら何だって尽くしてあげたい気持ちは沢山あった。朝から手伝いがいるというのならば、代わりに僕が手伝いに行ってみせる。

 余っているミルクを先に全部飲まないでよと、足音を立てないように彼女が眠る部屋へと向かった。兄さんは僕の背中にはいはいと返事をしながら、半熟卵にフォークを突き立てているのだった。


 この山に住むのは、僕達以外にいない。先祖からの影響もあってか、マヒーザの家は結構な引きこもり体質を抱えて過ごして来た農耕民族である。ずっとずっと遠くの、聞かされたとしても彼方すぎて適当に相槌を打つ以外のことが出来ないくらい昔に、この山をテリトリーとして住み着き始めた人間が僕らのご先祖様で。この世界は異世界の地球とは違い世界全体に魔力という概念が存在するせいもあってか、地形の変動ひとつでもその分更に大きな力が働き、環境の変化が大きくなるまでの時間が地球より短めだ。城下から購入した歴史の本や世界の成り立ちの本を見ただけでもその点が異なることがはっきり分かる。

 マヒーザ家の始まりは、大昔に起こった大規模な地殻変動で出来上がった山を住処としたところから続いていた。今でこそ僕ら二人ぽっちが末裔という、血筋が絶滅寸前の家だが歴史だけはこの通り長いのだ。その間にこの山で育つ植物や住み着いた動物を把握したり、食物をこの地で育み独占することで命の系譜を永らえさせていて。ただ、他民族との共存が恐ろしく下手だった点は痛手であろう。カシタ山、と今の世では名付けられたこの山は、地殻変動の際働いた膨大な魔力が染み付いたお陰でどこもかしこも生命力に溢れている分他の野山に比べて、ここで育った動植物の味は格段に違う。その為この敷地の食物を奪おうとしてくるよそ者が昔は後を絶たず、カナリア王国が建国され、小競り合いを続けていた付近の領地がまとめて統治されるまでは先祖も死に物狂いだったそうな。

 初代カナリア女王による超大規模な「奇跡」とまで呼ばれた圧倒的なまでの統治により、この大陸の一切の大きな戦は潰され。当時は別の名であったと言う暦ですら、平穏に貢献し続けた女王を称える為にと各国の王の会議によりカナリア暦とされてからもう随分と長い。そうしてほぼ永久的な平和を手に入れたカナリア王国の領土、しっかりとした文化を根付かせる程の年月が過ぎた今でも、カシタ山のマヒーザ家と来たらやはり外との繋がりを増やそうという意欲があまりに希薄で。つくづく、この農園での仕事を外と繋げるルートを作ってくれた数代前と、カナリア王国王都城下町とパイプを繋げてくれた両親がいなければ僕らもどうなっていたかわからない。


「――エリーゼ様?エリーゼ様、起きていらっしゃいますか、」


 そんな風に外部と全く繋がりが無かったこのマヒーザの家に。前世の記憶を思い出すことが無かったのなら、兄さんのように積極的にはなれずご先祖様のように引きこもっていただろう自分が、滅多に行くことすら無い王都から連れ去った伯爵令嬢がいる。一晩経った後でも心臓が緊張に脈打つのであるから、彼女の香りがこの家に馴染むまで僕の心臓は何度死に掛けるのだろうかとは思う。ノックした部屋は、かつて両親が使っていた部屋だ。彼女一人には少し広いだろうけれど、まさか自分の部屋で一緒に寝ませんかとまでは言えるわけも無い。僕一人で限界のベッドに誘い込むということは、その、分かって貰えるだろうと思うが、ベッドでの密着を前提に一緒に寝ませんかという意味に変わってしまう。花嫁にする覚悟はある、けれども、そこまで素早く手を出すことなど男としてしてはいけないことなのだから。今は必死に、我慢する。

 呼びかけた声は、遠慮がちに出していたからか小さくなってしまったが。その声を耳でしっかり拾い上げてくれていたらしい。扉の向こうから、はきはきとした様子の彼女の声が聞こえてきた。


「そう泣きそうな声を出すな、子犬。起きている」

「僕そんな泣き声なんて……。あっ、いや、おはようございます!」


 内側に引かれて開かれていく扉。真紅の双眸は、まどろみで濁ることも無く。昨日と同じ輝きを見せていた。宝石のように光沢があるその瞳の中に僕が映っている様子を脳がようやく把握して、いきなり扉が開いて僕の前に現れたエリーゼという状況を読み込んだ。ワンテンポ遅れて驚きそうではあったが、もう一回情けない声を上げることだけは阻止した。

 まだ疲れて眠そうにしているかもしれないと言う予想とは反対に、しっかりと母の使っていた普段着を身に纏い。髪の毛に一片のはねも無く、しっかりと整容も終わっていたらしいエリーゼが「わざわざ起こしに来たのか」と、きょとんとした表情でこちらを見ている。その言葉に妙なひっかかりを感じたのは気のせいでは無いとすぐに分かった。


「そこまで心配せずとも良い。一人で放置されることには慣れているからねえ、身の回りのことならアタクシ一人でも出来る」

「は?慣れている?」

「……オマエ、たまにそのまま人を殺せそうな顔をするなあ。そういうところがいいとは思うが」

「ええ、その、失礼しました…つい声を荒げて、しまって、」

「気にするな。リースの家でもほぼ孤立していたからな、やらざるを得なかったことも多い。…朝の用意も出来ないボンボンとは違うんだ、そこまで面倒を見るようなこと、オマエはしなくていい」

「は、はい、」


 エリーゼからしたら、しれっと一言で終わらせたつもりなのだろうけれど。僕としては彼女のブラックボックスの中に無遠慮に手を突っ込んでしまった感覚がある。孤立して、放置されていた、だと?あれだけ兄姉が多い家庭内で彼女が産まれてから今まで何年経っていると思っているんだ。僕の目から見ても、あの伯爵の家とやらはこの時点で大問題が続出していることが確定なのだが。一体彼女の過去にどれだけ、僕にとっての爆弾が仕掛けられているのか。人を殺せそうな顔と彼女は言うが、今の顔のことを言っているのならば今後この表情を絶対に僕は見せてしまう自信しか無い。逆に自信に溢れてしまう。だってそんなの、許せるわけが無い。彼女の過去に少しずつ触れて、彼女の全てを理解出来た時、僕は復讐心に駆られずにいれるのだろうかなんて不安まで浮かんできそうだ。


「…そうですね。朝食の用意が出来ましたので、お呼びにきただけです」

「ふむ、朝食に誘われると言うのも不思議な感覚だ、」

「大丈夫。きっと、慣れますよ。…きっと、」


 この人を、幸せにしたい。神様でも無いのに、おこがましくもこんなことを思う。力が無ければそんなこと簡単に言える筈は無いのに、彼女さえ傍にいてくれるのならどんなものにだってなれる気がした。愛する者にも、復讐者にも、様々なかたちになれる気が、するんだ。

 きっと彼女にとっては孤独も放置も当たり前に行われてきたことだから、それを普通と捉えてしまったのかもしれない。それに傷つく素振りも見せずに言葉に出す様が、あまりに切なくて。


「子犬。朝だぞ。…しけた顔はやめな、涙でも料理に混ぜたかと疑われたいのかねえ」

「ま、混ぜませんよ!流石に!」

「どうかな、やりかねん面をしている。まあ冗談はこれ以上はよそうか」


 後で、二人だけの時に話してやるから、

 僕の視線をしっかと捕まえて、そうまっすぐに言える彼女に。その強さが余計儚さを引き立てる象徴になっているとさえ思ってしまう。


「何せ、昨日の今日だからな。降りかかる面倒の可能性は少しでも知っておいた方がいい、」

「でしたら、朝食の後に是非お聞きします。……貴女が目を覚ます毎日に、どうか幸があらんことを」

「おや。幸はオマエが作るのではなかったか?」

「せめてお祈りくらいさせてくださいよ、エリーゼ様。そういうところですよ、そういうところ…っ!もう!」


 彼女を迎えた初めての朝は、何だか涙のような味わいがした。

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