「おお、二人ともお疲れ様!まあとりあえず、喉と腹を潤しながらお話というかたちで、…大丈夫かな?な!」


 甘酸っぱさを伴う空気のまま、思春期特有の男児のようにどうしても目線がそこかしこへ行く僕と、その隣でつんとすました表情のままで堂々としているエリーゼ。そんな二人をうきうきとした様子で待ち構えていたのは、前世を思い出した経験がある僕の唯一の理解者で今現在マヒーザ家の大黒柱である兄さん、アーク・マヒーザだった。若葉のように鮮烈な緑色の頭髪と瞳を持つ彼は、存在自体が全てを包み込むかのようにいつだって優しくて。木々に囲まれて暮らすことを癒しとする僕にとって、森の香そのものである兄さんを見るとそれだけでも条件反射で落ち着く。

 太陽の光が窓から差し込むリビング、普段は二人だけには広くて持て余すこの空間に増えた客人をこの家も喜んでいるようで。座りな、と僕にも彼女にも、無駄に色々と詮索するような気も全く見せずに促す兄さんは、いつも通りを僕の前で貫こうとしてくれていて。それに安心すると同時に、申し訳なさも大きく膨らんでくる。

 …これからある程度説明もしなければならない、捨てられたからと言って貴族令嬢一人を攫うような真似事をしてしまった以上、後々大変な面倒ごとになる可能性だってある上に下手をすれば何かしら罪に問われるかもしれない。そうなった場合、兄であるアークを巻き込むことは必然で。それでも、そんな恐怖以上に僕は、エリーゼを絶対に手に入れたい、救いたいという想いの方が強かった。だから後悔は一切無い、兄さんに甘えていた部分も大きいことは自覚しているけれど、だからこそこの行動を後悔してはならないと思うのだ。


「…ゆっくり話していいからな。ノアも、ええと……恋人さんも!」


 そうして兄さんの手で、強烈な程に甘ったるく、香るだけでもお腹が満足しそうなくらいの紅茶が目の前に運ばれてくると。不安を吹き飛ばしてくれる、落ち着いた空気に包まれる。毎度どのように茶葉を組み合わせればこんな甘さになるんだと呆れながらも飲んでいたこの紅茶は、僕にとって何気ない平穏を送る日々にいつだって淹れられていた。一杯口に含んだだけで、ケーキのように濃厚な風味が口の中に広がるのも今の僕を冷静にさせてくれる役割を努めてくれていて。

 素直に飲み物を貰ってくれたエリーゼが、慣れない甘さに表情を露骨に歪めたのを横目に。僕達兄弟は苦笑しながら、切り分けたパンとまずは一緒に、と。綺麗に編みこまれた木製のトレーに山ほどパンを乗せた物と、畑で取れた野菜を使ったサラダ。それに、そればかりでは足りないだろうと兄さんがその場で焼いてくれた目玉焼きとベーコンを食卓に。三人でテーブルを囲む時間が訪れていた。

 こうして女性も交えて食事をするのは、母さんが亡くなってからいつぶりなのだろうか。今、母さんが座っていた席には、彼女の形見の服を纏うエリーゼが座っているのだから、感慨深いものがある。


「斬新な味だ。…まあ、作業に必要な栄養は最低限取れそうだと思うけれどねえ」

「我が家の味です、ふふ、ふ、光栄、で、」


 庶民然とした食物ではあったが、エリーゼは意外にも。男所帯である自分達に自然に混じるような所作で食事をしてくれていた。固い部分を手でちぎるより、そのまま両手で持ってかじりつく様子は見ていて気持ちいいものがある。行儀が悪い、と言えばそうかもしれないのだが、そんな意見は無粋だ。そうして味わうことで余計においしいものだってこの世には溢れている。固めの生地で出来たパンに噛み付いた彼女の歯が見え隠れするのを目にすると、ううん、いけない、そんな様子まで艶やかだ。

 鮫のように尖った歯は、彼女の芯にある強さを視覚化したものの一部だ。言葉を出す度、口を動かす度にちらつくその魅力も正直心臓に悪い。何なんだ、花嫁にしたいといきまいていた割にはもう彼女の全部に過剰反応しすぎて逆に辛い。…男の身体だと余計に辛くなるというのも、分かる人には分かってもらえる表現だと信じている。甘さの暴力の紅茶にジャムをぽとりと混ぜ込み、僕ももしゃもしゃとパンを、サラダを頬張った。腹が減っては戦にならぬと言うのは、前世にいた異世界も、今の世界も変わらない。栄養が胃にたまり血液を巡れば、焦りも少しは陰りを見せていく。


「食べながらでいいよ。軽く自己紹介しておくな、恋人さん。俺は、アーク。アーク・マヒーザって言うんだ。このカシタ山の管理者で、ノアの兄だ。どうぞよろしく!」

「……アタクシはエリーゼ。兄君とは、こちらこそよろしくお願いしたい。…服も食も、早くから世話になった。子犬には勿体無いほどいい兄君だな」

「エリーゼ様ぁ…!子犬は、せめて子犬はやめて下さい…こんなでっかい男に…!」


 ちょっぴり情けない声で呟くと、二人がくすくすと笑った。…慣れないヒールブーツを脱いだ今だとしても、僕の身長は170センチはあるのだから。兄さんも俺より少し高いくらいの背丈なので、二人して歳にしては高身長な方だと思う。かく言うエリーゼも女性としては高めの部類である、160と少し程の身長ですらりと整った容貌は彼女を美術品か何かと勘違いしてしまいそうなくらい、僕とは差があった。

 完全にからかわれてるなあと照れつつも、そういう冗談を投げてくれる彼女に感謝だ。気がほんの少しだけ楽になる、と言ったらまるで僕が罪悪感すら持たない駄目な男のように思われてしまうだろうけれど、エリーゼが連れ出されたことに怒ってはいないと言うことを確信出来てひどく安心しただけ。貴族階級が農園暮らしの平民からの告白を受けてくれるというだけでも大事だと言うのに、それを咎めもされないと言うのは何よりも幸せな事例だろう。

 ゆっくりでいいよ、と言う兄さんに。そして横にいてくれるエリーゼに。この現実に僕は今、甘やかされているんだろう。それがどうにもこそばゆく、後ろ髪を引かれるような思いも生まれて来るのだが。これからは、僕だけの独断だけでは決められないことが多くなるだろう。捨てられる予定だった貴族令嬢だとしても、別の視点から見れば僕のしでかしたことは愛の名を着せた、誘拐だ。今までは基本的な知識があったからいいものの、今回はメインストーリーと言う、かつての前世で見た本来あるべき未来を変えた以上…これから先がどうなるか分からないブラックボックスが待ち受けていると言うわけで。多少前世の記憶を利用して誤魔化したとは言え、僕の大きな我儘ひとつを悩まずに享受してくれた兄さんと、怪しさしか無い僕の手をとってくれたエリーゼに対して出来ることは。精一杯、全ての事柄に真摯に対処することだろう。


 意を決した僕は「実は、今日、」と、少しずつ話し出した。必死に行動していたから、頭がまとめることすらうまく出来ていないたどたどしい話し方しか出来なかった。兄さんにも詳しくは知らせていなかった、王都への行き方。正攻法とは言えない学園への侵入の際を語りかけ、途中に言葉が詰まる。エリーゼのプライベートに触れる部分でもあったからだ。あの断罪の場を、どう説明した方がいいものか。エリーゼがヒイロに行ったことは、紛れも無い悪行だと、この場では僕しか知らない。それを知った上で愛したいと思った僕と、それを知らない兄の前でどこまでエリーゼの状況を説明すればいいか、わからなくなったのだ。そんな僕の様子を見かねたのか、エリーゼが言い放つ。


「…構わない。もうアタクシに、家名は関係ないからねぇ」

「でも、」

「アタクシ自身にも、ろくでもない女だと言う自覚はある。…ここの家主はお前の兄君だ、素性を少しでも知らぬ輩と共に過ごすのは流石に気味が悪いのでは、」

「いや、いいよ。言いにくかったら、言いたくなった時でいい。…だって、君はノアが選んだ女の子なんだろ。だったら俺はそれだけで君を信じるに値すると思うよ」

「は、?」


 エリーゼが、ぽかんとした様子で口を開いていた。なかなか見られない珍しい表情だと思いながらも、僕自身も兄のあんまりの懐の広さに呆気に取られる。


「母さんの形見を渡した時点で察してくれてもいいんだよ。……あの人、俺達に嫁が出来たら自分の若い頃のお古絶対あげるんだって言ってたんだし。君がその服を快く着てくれた時点で、俺は君のことを気に入ったもの」

「兄さん、…いいの?色々やらかした僕が言うのも、何だけど。エリーゼ様を、」

「たった一人の弟が、ずっと昔から好きだったって。我儘はその女の子の為になることにしか使わなかったんだぞ。疑う余地なんて、どこにもない」


 優しすぎる愛は時に、毒になるのでは無いだろうか。小さい頃から過ごしてきたたった一人の兄だからこそ分かる、今僕達を見つめてくれているその瞳には一切の疑心が無いことを。


「…似ていない、と言ったが。訂正するべきだった。オマエと兄君は、よく似ている、」


 盲目的に誰かを愛するところがそっくりだ、と。僕だけにしか聞こえないようにぼそりと喋ったエリーゼに、その言葉に。色々と爆発しながら生まれた感情が幾つもある。愛するところが、似ている。わかる、僕だって、兄さんに今どれだけ愛されてきたのか、盲目的に信じてくれる程に愛を与えてくれていることを痛いくらいに浴びせられて。でも、それを似ている、と彼女は言ってくれた。彼女は僕が、…エリーゼを、盲目的に愛していると、そう受け取ってくれているのだ。エリーゼが、僕の愛を分かってくれている。それだけでも、何が敵になろうと怖がるものは何も無いと、僕の勇気を作り出してくれる言葉だった。


「だから俺は歓迎するよ、エリーゼちゃん。ノアも、内緒にしたいことは内緒にしてもいい。家族だからって何でも話さなきゃいけないなんて法律は無いだろ?話したい時で全然いい、したくなければ棺桶まで抱えて行けばいい話だしな!だから、……ノアを、よろしくな。こいつ不器用だけど、君に、小さい頃からずっと憧れてたのは本当なんだ。そんなノアが選んだんだから、今日から君もここの家族だよ!」


 ああ、そうだ。僕は、この兄弟から貰い続けている愛にも救われ続けている。後光が照っているかのように見える兄さんの言葉に、ただ今はありがとう、と繰り返すことしか出来なくて。

 驚く僕とエリーゼをよそに、これからゆっくり山奥の生活に慣れればいいよと。また甘ったるい紅茶のお代わりを注いだ兄さんは微笑みながら言う。神様、僕をこんなに甘やかしてどうする気なんですかと幸福に戸惑うくらいには、この空間に喜びが充ち溢れていた。


 ×   ×   ×


「隠し事を公言しながら過ごす、と言うのはなかなかに無い体験さね」


 多くの緑の中に、隠れるようにして存在している僕達兄弟の家。ここで日常を暮らしていると、当たり前すぎてうっかり忘れてしまうという自然の恵みが多くある。草木をさらさらと揺らす優しい風、カシタ山の奥。そこにたたずむ真紅色の彼女は、緑の中ではひどく映える。


「何十人も兄姉がいた頃は、むしろ。アタクシの存在は恥として隠されたがる側だったと言うのに、おかしなものだ」


 遠く、遠く。遥かな王都を見下ろせる場所。家の周りの簡単な案内を終わらせた後、彼女が「見たい」と言ったのは、僕が話したあの景色。僕に背中を向けて、特に開けた地形である場所に移動してから、彼女はじっと見ていた。あの王都だけをその目に映す様子に嫉妬を覚えないかと言われれば、そんなわけは無いのである。子供だと自分でも思う、けれど僕の知らない事情をエリーゼが持ち、それを秘匿していることも知っている。だからこそ、自分だけがエリーゼを世界一知っているだなんて自惚れは、絶対に持ってはならない。景色相手にさえ早くも独占欲を発揮する僕にそんなことが出来るのか、心配にはなるが。

 ドレスを脱ぎ、ヒールを捨て、貴族の装いを失い、平民の格好になった彼女の背を見るだけで。どれだけ芯が強くとも、その背中が儚いと思えてしまうのだ。宝石のように美しい彼女、魅了された風にこのままさらわれてしまうのではないかと言う幻想まで見えるほどに。王都を見つめる彼女は、この世で何よりも切ない存在に見えてしまった。


「エリーゼ様。…改めて、どうぞ。よろしくお願いいたします。僕は、情けないところが多い男です。でも。貴女を花嫁にしたいと、ここに連れ去ったことを後悔はしていません。貴女を何もかもから切り離してここへ攫って来たことを、後悔しません。する筈が無い。……貴女を、愛している。それだけを信じてほしい」

「…本当にしょうのない子犬。リースに飼われていた犬の方がまだ、おとなしかった。だが…そういう生意気さは、嫌いじゃあない」

「いつかは狼になってしまいますが、」

「はっ、笑わせる。なら、その牙をもっと磨いてみせな。――このアタクシを、悪女だからこそ愛したいなんて抜かす、希少種な点はとっくに評価してやっているんだ」


 いつかその盲目的な愛を、全て語れるまでになって見せろ。

 彼女らしい、好戦的な言葉がそう続けられて。この人を、愛することが出来てよかった、この人を好きになってよかったと。歪な愛情を持つ僕を、こんな風に認めてくれた彼女にもう一度頭を下げて、跪く。


「僕だけの、マトゥエルサート。永遠の愛を貴女だけに誓います、エリーゼ様」


 何があろうと、絶対に。僕は彼女を花嫁にする。僕は彼女を救う。僕は、彼女を、護り続けたい。この身体も心も、全ての存在を捧げてもいい。だから彼女を僕だけのものに、したい。業が深いことなんざとっくのとうに理解している。ただ、彼女を攫った責任だけは絶対に取る。それが、エリーゼを真に愛する男としてのけじめだ。


「本当に、物好きな奴」


 跪いた僕に、彼女から差し出された手。ああ、ずるい。僕がその美しい手に、躊躇いなく口付けすることを分かっていて微笑みながら差し出すのだから。どうか、そのような顔は、僕以外に絶対に見せないでほしい。

 攫った時と同じように。手の甲に僕の唇を落として、その手を強引に上に向かせ。彼女の手の平にまで口付けをした。手の甲に、手の平に、それは敬愛と懇願を意味する愛。生意気だね、と重ねてエリーゼが言った。その不器用な笑顔を見て、彼女がこれからもっと笑えるように、嫌な思い出全てを乗り越えられるだけの幸せを僕が作り出せたのならと新たな覚悟が決まる。


 カシタ山奥。ここに、三人目の人間が増えた日。それを歓迎するように木々は、森は、喜びを表現していた。昨日と違う、僕だけの女神が隣に存在する日常を祝福してくれるように、凪いでいた。

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