きまぐれ短編集
一飛 由
第1話 私しか知らない世界
それは、突然のことだった。
階段での転倒事故。
運悪く、頭をしたたか打ち付けたのは覚えている。
ただ、記憶はそこで途切れていて、それから何があったのか私は覚えていない。
後から聞いた話では、私は数日間眠ったままだったらしい。
その事実にも驚いたが、それ以上に衝撃的な事実に直面していた私にとっては些細な問題だった。
――目にするものすべてが、今まで見てきたものと違う。
とは言っても、りんごがみかんになっていただとか、四角いベッドが星形になっていただとか、そういう変化じゃない。
見慣れたものが謎の物体に変わっていただとか、そういうものとも違う。
ちゃんと、ベッドはベッドだとわかるし、サイドテーブル上の丸皿にはりんごが3個。
窓側を見れば、そこにはまばゆい外景が広がっているのがわかる。
もちろん、見知らぬ土地というわけでもなく、地元の総合病院だ。
ここまでは、何らおかしいところはない。
では、一体何が違うというのかというと、それは本当に説明が難しい。
例えるなら、地球の裏側を見たような……いや、この星によく似た別の惑星に瞬間移動してしまったような、そんなところだろうか。
いや、それよりも第六感的な能力で、色々な物の情報がより多く知ることができるようになったというのが一番近いかもしれない。
……名前の無いものを伝えるって、なんて難しいんだろう。
担当医のお姉さんにも、何か異変はないかって聞かれたけど、ちょっと見え方が変としか言えなかった。
結局、その一言が原因で、こうして入院が長引いてしまっているのだけど。
伝えたい事が伝わらないもどかしさに、心が普段よりもざわめいていた。
「あっ、いけない……」
いつの間にかシーツを強く握っていたことに気付いて、力を緩める。
意図せず出来上がったシワの花が膝の上に残る。
別に、気にするほどのことではないのに、つい気になってしまうのは、感じる情報量が多くて神経が過敏になっているからかもしれない。
とりあえず、心を落ち着かせるために、深呼吸をして明るめの天井に目を向ける。
幸い、天井は今まで見てきたものと比較的似ていた。
やっぱり、慣れ親しんだものを自然と求めてしまうのだろう。
途端に安堵感が増して、睡魔がまぶたに息を吹き下ろす。
そして私の意識は、私の内側の、より暗い場所へと落ちていくのだった。
「……あぁ、私、寝ちゃってたんだ」
意識が浮上した私は寝ぼけ眼をこすりながら、無意識に時計を探す。
だが、その道中で私の視線は止まらざるを得なかった。
理由は単純だった。
「すごい……きれい……」
それは初めて見る世界だった。
最初見た空もすごかった。
だけど、これはそれとも違う。
それに、こんな風に変わるだなんて思ってもみなかったから。
こう呼ぶのは合ってるかわからないけど、なんだか暖かそうで心を包み込んでくれるような、そんな空だ。
ずっとこの光景を眺めていられるなら、私はこのままでもいい。
そう思ってしまいそうな程に、窓から差し込まれた世界は私を魅了していた。
「――さ~ん、検診の時間で~す」
看護師さんの声に私は我に返り、時計に目を向ける。
時刻は夕方を指していた。
「どうかしましたか?」
私の変化に気付いたのか、髪をポニーテールに縛った看護師さんが顔をのぞかせる。
中腰になって、顔の高さを合わせてくれる辺り、気を遣ってくれるいい看護師さんなのだろう。
それもあってか、私はつい先ほど覚えた感動を伝えようと口を開く。
だが、そこで私は気付いた。
いくら私がこの感動を伝えようとしても、この看護師さんには見ることができないのだと。
一緒にわかり合いたい気持ちがあるのに、それができない孤独感。
絶景を前にして、独り占めだなどと騒いで見せることはあるけど、それは言葉の綾であるということが嫌というほどわかる。
今、こうして強く感じているのだから、それは間違いない。
結局、今の私にできることは、限られていて――。
「いえ……ちょっと、夢見がよかったので」
できる限りの作り笑顔を看護師さんに見せて、上体を起こす。
看護師さんも、それはよかったですねと朗らかに対応してくれたので、気まずくはならなかった。
そう、これでいいのだ。
余計な苦労や面倒は、かけないのが一番なのだから。
そう言い聞かせて自分を納得させようとする。
しかし、私の胸中は、大きな穴が空いたみたいに真っ暗だった。
数日後。
私は診察室で担当医の先生と向かい合って座っていた。
「生活に支障はないみたいだし、退院ということでいい?」
先生の言葉に、私は小さく返事をしてうなずく。
それを確認すると、先生は机に向き直ってカルテに何かを書き加えていく。
この診察が終われば、入院生活も終わり。
先生へ何か伝えるとしたら、このタイミングしかない。
私は、恐る恐る、先生へと声を掛けた。
「あの、先生……」
「んっ、何かしら?」
軽い返事と共に、先生はペンを走らせる手を止めて、こちらに向き直る。
様子を見るに、話を聞いてくれそうな感じだ。
安心した私は、一息置いた後で思ったことを告げる。
「童話で、オオカミ少年って、あるじゃないですか」
「嘘をつきすぎて、信じてもらえなくなる話?」
「はい。それで、私、思うんです。オオカミ少年に村人には見えないオオカミが見えてたんだとしたら……それってとても悲しい話だなって――」
すると、先生はあごへ手を当てて、考え事の仕草を見せた後、目を細めた。
「えぇ、そうかもしれないね。話っていうのは?」
「それだけ、です……」
「そう、それじゃあ、気を付けて帰りなさいね」
その言葉を最後に、先生は再び机へと身体を向けた。
きっと、先生には私が何故こんな話をしたのか、わからないだろう。
でも、これでいい。
これはただの私の自己満足なんだから。
誰かに自分の思いの断片を受け取ってほしい――それだけのことなのだ。
さぁ、これで本当に終わり。
私はありがとうございましたとお辞儀をして立ち上がる。
そして、診察室のドアに手を掛けた瞬間――。
「また、気が向いたらいらっしゃい。私には何もできないけど、作り話を聞くくらいはできると思うから」
先生の声が、優しく私の背中を押してくれた。
正直なところ、今すぐにも振り返りたかった。
先生の姿がどんな風に見えているか、伝えたかった。
その気持ちをぐっとこらえて、私は扉を開ける。
今はまだ、その時じゃないと思うから。
その後、院内の手続きを経て、私は数日振りに外に出ることができた。
頬を撫でる風や、照り付ける陽射しすら、今までとは心なしか別物に感じる。
足を止め、顔を上げると、そこには吸い込まれるような、どこまでも高い空があった。
それらを全身で感じながら、私は決意する。
たくさん勉強しよう。そして、先生に伝えるんだ――だって、こんなにも美しい世界があるってことを、知ってほしいから。
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