血と水
まだ眠りから覚めていない裏通りは、いつもに増して薄気味の悪い静寂に包まれていた。
マッサージ店と銘打った如何にも怪しげな看板も、個人経営と思しき寂れた喫茶店も、固く施錠されたラブホテルの通用口も、何もかもがケントには新鮮に映った。
アヤカを打ち捨てて一人でここを通り過ぎた時とは、まるっきり違った場所に見える。今となってはこの色のない通りに、言い知れぬ恐怖を覚える。今の自分がここに人影を見たら、一体その人はどれだけ鮮烈に映ってしまうのか。自我はどういった種の、どれほどの激情を放ってその人に牙を剥くのか。
ケントはぎゅ、と乙女のような仕草でもって、両腕で己の体を抱き竦めた。
人が怖い。自分が怖い。変わってしまったこの借り物の体が、決して傷つかないこの身が怖い……
「あぁれぇ〜〜〜……? あいつじゃねぇのぉ?」
「ミハラさん、まずいですよっ……あいつ、例の……」
野太くねちっこい男の声と、それの子分と思しき男の弱々しい声が背後から聞こえる。
ケントは、前者が誰だか瞬時に察した。
「だぁからぁ! あいつを探せって言われたんだろがッ! このスカポンタン! めッ!」
ゴンッ、と鈍い音が鳴り、子分らしき男が呻く。ケントの頭の中で「振り返りたい」という衝動と、「振り返れば終わりだ」という思考が、ごちゃ混ぜになって渦を巻く。
「おォい、ケンちゃん、コッチ向いてよォ〜……ケケケ、て言うかさ、何そのカッコ? ボロッボロじゃん。
ミハラが歩み寄ってくる。やめろ。来るな。
「君をとっちめて連れて帰んないとさァ、俺たち怒られちゃうんだよねェ。君の、俺らのお
彼が口にする言葉は全く頭に入らない。今のケントに、そんなことを気にかける余裕はなかった。ただ背後に近寄る足音と、徐々に大きくなるその不愉快な声が、今にも爆発寸前のケントの激情をジワジワと炙ってゆく。
やめろ、やめろ……寄るな。駄目だ、もう……
「なァ〜〜〜に、シカトブッこいてんだよ、ゴラァッ!」
声色を豹変させたミハラが、ケントの肩を掴んで無理やりに振り向かせる。もう、限界だった。
「ヒッ……!?」
ケントの狂気に満ちた四白眼から、裏通り一帯を照らし出す程の
カランカラン、と金属音が鳴り、ミハラの片手に握られていたバットが地面に転がり落ちる。
ケントの口元に嗜虐的な笑みが浮かぶ。
あぁ、全部揃っちまった、全部……
ケントは無意識のままに、地に転がっているバットに手をかざす。それはまるで磁石に吸い寄せられるように、ケントの手に収まった。
「ヒッ、ヒッ……ま、待て! ちちち、ちょい待ちっ……ごめ、ゴメンナサイ! あ、あ、あのこれにはワケが……話を……」
うるさい、うるさい、鬱陶しい……
失禁して懸命に命乞いをするミハラの禿げ上がった剃り込みの辺りを目がけてケントは機械的にバットを振り上げ、機械的に振り下ろした。両親の頭を叩き割った夜の感覚が鮮やかに蘇る。
不恰好にひしゃげた頭から、真っ赤な血と脳髄が道端に散乱する。ビクビクと脈打つミハラの体に共鳴するように、ケントは快感に打ち震えた。
狂気に満ちた瞳の赤光は益々爛々と輝き、ケントは本能の赴くままに鮮血に塗れたバットを振り上げ、振り下ろす。何度も、何度も、何度も……
最早原型を留めぬ肉塊と化したミハラを前に、その子分もまた腰を抜かして失禁している。口をパクパクと開閉させて、声にならぬ声で許しを乞う。
そこには確かな生がある。いとも容易く砕け散る生が、分かり易い悪党の身に宿っている。
妬ましい。
ケントは激情の赴くままに、彼を次なる標的と見定めて飛びかかった。彼は悲鳴をあげる間もなくその餌食となり、あっという間にミハラとよく似た肉塊と化した。
恍惚として血の海に佇むケントは、何となしに頬を手で拭ってみた。
手についた僅かな返り血は見る見るうちに露と消え、方やボロ布と化したモッズコートに付着したそれは、いつまで経っても消えなかった。
死の崖の麓で浴びた水がすぐさま弾けて消えたことを思い出し、彼らがその命と共にぶち撒けたこの鮮血が所詮、陸に叩きつける波濤と変わらぬ水滴に過ぎないことを知った。
『知ったんでなく、思い出したんでしょう』
ユミコの声がまた響く。いちいち鬱陶しい女だ。
お陰で苛立ちが治らない。足りない。まだまだ足りない。
ケントは、血を吸って肩までずり落ちていたコートを着直すと、またゆっくりと歩き出した。
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