父母と雨

 まだ六歳のケント少年の体には無数の痣があるが、中でも取り分け凄惨な青痣がいくつかある。犯人は皆同じ。


「遅かったな、クソガキ」


 シミズ神父の言いつけを守って帰りたくない家に帰ったケントを待ち受けていたのは、予想通り暴力の洗礼だった。

 父は重い足取りで帰宅した息子にそんな言葉を吐きかけると、ケントの、己のそれとよく似た紫がかった黒髪を乱暴に引っ掴んで家の一室に引きずり込み、好き放題に暴行を加えた。

 彼にとってケントは、自身が犯した過ちの象徴であり、一生をかけて背負わされる負債でしかないのだ。


 ケントはこの男が自分を見る時の憎悪に歪んだ目を見る度に、自身の存在が如何に望まれぬものであるか実感する。母と、血縁上無縁のかつての父、そしてこの実父との間で行われた押し付け合いの末にここにいる、間違いに間違いが重なった存在なのだと再認識させられるのであった。


 何人がかりで暴行を加えられても、どれだけの嘲りを受けても折れない反抗心が、この男の目と絶対的な力を前にすると完全に折れる。


 戦えない。


 ケントは、ボロ雑巾のようにズタズタにされた心と体のまま、玄関先へと無造作に放り出された。



 ♦︎



 夜空に向かって仰向けに倒れこんだケントの視界に輝く星々が映る。

 田舎のT市にはそれらの輝きを遮るほどの巨大なビル群も、人工の光もない。


 綺麗だ。


 ケントは素直にそう思った。壊れたオモチャにも心はある。


「何こんなところで寝てんの」


 冷たい声が、またケントの世界を打ち割る。

 満点の星空が広がるケントの視界の一隅を、母の侮蔑に満ちた顔が覆った。それだけのことで、心はほとんど母に奪われた。


 汚い。


 ケントは素直にそう思った。母がそう映る息子もいる。


「早く起きて。入って。自分で起きて入んのよ……さっさとしなさい」


 体のあちこちが痛む中懸命に身を起こすケントに母は手を差し伸べもせず只管に急かし、自分はズカズカと階段を上がり玄関の扉に手をかける。

 近所で母は「淫売」だの「アバズレ」だのと言われている。父は僕が物心つく前に、僕が今の父のタネだと知って出て行った。

 というのはまぁ、そういうことだ。


 この母がいて、僕がいる。

 あの父がいて、僕がいる。


 空はこんなにも広いのに、僕にはそこに延ばせるほど綺麗な手がない。ただ家にさえ入らなければ、大好きな自然が、寒さが、穢れた僕を殺してくれる。

 戦うことに何の意味があるのだろう、と素朴な疑問がケントの脳裏を過ったが、そんな思考もすぐに打ち切られた。


 シミズ神父が、通りの向こうから僕を見ていた。


 どうした。

 戦わないのか。


 そんな声が頭に聞こえた。聞こえた瞬間に去っていく。

 今の僕に、その背を追う資格はない。その背を追うには……


 不意に、バケツをひっくり返したような雨が降り始め、雷が鳴る。ケントの足は、自然に家の敷居を跨いだ。


 時に、200X年3月12日。T市。土砂降り。この翌日、ケント少年は伝説となる。

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