第Ⅴ篇「アレッポの少年」

     V


 本部ビル六階――医療フロアの一角。

 保護や治療が必要な証人を収容するための部屋の一つ――強化ガラスでもあり液晶画面でもある多機能光学繊維ファイバーグラス・タペストリモニターで区画された医療ルーム兼取調室。

 ベッドに横たわる少年――清潔な患者服/細い腕に点滴/顔に半透明の人工呼吸マスク/生命を維持するための措置でありながら、まるで無理やりベッドに縛りつけられているような痛ましさ。

 天姫――ベッドの脇で椅子に掛け、少年を見つめる。側に医師/看護師/部屋の隅に制服姿の乙=少年に配慮して帯刀はせず。

 隣の記録室から御影。《少年の名はジャン・カディル、十二歳。衣服の裾に刺繍されていたアラビア文字と、所持していた身分証から身元が判明。……出身はシリア北部の街、アレッポだ》

 乙――静かに腕を組みながら。《ニュースで聞いたことがある。確か内戦でもっとも被害を受けた都市だ》

《――空爆と市街戦で廃墟と化した街だ。避難を余儀なくされた住民の多くは、今も各地で難民と化している。記録ではこの少年も家族と共にトルコの難民キャンプで暮らしていたようだ》

 感情を押し殺した御影の細説――胸が締めつけられる想いを味わいながら、少年に微笑みかける。

「はじめまして。ワタクシは天姫と申します」

 少年――ぼうっとした眼差しが少女を捉える/弱々しい声音。「お姉さんが……オレを、助けてくれたの?」

「いいえ。ワタクシ一人ではありません。ここにいるお医者様や、多くの方々のお力ですわ」相手に合わせ、ゆっくりとたずねる。「ジャンは、ドイツ語がお上手ですわね?」

「少しだけ……難しいのはダメ」呼吸器がヒューヒュー音を立てる。「父さんに、教わった。こっちで……必要になるって」

「お父様は、今どちらに?」

「多分……この街にいると、思う」彷徨う視線。「父さんが……キャンプを出ようって言った。トルコは、危険だから」

 御影=思案げに。《トルコは数年前のクーデター未遂事件以降、不安定な情勢に置かれている国だ。より安定した我が国やドイツ・フランスへの移住を望む移民・難民も多いと聞いている》

「……ジャンは、お父様とご一緒にこの街へいらしたの?」

 目を伏せる。「……ううん。まずは父さんが先に。こっちに知り合いがいるからって。オレと妹や母さんは、後から呼ぶって」

「お父様に呼ばれて、ご家族三人でこの都市へいらしたのね?」

「ちょっと、違う……」戸惑いがちに。「キャンプを出てから、ハンガリーの洞窟で、みんなと一緒に寝泊りしたんだ。トラックには一度に乗れないからって……母さんと妹が先に乗った。オレは男だから……一人で残って、他の人たちと後から乗ったんだ」

 思わず乙と顔を見合わせる――意を決して訊ねる。「ジャンとはに、お母様と妹君は乗ったのですわね?」

 少年の微かな頷き――すぐさま記録室の捜査官へ御影が指示。《新たな情報だ。至急、二台目のトラックの行方を追え。おそらく少年の父親は、家族を都市へ呼ぶために違法な業者を頼ったのだろう。シンジケートの不法ルートを知る重要な手掛かりだ》

 廊下から慌しく人の行きかう気配――天姫=気遣わしげに目を伏せながら、少年に語りかける。「感謝いたしますわ、ジャン。ワタクシたちが、必ずあなたのご家族を捜し出してみせます」

 少年――ふいにその瞳が輝きを失う。「――ねえ、お姉さん。オレと一緒にいた人たちは、どうなったの……?」

 一瞬言葉に詰まった――何を言うべきか躊躇ちゅうちょするうちに、少年がポツリと呟く。「やっぱり……みんな死んじゃったんだ」

「ジャン――」かけるべき言葉が見つからず――押し黙る天姫に代わって、おもむろに乙が口を開く。

「みな天に召された。助かったのは君だけだ」あえて突き放すような言い方。「生き延びた者には、死んでいった者の分まで生きる義務がある。。その意味を受け止めてくれ」

 沈黙が落ちる室内に、心電図の刻む電子音と少年の呼吸音のみが木霊する――しばらくして、すすり泣く声が混じる。「洞窟で一緒に乗ったおじさんが……オレに言ったんだ。CANジャンは、古いトルコ語で〝生きる〟って意味だって。その名を背負った君は、誰より生きなくちゃいけないって……最後まで励ましてくれた」

 心電図の音が早まる――看護師が忙しく動き回り、医師が沈静剤を用意しながら、退室を促すように首を振る。

 天姫――少年の手を握ろうとした手が空をかく/行き場を失ったその手を胸に抱き締め、乙と連れ立って静かに席を立つ。

「なんで……なんで、オレだけ……」

 病室を後にしても――最後に漏れ聞こえた少年の呟きが、いつまでも耳の奥へと残り続けていた。


「なぜですのっ。誰が何のために、このような仕打ちをしたのですかっ!?」天姫――部屋を出るなり、記録室から出てきた御影に食ってかかる。「彼らが何をしたというのです……。ただ安全で住みよい土地を求めただけではありませんの……」

 乙に預かっていたカタナを渡していた比叡+春奈が、驚いて目を丸くする――困った顔で仲間を見る。「天姫」「天姫センセー」

 御影――忸怩じくじたる面持ちで答える。「かつて〝アラブの春〟と呼ばれた中東・アフリカ諸国の政変により、内政不安に陥った国から大量の難民が発生した。国を追われた彼らは、安全と生活が保障される欧州や北欧諸国を目指した。ドイツのウェルカム政策や、EUの掲げるシェンゲン協定がその流れを後押しした。……その結果、これまでの歴史上類をみないほど多くの難民たちが、欧州に押し寄せたのだ。国連の統計では、EU域内に入ってくる難民の数は年間一〇〇万人を超えるとされている」

 天姫=目に燃えるような怒り。「――だから、彼らは殺されたというんですの? かつてナチスがユダヤ人を虐殺したように、異民族は邪魔だとでもっ?」

 御影=神妙に。「お嬢様マドモワゼル、それは違う。彼らが亡くなったのは、彼らが頼った密入国斡旋業者に

「……見捨てられた?」意味が分からない、という風に首を振る。

「誰もが予想しなかった事態だ。我が国を始め、これ以上難民を受け入れられないと判断した政府は、国境監視を強め押し寄せる難民を国外へ留めようとした。しかし、一度生まれた流れは止められない。正規ルートが禁じられた彼らは、やがて」御影=自らも怒りに堪えるように。「運び屋の多くはシンジケートやマフィアの下っ端だ。金になることなら、なんでもやる連中だ。そうした輩は前金さえ受け取れば、後は難民らがどうなろうが知ったことではない。それどころか、こうした密入国斡旋業者の中には、目的地に着いた時点で運んできた難民たちをさっさと当局へ引き渡すような輩までいる。その方が面倒な手間を省けるからだ。今回、トラックを放置した連中は、そうした輩の中でも一際タチの悪い奴らだ。こいつらはトラックごと積み荷である難民たちを。まるで道にゴミを棄てるように、

 御影が眉間に深いを寄せる――まるでこんなロクでもない事実を少女たちへただ語り聞かせるしかないことを、深く恥じているようだった。

 天姫が口をつむぐ――相手の言葉が理解できるにつれ、目の前が暗くなる思いがした。「あの子は……彼らは同じ人間ですのに。らなくなった人形を棄てるみたいに言わないで下さいましっ」

 蒼褪あおざめた顔で激しく首を振る天姫――その背に乙が声をかける。 

「この世の中には、人を人と思わぬような魔物が棲んでいるんだ」静かにカタナを掲げる――握り締めた鞘の奥で、冷たい刃が熱を帯びるような気がした。

〝生かそうとして殺しちまった〟――乙にカタナを託した日本人の言葉が脳裏に過ぎる。今ならその気持ちが痛いほど理解できた。

「国を追われた者たちへ救いの手を差し伸べる振りをして、その毛をむしり取る魔物どもから、守るべき者を救うことが私たちの役目だ」蒼い隻眼が力強く、菫色の瞳バイオレットを覗く。「天姫。お前が手にする槍は――それを忘れるな」

「お姉サマ……」乙の掲げるカタナを見る/隣に立つ御影を見る/心配そうに成り行きを窺う比叡+春奈を見る。

 仲間の存在――背負った使命/背負った誓い/要撃の心得。

 

 そう、自分は約束したのだ。あの少年の家族を捜し出すと。

 すっと目を閉じる――大きく深呼吸してから、瞼を開き、優雅に仲間たちを振り返った。「さ――あ、行きますわよ。比叡さん、春奈さん。ワタクシたちの〈高貴ゆえの義務ノブレス・オブリージェン〉を果たしに――」

 華麗にて勇猛果敢な小隊長の宣誓――比叡+春奈が嬉しそうに敬礼して応じる。「了解っす、小隊長っ!」「ウェヒヒ……それでこそ天姫センセーだし」

 連れ立って歩き出す三人の少女――先頭を往く天姫の後ろ姿を追いながら、乙はどこか誇らしげに目を細めた。


 フロアを移動する四人――その背を見送りながら、感慨深げな御影の呟き。

「いい子たちだ。今の天姫くんを見ていると、まるで白鳥の姫オデットが還ってきたようだな」廊下の先を振り返る。「それに乙くんは、ますます昔のお前に似てきたようだぞ。ニナ長官?」

 静かに歩み来るニナ――妖精らを見つめながら。「天姫が小隊長の座に就いてから一ヶ月。これは彼女にとって最初の試練だ」

お嬢様マドモワゼルが自らの信念を貫き通せるか、試そうというのか?」

 果断なる態度。「それが彼女の選んだ道だ。この程度で折れるようでは、理想を掲げることなどできない。〈高貴ゆえの義務ノブレス・オブリージェン〉――自ら背負ったその言葉の重みに、潰されてしまうだろう」

「獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが……我らが白き女王陛下の厳格さには敵うまいよ」鷹揚に肩をすくめる。

「彼女らは篝火かがりびだ。やがては多くのものが後へ続く」その行く末を見守るように遠くを見つめる――それからふと、声を低めて。「これからジャン・カディル少年を他所へ移す」

 眉をひそめる。「……こんな時間にか?」

「政府の意向だ。とメディアから批難される前に、政府管轄の施設へ移送することになった」

「なぜだ? 国内機関とは調整が取れていたのだろう?」

「おそらく圧力だ」ニナ=目をすがめる。「特に移民受け入れに積極的なドイツの意向ならば、政府は逆らえない」

「……確かに、ユーロの覇者であるあの国が言い出せば、従うしかあるまいな」御影――納得しきれぬぼやき。「まだ体力の回復していない幼い子供を、負担をかけるのを承知で搬送するとは。一体、上の連中が守りたいのはどちらだ? 難民の子供か、それともEUや政府の面子なのか?」

「ここで皮肉を述べても意味はない」ニナ――予断を許さぬ姿勢。「搬送先は第九区アルザーグルントのウィーン総合病院だ。すでに捜査官の一部を少年の護衛に回すよう手配した。――このことはまだ天姫たちには知らせるな。動揺を招けば、作戦に支障をきたす」

「……了解だ、ニナ長官」御影の――念を押すように頷くニナの胸元でふいにコール音/懐から最新式のPDAを取り出す。

「私だ。――ふむ、分かった。その情報をもとに、〈バク〉の解析作業を急がせる」PDAを収納したニナ――再び御影へ向き直る。「密輸シンジケートの尋問に当たっていた日向からの報告だ。函に眠る死者たちをこの都市へ招いた悪魔について、重要な証言が得られたとな」

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