女子大生

 「先生、先生ですよね」

 駅前でいきなり声をかけられ伊刈は怪訝そうに振り向いた。可愛くないとも言えないが、それほど目立った顔立ちとも言えない女子学生っぽい子が立っていた。たぶん望洋大の特別講義に出ていた学生なんだろうと思ったが、はっきりとは思い出せなかった。

 「どこ行くんですか」

 「どこってことないけど夕飯食べて帰ろうかと思って」

 「鰻がお好きだったら長谷部へ来ませんか」

 「もしかしてそこでバイト」

 「ええ」彼女はなぜか目を輝かせた。

 「いいよ、行ってみる」

 「ほんとですか。こっちです」

 彼女は伊刈の手を引き始めた。見かけによらず積極的な子だなと思った。

 「君、名前は」

 「塩川百恵です」

 「何年生?」

 「三年です」

 モモエが伊刈を案内したのは駅裏の再開発地区にあるアーケードの地下街だった。狭い地下通路を挟んで新宿の思い出横丁かゴールデン街みたいな安酒場が並んでいた。細長い地下通路のほぼ中ほどに鰻屋の長谷部があった。

 「マスター、お客さん連れてきた。先生だよ」モモエが暖簾を潜りながら元気よく言った。

 「おう、いらっしゃい」長身のマスターが威勢良く答えた。狭い店内にはお客は一人もいなかったが、それでもマスターはせっせと白焼きに串を刺していた。手際にムダがなく、年季が入っている店だと思った。

 「まあそのへんに座ってよ。モモエの先生ならサービスするよ」

 「いえ先生は臨時でね、本業は市庁なんです」伊刈が柄になく真面目に説明した。

 「臨時でも先生は先生なんだろう。大学で教えるなんざ偉いんだねえ」

 「あたし向こう準備してくるよ」モモエは客のいない長谷部を見限ったように店を出て行った。

 「向こう?」

 「ああ、斜向いにあったスナックが閉まったんでね、俺が居ぬきで預かってんだ。一店でも閉まってると賑わいがなくなるだろう。よかったらあとで寄ってってよ。高い店じゃないからさ」

 「とりあえずビールと鰻重の特上」

 「特上なんてやめなよ。並で十分。味は同じだからねえ。肝焼きサービスしとくから」

 「それじゃ並で」面白いマスターだと思った。

 鰻重は並だけにやっぱり蒲焼が小さかった。余った白飯を隠すようにサービスの肝焼きが二本添えられていた。

 「これ実はランチで出してんだよ。サービス重八百円。夜はないんだけど馴染みのお客さんには出すんだ。ランチと同じ八百円でいいからね」

 「安いですね」

 「値段より味を見てよ」

 「はい」

 食べてみると鰻は串から落ちるぎりぎりまで柔らかく蒸されタレの味もしっかりしていた。養殖鰻の冷凍だから高級品ではないが手抜きのない味だった。

 「うまいです」

 「だろう」

 「ビールがまだ出てませんけど」

 「ああ忘れてたよ。悪いんだけどさ、そっから取ってもらえるかな。その冷蔵庫に冷えてっから」

 「いいですよ」伊刈はセルフでビールの栓を抜いた。

 「モモエはいい子だろう。可愛いし気が利くしな」

 「そうですね。ここのバイトは長いんですか」伊刈は生返事をした。あんまり可愛いとは思っていなかった。

 「四月からだよ。うちは三年生しか雇わないんだ。二年は未成年だし、四年は就活だろう」

 「なるほど三年は希少価値があるんだ」

 「毎年四年になった先輩が一年後輩を何人か連れてきてくれるんだよ」

 「じゃ彼女以外にも」

 「今年は当たりでね、いつもは三人だけどムリして四人雇った。みんないい子でね、どうしても四人とも雇いたかったんだ。はっきり言うと人件費で赤字だよ。いまどきの若い人は鰻よりマックが好きだからねえ」

 「それなら鰻バーガーでもやったらどうですか」

 「先生はコンサルタントもするのかい。でもそれもいいかもしれないねえ」

 「お愛想してください。向こうの店にも行ってみますよ」サービス重はあっという間に食べ終わっていた。

 「ああそうか。セイラって店だからね。今日はリンカもいるから。リンカは美人だよ」

 長谷部を出て数歩のはす向かいにセイラの看板が出ていた。驚いたことに、ドアを開けたとたん店内の喧騒が身を包んだ。長谷部とは違って狭い店内は満席に近かった。女子大生人気なんだろうと察した。カウンターの中に伊刈を誘ったモモエともう一人の女子大生のリンカが立っていた。確かにリンカは美人だった。まだ子供っぽさが残っているモモエと違って、同級生だとは思われない完成した大人の気品を漂わせていた。

 「先生どうぞ」常連客に占拠されていたカウンターの隅にモモエが伊刈の席を強引に準備した。常連客の何人かが先生と呼ばれたライバルの出現を警戒している様子が伺えた。もっともほとんどの客はリンカが目当てなのかモモエの挙動には無関心だった。セイラはいわゆるガールズバー方式で、モモエとリンカはカウンターの中に立っているだけで接待をしなかった。彼女たちと話せるカウンター席が満席なのは当然だった。伊刈はモモエともリンカとも大した話はせず、ハウスボトルのウィスキーを頼んで一人で飲んでいた。

 帰ろうとしたとき、入口のドアが開きキャミソールドレスを着た派手目の女性が入ってきた。客の何人かが彼女の胸に注目した。

 「わあ、今夜は満員だね。座るとこないじゃん」彼女は大きな口を大げさに開けて言った。

 「ごめんナオミ」リンカが彼女の顔を見て言った。どうやら彼女も同級生のようだった。

 「今帰るとこですよ」伊刈が彼女のために席を空けようと立ち上がった。

 「先生まだいいじゃない」モモエが伊刈を引き留めた。

 「へえ先生なんだ。もしかしてうちの先生なの?」ナオミが見覚えがないよと言いたげに伊刈を見た。

 「じゃさあたしと先生でちょっと外で暇潰してくるよ。名案でしょう」

 「ちょっと何言ってんよの。あんたどんだけ酔ってんの」リンカがたしなめるように言った。

 「いいじゃんいいじゃん。ね先生ちょっと付き合って」ナオミがはしゃぐように言った。

 「先生ちょっと来て」モモエが伊刈の手を引いて店の外の地下通路に出た。

 「あ、なによう、あたしの先生取るなあ」ナオミが仏頂面で二人を振り返ったが追ってはこなかった。

 「ごめん先生。あの子ね、酔うと惚れっぽいのよ。普段はウブなんだけどね」

 「また来るよ。これ飲み代」伊刈は五千円札を渡した。

 「ほんとに来てくれるの。じゃ待ってるね。おつり持ってくるよ」

 「おつりはいいよ。ナオミちゃんにご馳走してあげて」

 「そんな必要ないよ。あの子の親すっごいお金持ちなの」

 「じゃあ二人にチップ」

 「ほんと? あたしたち貧乏だから助かるわ」モモエの顔がぱっと輝いた。

 「じゃ、また」伊刈は地下通路を歩き始めた。このときはまだセイラに嵌ることになるとは思いもしなかった。

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