歌声

鹿紙 路

前編

 鳴きとよむ潮が、くりかえしくりかえし、津に寄せては砕け、暗いみなぞこに引いてゆく。

 遠くへ呼びかけるような海鳥の声、絶えず吹き付けるつめたい風――風は、夜と昼では、ちがう方角からやってくる。 

 にわの津から見える海よりも、もっとあらあらしい海、その海をさらに越えたところにある、からの国、あるいは半島の百済くだらの国、新羅しらぎの国、こうの国――……その国々のおおきな戦に、の国も兵を出すという。滅ぼされた百済の遺児を旗印に、宝さまは唐の国に立ち向かうというのだ。

 急な出兵で、徴集が追いつかず、大宮人おおみやひとの一部は、宝さまと一緒にこの石湯行宮いわゆのかりみやで準備を待った。

 たからさま――大王おおきみにして、先の大王の大后おおいきさきさま――は、病んでおられる。老いて、強風に吹きさらされて、重い石臼にすりつぶされておられる。それでも、わたしたちは、宝さまについていき、宝さまの指示で、宝さまの思うままに振る舞う。たぶれごころと、永いあいだうわさされている、宝さまの思うままに。

 石湯に着いたころは、寒さが残っていた。もうすぐ出発だという、いまはもう春も深まった。昼には感じないつめたさを、けれど夕べには風に感じる。

 

 わたつみの 豊旗雲とよはたぐもに 入り日さし こよいの月夜つくよ さやけかりこそ


 宝さまの息子、中大兄なかのおおえさまはくちずさみ、宮から見える、輝く水平線と、その上のふくふくと浮かぶ雲の赤らみを示された。大兄さまも、宝さまの思うままに振る舞う者のひとりだ。この旅も、戦も、絶対にうまく行くと、信じて――目のくらんだひとびとのうちのひとり。雲は豊か、月はさやか。

額田ぬかた

 宝さまの寝所に侍ると、わたしは呼ばれた。

「足を……あたためて」

 灯明台に照らされる宝さまは、皺ぶかく、かもじを取った髪はほそく白く、手には骨が浮き上がっている。

「はい」

 わたしは宝さまのしとねをめくって頭を入れると、宝さまのひんやりした足を、自分の両手でくるんだ。

「そなたはいつも手があたたかいのね」

「……」

 なんども掛けられたことばに、今度もどう答えていいかわからず、わたしは沈黙する。自分の指の腹で、冷え切った宝さまの足指をこすり、てのひらで足の甲をそっとにぎる。それでは足りない気がして、わたしは宝さまの足指を口に含んだ。舌ならば冷えないはずだ、と思い、親指から順番に吸う。汗の塩みを、舌が感じる。この世でもっとも神にちかしいひとでも、汗をかく。

 言うまでもないことだ。わたしはとうに知っている。宝さまに触れれば、宝さまがどう応えてくれるかを。

 くすぐったいと思われるかもしれない、と思いながら、足の裏に舌を這わせる。土踏まずをなぞり、かかとをむ。くるぶしの固さに唇で触れる。

「ん……ん……」

 かよわい声が漏れ、宝さまはみじろぎする。ふるわせられたふくらはぎを、わたしはとらえ、てのひらでこする。青い血脈の浮き上がったすね、血の道のわだかまった、膝裏のしこり、壮年のころには肉ではりつめていた、しかしいまは乾いてこまかな皺を寄らせた皮膚――……

「……額田……」

 潤みのにじんだ声。

「はい」

「泣いているの」

「……はい」

「こちらに来て。抱きしめて」

「畏れ多うございます」

「なにを言っているの。わかい頃はあんなにわたしを求めてくれたのに」

 わたしは敷布に顔を押しつけた。頬を伝っていた涙はそこに吸い込まれたが、あとからあとから滴があふれ出て、止まらなかった。

 女嬬めのわらわとして、宝さまの宮に仕え始めて、歌を気に入っていただき、寵をけた――そのわかやいだ季節の、まぶしい光が脳裏を照らし、わたしは目を閉じた。身を起こして、しとねを出てから、もういちどそこに入り、宝さまのあえかな肩を抱いた。宝さまの乳ぶさのたるみのぞっとするようなつめたさも、鎖骨のするどさも、わたしの胸は感じ取る。童女のような、ちいさなひと。燃えさかる火群ほむらのような魂を持つひと。

「あの歌を歌ってちょうだい」

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