白い夜

@proton614

1話完結 白い夜

夜が白めば白むほど、歌舞伎町には知り合いが増えていく。すれ違う男、女、そして、男でも女でもないもの。私たちはこの掃き溜めに身を寄せながら、ひとりひとりが冷徹な孤独を守っている。白い朝日は、誰の影も等しく、淡く、伸ばしていた。

私がこの楽園に堕ちたのは、もう4年前、大学2年生の頃だった。友達に「初回だけは安いから大丈夫」と誘われ、しぶしぶ立ち寄ったホストクラブで、シンさんと再会した。

ふっと、乾いた笑いが、唇の隙間から漏れる。今考えると、彼女は「初回荒らし」だった。基本的にどのホストクラブも、初回の料金は安く設定されている。無数のクラブを、1回訪れては去る彼女らのことを、ホストは「初回荒らし」と呼び、忌み嫌う。私はシンさんの前で、そんな卑しい女になるつもりはない。

夜が白んでいく。露のにおい、鼻先の冷え。整形したての輪郭を撫でる。8センチヒールが硬い地面を、速いリズムでカッカと叩いた。まだ腹が痛む。


シンさんはもともと、バンドマンだった。私が高校生の時、ライブハウスで歌っていたギタリストで、私は彼の、熱狂的なファンの1人だった。知らなかった。バンドを脱退した後、彼が歌舞伎町で、ホストをしていたなんて。

「京子と飲むのが、俺一番たのしいよ」

シンさんはよく、そう言った。テーブルに積まれたシャンパンタワーではなく、私の目を見つめて。憧れだった彼が、隣にいる。それだけでも、夢のようなことだった。もしかしたら、彼は本当に、私のことを好いているのかもしれない、なんて。そんな期待のできた頃は、まだ、私は純真無垢だった。

本営。今ならわかる。これはシンさんの、本気の営業なのだ。その真剣さに応えるために、私はシンさんの時間を、シャンパンに変えて300万で買う。日常的に、異常量のアルコールとニコチンを摂取した。とても妊婦が過ごすような日々ではないってことくらい、小学生でもわかる。

昨日、流産した。それも、シンさんの部屋のトイレで。

お腹の激痛、血の滴る内腿、肌で感じる死のにおい。この世の絶望の全てを、この身にまとった。深く息をつく。トイレットペーパーを右手に絡め取って、唾液を落とした。湿り気を帯びた紙で、水気を失い始めた腿の血痕をなぞる。しばらくすると、拭いきれなかった血が、完全に乾いてしまった。

不毛に感じて、トイレを出た。出る直前、いつもの癖で流しそうになったが、踏みとどまった。

リビングに戻ると、シンさんは血に汚れた新品のソファを、何も言わずに拭いていた。白いソファには、汚れたタオルが、赤い円を描いていくだけで、ちっとも綺麗にはならない。それどころか、一生落ちることのない泥を、その生地に塗り込んでいるようだった。

そんなシンさんの姿を見て初めて、私は泣いたのだ。切り離した私の一部は、まだ、便器にいる。私は歌舞伎町にふさわしい、ふさわしい屑だった。

なぐってくれればよかった。新品のソファを汚しやがってと、暴れてくれればよかった。灰皿を投げつけて、顔の骨でも折ってくれればよかった。皮膚の下に詰め込んだ、身体中のシリコンが、殻を破って外に出るまで。痛めつけて、二度と立ち上がれないくらい、罵ってくれればよかったのだ。それを、抱きしめて

「京子、大丈夫?」

なんて、どれだけ残酷なことをしているのか、シンさんは理解しているのだろうか。だとしたら、この人も。

「わかってるよ、私。シンさんにも責任の一端があるから、そんなこと言ってくれるんだって」

「京子」

シンさんの声からは、感情が読み取れなかった。ただ静かに、静かに、一度だけ、私の名前を呼んだ。父親なんて誰だかわからない。けれどそれが、シンさんだったらよかった。私たち2人で、この世界のどん底に堕ちていきたい。

頭ではわかっている。何年後かには、シンさんに会わない日常が、当たり前のように続いているってことくらい。シンさんがホストをやめるか、私が死ぬか。私たちの別れは、細い糸が千切れるように、簡単に来るものなのだろう。私は、世界一愛するこの男が、永遠に、私の前から姿を消す日を待っている。


今日も私は、クラブに向かう。最後の300万を、シャンパンに変えるために。

歌舞伎町の夜も、いつかは白んでいくのだから。

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