鈴蘭忍法帖(すずらんにんぽうちょう)

躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ)

忍法 露風(にんぽう つゆかぜ)

……霧深い闇の覆うその海原を、一隻の船が進んでいた。

 時折差す月の光を浴びても全くその姿を浮かび上がらせず、それどころかその光を透かして水面に月の形を浮かび上がらせている、奇怪な漆黒の船が。

 帆は張っていても操る人間の姿は見えず、進んではいても船板の軋む音もしない。ただ、波の上をゆっくりと、滑る様に進んで行く。


 その船は一路、織田信長の軍門に下って門を開け、彼の亡き後は豊臣秀吉の掌の上で転がされようとしている、今では忘れ去られた自治自由都市であった、堺へ向かっていた。

 そしてその後からもう一隻、別の船が付いて来ている。こちらは甲板の上に、ごろつき風の連中がそれぞれ得物を持って、合図を待っていた。

「夜だからって明かりを落として、俺達の目を逃れようとしてやがる」

「お宝、お宝」

 どうやら彼らはその会話から察する所、海賊であるらしい。何処で見つけたか、眼前の漆黒の船を襲う腹の様だ。

 そしてその中に、明らかに場違いな印象を受ける、覆面をした一組の男女の姿があった。二人とも姿は他の連中共々薄汚れた感じだが、よくよく見れば男は精悍な印象の凛々しい風貌で、女の方は長い髪を毛先近くで縛った、真っ白な肌の美女であった。

 元が良いせいか、薄汚れていると違和感を禁じ得ないのである。その感覚が辺りに漂わない様に二人は懸命に努めているらしいが、覆面の中からでも彼らのそれは他の者の気を引かずにはおれぬ様だ。

 男の名は凶左きょうざ、女の名は鈴蘭と言った。


 二人は徳川側の忍者であり、今回密命をその身に負って、眼前の船をひたすら追跡して来たのであった。かの船には秀吉に取り入ろうとする戦国時代を生き延びた武将達から贈られた、金塊が積まれている。

 横取り出来ればそれで良し、出来ない様なら沈めろ、というのが今回の指令である。旅の途中で絡まれたこの海賊共に実力差を見せつけた彼らは、船を追う様に命じた。

 そして自分達も確かにあの船が沈んだ事を確かめなければならない。その為にこの船に同乗しているのであった。


 合図と共に、船の横腹に自分達の船の鼻先を叩き付けた海賊達は歓声を上げたが、すぐにそれは止んだ。衝撃音も振動もなく鼻先が相手の船にめり込んだからである。

「びびってんじゃねえ、乗り込め! お宝を頂くんだ!!」

 仲間の声に、数十人の男達は再び何時もの獰猛さを取り戻したのか次々に船に飛び付き、乗り込んで行く。

 凶左と鈴蘭も後に続いて大きく跳躍し、船の縁に音もなく着地した。


 船に次々と火の付いた矢が射込まれたが、それらは全て闇に飲まれた。それにもめげず、船の奥へ奥へと男達は進もうとしたが、不意に何人かが動きを止めた。

「何だこりゃあ!?」

「動けねえ! 助けてくれ!!」

 他の者達が右往左往する中、凶左と鈴蘭は闇夜も見通す忍者のまなこでそれを見た。粘ついた十条も百条もありそうな糸が、男達の腕に、腰に、足に絡み付き、彼らを締め上げているのだ。

「……『霧雨きりさめ』か?」

 凶左が呟いた。

「『海女髪あまがみ』ではない様です」

 鈴蘭がそう答える。

 その眼前で、糸に絡め捕られた男達が、横殴りに左から右へ胴をなます切りにされ、臓物と脂肪と、それを染め上げる鮮血が飛び散った。そしてそれをやったとおぼしき影が、その右向こうでぬい、と立ち上がった。

 手に下げた中華包丁の様なナタが、鮮血を帯び、ぼたぼたと垂らしつつも、ぎらぎらと月明かりを反射して輝いている。凶左の手が一閃し、苦無がその影へうなりを上げて飛んだが、影のつい、と上げた手に握られたナタの一閃でそれは弾かれた。

「みんな、散れ!」

 凶左の声に皆が散ろうとするが、すぐに他の糸に絡め捕られ、斬り倒されて行く。パニックに陥った海賊達の放つ数多の矢を危なげなくかわし、黒髪を振り乱してナタを振るい、その下にばたばたと倒れて行く男達。

「やれやれ、盾にもならぬか」

 そう呟いた凶左と、そして鈴蘭は自分達目掛けて突っ込んで来た黒い影のナタの一閃を鼻先で避け、過ぎ去った方へ顔を向けた。

 すれ違い様にすぱ、という音がしたが何の音だろう。ひょう、と風を切って飛んで来た幾条もの糸を跳躍してこれまたかわしながら、黒い影へ凶左が矢継ぎ早に苦無を叩き込むが、後ろ殴りのナタがそれを弾き飛ばす。

……が、その腕が不意にぼとりと落ちた。

「な……っ!?」

 初めてその時声を上げた影は、自分の肘から先がなくなった右腕を押さえた。

「……『忍法にんぽう 三日月みかづき』」

 そう呟いたのは鈴蘭であった。

「すれ違い様に切り刻まれたのに気付かぬ様では所詮未熟者。くたばれ、ナタ猿」

 そう言い終わると同時に、その片腕を失った影はばらばらと崩れ、転げて散らばった。

椿丸つばきまる殿!」

 闇の奥から、鈴蘭とは別の女の声がした。


 この鈴蘭という女は直接触れても触れなくても、その指でなぞった所を切り裂く事が出来た。それがこのくノ一の体得した『忍法にんぽう 三日月みかづき』である。


 船体の横側に当たる方、その女の声のした方向へ凶左と鈴蘭は音もなく走り寄った。闇の中から飛んで来た糸束を二人は右に、左に避けながら、速度を緩める事無く近付いて行く。

 不意に自分の横から飛んで来た苦無を、凶左は前に、鈴蘭は後ろに飛んで避けた。着地した凶左がその方向を見ると、漆黒の中に爛々と輝く金色の瞳が浮かんでいる。

 しまった、と思ったが、もう遅かった。彼の身体はその瞬間に金縛りにかけられたのである。

 異常を感じた鈴蘭が駆け寄ろうとしたが、うなりを上げて回転しながら飛んで来た椿丸の腕付きのナタが凶左のこめかみに食い込む方が先であった。

「くっ……」

 鈴蘭はあっけにとられかけながらも己の唇噛み締めて気力を奮い起こし、やむを得ず、夜の海へ飛び込んだ。後を追おうとした影の目の前で、彼女の身体は波涛に飲まれ、消えた。



 翌朝、別の場所で。

「……やっとむくろの匂いがしなくなったな」

 とぼとぼと歩きながら、その男は後ろにいる三つの人影に言った。

 肘の上まで布を巻いた、その内の片手で右肩の後ろに下げた野太刀の鞘にくくられた紐を握り、もう片手は袂に入れたまま、左の腰帯には片手剣を一本ぶち込んでいる。

 しかし、その着ている着物の柄がはなはだ悪趣味であった。交差した赤い格子戸の線が全体に走り、その前面では逆さ磔の花魁が髪を振り乱して正面を見据えているのである。色素の抜けたクリーム色の髪、色白の二枚目ながらも何処か妖気を漂わせた

 その男は、幸せそうに澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。

「ホントだよ、あーあ、臭かったー」

 布切れをねじって前髪の上を通して鉢巻きの様に縛り、四方八方に突き出たとげの様に髪の束を散らせている紺色の着物の人影が言った。年の頃は十五になるかならないか。少年の様にも少女の様にも見える。

「さすがに甲冑や兜を引き剥がすのは苦労したな。からす共が鬱陶しくてかなわなんだ。

 高値で売れたから良いが」

 これは漆黒の忍び装束に紫色の袖なしの羽織りをまとった男の声だ。

 次に長い髪を後ろで縛り、布で海賊縛りに髪をまとめた娘が呟いた。

名留羅なるらさん、屍肉を川の水で落とすの上手くならないわよね。触ると何かぬめり気が残ってるわよ、何時も。真面目にやんなさいよ」

「すいません。

と言いますか、雨代あまよちゃんよ、そういう指摘をされない暮らしに俺は今、憧れているよ……」

 名留羅と呼ばれた、最初に口を開いた男はぼそりと言った。

雨代と呼ばれた海賊縛りの娘はんもう、と不機嫌そうな表情を浮かべた。

「腹が空くと兄ちゃんはすぐそういう事を言うよな」

 頭の後ろで手を組んで、先ほどの紺色の着物の人影が言った。

沙衛門さえもん様、千手丸せんじゅまる、ああいう人になっちゃ駄目ですよ?」

 多少意地悪そうににんまりと雨代が微笑を浮かべながら言うと、

「はあーい」

 千手丸と呼ばれた若い方と、沙衛門と呼ばれた忍び装束の男が力の抜けた声で答えた。



 彼らは言うなれば『何でも屋』だ。織田信長が各地を荒らし、支配し、彼の亡き後を継いだ豊臣秀吉が屍山血河を築いているこの時代を生き延びるには、

『戦争に絡んだ方が上手く渡って行ける』

と言い出し、実践していた元・夜盗の頭領にして凄腕の剣士である名留羅に、従者のるいを旅の途中で死なせてしまった抜け忍の甲賀忍者、鬼岳きがく沙衛門さえもんと、彼に仕えるべく甲賀の里から飛び出して来た娘、雨代、そして伊賀攻めの際にたまたま沙衛門が助けた、両性具有の伊賀者である、るいに瓜二つの十手千手丸が加わったのだ。

 共に帰る場所のない者同士、各地で仕事にありつきながら、その身に秘密を抱えた千手丸をかばいつつ、旅を続けているのである。助けてもらってから八年以上が経ち、千手丸は十五歳になっていた。



 再び名留羅が口を開いた。

「はいはい、すみませんね。

……ま、いいや。とりあえず今ある路銀で堺までは持つだろ? でも、そこにつく途中の宿場で何か仕事を見つけないと、何かあった時に一寸懐が寂しくならないかな?」

「そうだな。しかしな、名留羅。

 お前が酒代と茶店のだんご代を控える様にすればもう少し持つのだぞ?」

 沙衛門はそう言うと、首を左右に傾けてこきこきと鳴らした。

「そんなに飲んでねえよ。こっちだって

『手が震える様になっちゃ不覚だからほどほどにしなきゃいけないな』

と思っているんだからさ、一寸は察して欲しいね」

 そう言って名留羅は、頬を膨らませてぶすくれた。

「そうだねー。この前はお銚子二本で我慢したもんねー、兄ちゃん」

 千手丸がそう呟いて彼の腕に自分の腕を絡み付かせる。初めて彼を知る人は妙なものを感じるかもしれないが、完全な男にも女にもなれる千手丸は、精神的な男女の境が非常に曖昧なのだ。

 だから女も抱くし、男にも抱かれる。どちらにも好意を抱き、ひっつくのである。まあ人懐っこいのが過剰気味と言うか愛情が溢れて吹きこぼれていると思って頂ければいいのではないだろうか。


「千手丸は優しいなあ。そうだよなあ、我慢したもんなあ」

 そう言うと名留羅は、近頃背が伸びて来た千手丸の肩を抱き、その頬に頬ずりした。

「千手丸、あなたはどっちの味方なのよう」

 空腹のはずなのに、人にまとわりつくと途端に元気になる千手丸を見て、雨代が今度は更にぶすくれた。

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