新しい家

新しい家・1


 乗り合い馬車に吐き出されるようにして、エリザは一の村に戻ってきた。

 馬車が走り去る時、たくさんの砂埃を舞い上げ、エリザはごぼごぼと咳き込んだ。ラウルに見送られてこの村を出てから、ほんの二週間ほどしか経っていない晴れた日のことである。

 乗り合い馬車は川沿いの村はずれで止まった。もう少し、街中でおろしてくれればいいものを、と思うのだが仕方がない。リリィたちが使う小型のものではなく、多くの人が乗り込む大きい馬車なので、街中の細い路地には入れない。

 あっちにより、こっちにより……の乗り合い馬車の旅は、三日間も続いた。

 その間、エリザは人と会うのを避けるために、馬車の中で寝起きさせてもらった。しかも、この季節、霊山に向かう人の数もあり、常に満員に近い状態だった。人に圧されながら、子供を隠すようにして乳をやるのも一苦労だった。

 その馬車から解放されただけでもありがたかった。

 背中に背負った子供と、両手いっぱいの荷物。山下りの時よりも、明らかに荷物は多かった。

 それもそのはず。もはや、山下りする巫女ではないエリザには、霊山のつけはきかない。引っ越し荷物持参なのだ。

 小さな鍋と椀。服。筆や本。路銀と生活費。最低限度の荷物にしたはずなのだが、かなりの重さである。ふうふう言いながら、エリザは歩いた。


 川向こうにキラキラと光を浴びて輝く街並み。一の村は美しい村だ。

 ムテで一番大きな村であり、中央に広場と噴水を持った白い陶製の村である。華美な印象はないが、透き通るようである。

「まさに、霊山の村よね。素朴な中にも荘厳な感じがするわ」

 エリザは呟いた。

 そして、この村は最高神官サリサ・メルの出身地でもある。気が引き締まる思いである。

「ちょっと……顔くらい洗おうかしら?」

 エリザは、汗を拭き拭き、川原へと降りていった。


 疲れた足を水に浸すと、凍りそうなくらいに冷たかった。

「ひやっ! 気持ちいい!」

 縮こまりながらも、叫んでいた。生き返るようだった。

 タオルに水を浸して、ジュエルの顔も拭いてあげる。気がつかないうちに汚れていたらしく、真っ黒だった。

 この水は、霊山の雪解け水を運んでいる。

 そういえば……。

 マサ・メルの葬儀に参列するため、ここを訪ねた時。

 帰りがけに樽いっぱいに水を汲んでいこうと言ったのは、母だった。父が運ぶのを見て、まだ子供だったエリザは自分も運ぶと言って、水瓶を持ち出して川原に降りた。

「でも……あまり役に立っていなかったのよね」

 エリザは苦笑した。

 あの時は、あまりにも回りの雰囲気が暗かったので、少しでも誰かの力になりたいと思ったのだ。でも、小さな少女には何の力もなかった。

「水はほんの少ししか汲めなかったし、時間がかかりすぎて置いていかれそうになって……」

 どうして、水汲みにあんなに時間がかかったのかしら?

 エリザは、ふと思い出した。たしか、小さな男の子が足をけがして泣いていて、蜂蜜飴をあげて遅れたのだった。

「あの子……。あの後、大丈夫だったのかしら?」

 涙とホコリでぐしょぐしょになった顔を思い出すと、どうも気になってしまう。一の村の子だとしたら、どこかでばったりと出会うかもしれない。

 でも、きっとわからないだろう。

 あれからかなりの年月が過ぎた。エリザも大人になったし、あの子ももうかなり大きくなっているはず。

 今のエリザは、痩せっぽちの少女ではない。乳飲み子を抱えた母であり、癒しの巫女である。

 けがをして泣いている子に蜂蜜飴しか与えられない少女ではないのだ。

「この村の人たちのために、力の限り働くわ」

 エリザは立ち上がった。そして、一の村の中心部へと向かった。


 この街を歩いたことはあまりない。ただ、巫女姫の行進の時に回ったので、何となく記憶にある。

 エリザは、噴水近くの一軒の小さな家に目をやった。

 すると、ちょうど扉が開いて、子供を抱いた女が出てきた。その後ろから、やはり小さな男の子が現れ、女の後に続いた。

 思い出した……。

 行進の時、エリザはこの女と目が合った。その時、一瞬自分の目線と重なってしまい、涙してしまったのだ。

 女をよく見ると、自分とは似ても似つかぬ顔立ちだった。

 なぜ、自分と彼女を重ねてしまったのか、いまだによくわからない。いや、わかっていたのかもしれないが、忘れてしまって思い出せないのだ。

 ただ、泣いてしまったことだけが思い出されて……やはり、なぜか涙が出てきてしまった。

 この五年の間に、彼女はもう一人子供を産んだらしい。きっと幸せなんだろうと思うと、なぜか切なくなった。


 気を取り直して噴水の近くに腰を下ろし、エリザは霊山から届いた地図を広げた。

 まず、この村の村長でもある神官クール・ベヌに挨拶に行き、指示をあおがなくてはならない。少しだけ憂鬱になった。

 クール・ベヌは裏表がある人物だと、エリザは感じている。

 もっとも、彼をよく知っているわけではない。だが、だからこそ、初めて会った時の印象が強烈に影響するものだ。

 彼は、巫女姫の行進で、村の神官として輿を降りる時にエリザの手を取る役割を担っていた。その時の腰の低い態度と、マリを抱いて戻ってきた時の手を返したような態度の差に、エリザは良い印象を持てないでいる。

 ラウルともう一人の付き添ってくれた若者の顔をおぼえていたのは、クールのあまりの態度に、ひそかに傷ついたせいもあった。彼らの付き添いは、くじけそうなエリザを、確かに助けたのだった。

 エリザはゆっくりと立ち上がった。クール・ベヌの家は、祈り所のすぐ前にある。もう一息だ。

 緊張すると、あまり話ができなくなるエリザである。えんや、と荷物を持ちながらも、ブツブツ台詞を考えて唱えていた。

「まだまだ至らない者ではありますが、よろしくお願いします」

 何度も何度も練習した。

 この台詞が、全く役に立たないとは、この時点で思いもよらなかった。


 地図など必要なかった。

 目的の家は、白い陶製の建物の中でも極めて美しく、しかもかすかに模様をあしらった壁。いかにも偉い人が住んでいます……という家だった。

 他の家と同じ平屋ではあるが、やや高さがあり、目立っている。しかも、玄関までにも階段があり、呼び鈴さえついていた。

 チリン、チリン、という音が、やや耳障りだった。

 やや鷲鼻の、痩せた背の高い男があらわれた。衣装が絹の長衣であり、いかにも神官らしい雰囲気があった。

 だが、クールは、エリザを見たとたん、あからさまに嫌な顔をした。

「エリザ様? あなた……ですか?」

 家の玄関口で、いきなりこうだった。

「あ、あの……」

 歯切れの悪いエリザの挨拶を聞こうともせず、クールは大きなため息をついた。

「あぁ、本当にひどい話です。優秀な人材を三人も奪っておきながら、代わりに送ってきたのが、経験浅い癒しの巫女。しかも、たった一人なんて……」

「あ、あの、ごめんなさい」

 エリザは小さくなってしまった。

 荷物の重さがますますのしかかり、この村でやっていけるのか、どんどん不安になってきてしまった。

 癒しと薬草の知識には自信がある。だが、経験はほとんどない。しかも、気が小さいエリザは、どうしても胸を張ってよろしくとは言えなかった。

 が……。

「サリサ・メル様は、この村出身だというのに、本当に容赦のない方ですよ、全く。こんな役立たずの至らない癒しの巫女を送って、それでお茶を濁すつもりですから」

 その言葉に、カチンと来てしまった。

 自分のことを言われるのは仕方がない。でも、最高神官まで悪く言うのは、全く失礼なことである。

「お言葉ですが、私、役立たずではありません」

 自分でも信じられない言葉が、エリザの口から飛び出していた。

 クールは、思わず目を見開いた。たかが小娘と思っていたので、まさか、言葉を返されるとは思っていなかったのだろう。

「霊山では、薬草の知識も充分に得ましたし、癒しの業も身につけました。経験が浅いと言われれば確かにそうですが、それも積み重ねれば増えていくものです」

 びっくり仰天。

 いきなり自分を売り込んでいる。止まらない口に驚きながらも、エリザはまくしたてていた。

「私が病の子を癒したことは、あなたもよくご存知でしょう? 最高神官サリサ・メル様は、私を高く評価し、故郷からこの村のためにわざわざ呼び戻されたのです。お礼を言われることはあっても、侮辱を受けるとは思いませんでしたわ」

「いや、あのその……。侮辱などと。ただ、もっと経験のある人をお願いしていたんですよ。エリザ様だったので、驚いただけです」

 クールは、いきなり態度をころっと変えた。

 エリザも、自分がよもや『至らないですが』どころか『高い評価』などと、大きなことを言うとは思っていなかったので、目を白黒させてしまった。

「エリザ様、家にご案内します。お一人には、ちょっと広すぎるかも知れませんが……。何せ、以前はウーレンに送られた家族が住んでいた家ですから」

 そう言うと、クールはもみ手をしながら家を出た。

 エリザは、その後を荷物を抱えながらついて行った。荷物ひとつ持ってくれる気配も何もない。

 どうやら、態度は軟化したものの、好かれていないことは間違いない。

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