《悪戯のサンプリング》④


「水気のあるものを部室に持ち込むな、馬鹿者。今すぐ外でお前の前髪ごと絞ってこい」

「ええ……」


 ――もちろん、普通に手厳しい阿仁田部長である。

 水気は電子機器にとって毒である。濡れタオルも、湿ったぼくの前髪も、部長にとっては気分を害する要素でしかないらしい。

 心配をするわけでもなく、部室に入った瞬間に回れ右を言い渡されてしまった。


「阿仁田部長。被害者……九太郎くん」

「ああ? 今から加害者になりかねん男の事情なぞ知るか」

「水浴びをしてから部室に来るなんて、九太郎先輩は暑いのが苦手な感じですか?」

「夏場のカバじゃないんだから……」


 今日もこけし絶好調な田中さんが、不思議そうにぼくの顔をしげしげと眺めている。

 好き好んで濡れたわけじゃないんだけど、部長も田中さんも、まるでぼくがわざわざ濡れてからやって来たとでも言いたいのだろうか。そんなはずないのに……。


「やっほー。ってうわ! 坂井くんが濡れてる!?」


 ぼくらの後から部室にやって来た馬越先輩が、来て早々にぼくの顔を見て仰け反った。


「なんなの……? プール開きにはまだちょっと早いんじゃない……?」

「どうして皆さんは、ぼくがあえて濡れてきたみたいな前提を持つんですかね」

「大丈夫……滴るから。いい人は、水が」

「フォローありがとう……嬉しいよ」


 若干言葉がおかしいような気もしたけど、もういいや。

 ぼくの事情に興味がない部長は、さっさと今日の活動を始めようとした。


「あ、そうだ。伊之、今日は咲宮さん来れないってさ」

「何だ。またサボりか、あの女は」

「生徒会の方が忙しいんじゃない? さっきすれ違いざまに言われただけだし」


 あたしも詳細は知らない、とのことであった。

 咲宮会長は正式にアニ研へと入部したが、基本は生徒会ファースト……とのことで、活動に参加しない日がある。

 それに部長は苦言を呈していたが、さすがにそこは咲宮会長も譲らないらしい。

 同じ理由でぼくが活動に顔を出さなかったら、部長から鬼のようなメッセージが飛んできそうだけど。


「っていうか……坂井くんに何があったのか、ちょっとは触れてあげたら?」

「岩根にそのタオルで水でも掛けられたんじゃないのか」

「タオル……落とし物なので」

「坂井!」

「落とし物というか、この濡れタオルがいきなりぼくの顔面にぶつかってきたので、岩根さんは関係ないです。言っときますけど、好きで濡れたわけじゃないですよ、ほんとに」

「そうか。じゃあ次からは乾いた状態で入室しろ」


 すごく……すごく面倒臭そうだ、部長が。まあ、元々この人はアニメ関連以外の事象に情熱が希薄なので、分かってはいたことだったけど。

 ぼくは多少乾きつつある謎のタオルを、部室の机の上に置く。嫌そうな顔を部長がしたが、これはわざとである。


「むむむ……いじめはダメですよ! 部長先輩、これは由々しき事態だと田中は意見具申します! 九太郎先輩の今後の生活に、大いなる影響が出てしまうのでは!」

「と、元祖いじめられっ子の市松人形が意見しているが――実際どうなんだ」

「あんた、もうちょっと言葉を選びなさいよ……」


 しかし、田中さんはどこか誇らしげであった。元祖、という言葉に誇りを見出したのかもしれない。それはそれでどうなんだろう……。


「いじめっていうか、何なんでしょうかね。イタズラみたいな……?」

「それがエスカレートして、いじめに発展するんですよ! イタズラもいじめも一緒ですっ!」

「言葉の重みが違うな。最近、誰かから恨みでも買ったのかお前は」

「九太郎くんは……不買、なので」

「坂井」

「ぼくは恨みを買うわけない、って言ってくれてるんじゃないかと……」


 こくりと岩根さんが頷く。「じゃあ問題ないな」と、部長がぶっきらぼうに話題を切った。

 このタオルについては、帰り際に職員室の落とし物届にでも出しておけ、とのことである。


 結局、この日は特にぼくの受けたイタズラに対して、誰も深くは考えなかった。

 ぼく自身、自分の前髪がすっかり乾いた頃には、あれは何かの間違いだったんじゃないか、とさえ思った。田中さんだけが、どこか心配そうにしていたけれど――恨みを買った覚えという部分については、ぼくも本当に覚えがない。

 なので、これは嫌な偶然だったんだ、という処理をした。


 結論から言うと、それは大きな間違いだったんだけど。

 むしろ、事態はぼくらが思っているよりも遥かに――規模を大きくしていたのである。


 たった二名の犯人とぼくが出会ったのは、ここから数日後のことだ。


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