第3話獅子の尾を踏む者
翌日、保育園で午前中に事務の仕事を打ち切った俺は、エプロンを掛けて自分の教室に向かった。
教室の前まで来ると、廊下に、美由紀と、一人の男の子がいた。男の子の名前は前島一輝といって、年少ぐみの子だ。一輝は涙を流し、しくしく泣いていて、美由紀はそれをなんとかなだめようとしている。察するに、喧嘩か何かが原因だと思うが、俺は二人のもとに歩み寄り、事情を訊いてみることにした。
「美由紀ちゃん、どうしたんだ」
声をかけると、美由紀だけがこちらに目をやった。彼女は一輝と目線を合わせるため屈んでいるので、俺を見上げる格好になる。
「佐伯先生……」
美由紀は、すっかり弱った様子で、誰かに救いを求める目をしていた。
俺は頷き、彼女に換わって一輝の前に屈みこむと、いつもの口調で切り出した。
「一輝、どうした。喧嘩でもしたか?」
言うと、一輝は首を横に振った。さっきは気づかなかったが、一輝は膝を抱えていて、そこから少量の血が滲んでいる。考えていると、美由紀が後ろから言ってきた。
「一輝君、さっき転んで怪我しちゃったんですよ。いちおう消毒はしたんですけど、まだ痛いらしくて……」
「転んだだけ、か」
俺は内心拍子抜けした。が、ただ転んだだけといっても、彼のような幼児にとっては、大人には分からないほどの恐怖を受けたのかもしれない。俺は優しく彼の頭に手を乗せ、目を合せて言った。
「まだ痛いか?」
「……………」
頷く。
「そうか、痛いか」俺は呼吸を一つ置いて、続ける。「じゃあお母さんに電話して、来てもらうか?」
その言葉に美由紀がギョッとした表情で反応する。何か言おうとする彼女を、俺は目で制した。すると、一輝がぼそりと呟く。
「……いいよ……」
「ん?」
「電話しなくて……いい」
「怒られると思ってるのか?」
「……違う」
「じゃあ、どうして」
「………」
一輝は口をつぐんだ。言葉が思いつかないのだろう。俺は少し真剣な顔をして続けた。
「自分でも分からないんだな……なら俺が教えてやろう。一輝は、お母さんに心配をかけたくないから、お母さんに来て欲しくないんだよな?」
「………」
無言の肯定。俺は頷くと、それから自分の思いつく限り優しい笑顔で、一輝に告げた。
「その気持ち、俺にも分かるよ。俺も子供の頃、怪我をしたときよく泣いていたけど、お母さんには絶対に言わなかった。理由は、今の一輝と同じさ」
「え……」
一輝は、驚いた顔をして俺を見た。なぜか美由紀も意外そうな顔をしているが、気にしないことにした。俺は一輝の涙を手でぬぐい、最後の言葉をこうつづった。
「一輝、泣くのは悪いことじゃない。けど、そうやってずっと泣きっぱなしじゃ、お母さんもきっと心配する。だからお母さんの前では、いつも笑顔でいてやるんだよ、それが男だ。分かったか?」
「………分かった」
一輝は頷いた。その顔には、もはや涙はない。
「だったら、教室に戻って待ってな。俺も後で行くから」
俺が言うと、一輝は表情を明るくして、元気良く教室に入っていった。俺はそれを見送ると、キャメルに火をつけて立ち上がり、ググッと腰を伸ばした。
「一輝君、元気になりましたね。佐伯先生、ありがとうございました」
美由紀が俺の隣に立ち、目を輝かせて言う。
「まあ、子供は素直だからね。小さい子に、ただ泣き止め――って言ってもダメなのさ。ちゃんと向き合って話をして、それから泣き止むのを手助けしてやる。俺たちのする事は、それだけでいいんだ」
「さすがベテランですね。見直しました」
「”見直す”ってところが気になるが……ま、いいや、それより美由紀ちゃん、そろそろ交代だろ、あがっていいよ」
「はぁい。あ、佐伯先生――」
教室に入ろうとする俺を、彼女は呼び止めた。
「何?」
「今日土曜日なんで、学校休みなんですよ。で、今晩よかったら飲みに行きませんか? アテはないけど」
俺は少し考えたが、「そうだな……いいよ、つきあおう。店は俺の行きつけのところでいいね?」と承諾した。
「じゃあ終わったらメールくださいね。それと……」
美由紀は踵を返し、こちらに振り向く格好で言ってくる。
「教室では、煙草は消してください」
午後の保育が終わり、俺は美由紀に連絡をいれ、ポルシェで彼女のマンションに向かい、美由紀を拾って、行きつけの渋谷のバーにやってきた。ここは昼間は軽食喫茶の店をしているので、マスターに頼めばディナーも出してくれる。
「へぇ、なんだか落ち着いた感じの、いい店じゃないですか」
美由紀は、カウンターの俺の隣の椅子に腰を下ろし、店内を見渡して言った。店の中では、サラリーマン風の連中や、若者のカップル達が、ジャズのBGMを聴きながら、しんみりとグラスを傾けている。
俺達はステーキの乗った鉄板を前に、ワインのグラスを合せて乾杯した。
食事が進むにつれ、美由紀は保育園での悩み事や、学校での出来事を、まるで溜まっていたものを吐き出すように話し出した。俺は終始受身につとめ、彼女の言葉に、ただウンウンと頷くばかりだった。そして、店に入って一時間ほど経ったとき、いままで奥のテーブルで静かに飲んでいたサラリーマン集団が、いきなりやんややんやと騒ぎ出し、その中の一人のグレイのスーツを着た六十前後の男が、何を思ったのかこちらにふらふらとやってきて、馴れ馴れしく美由紀の肩に手を触れてきた。
「ねぇオネエちゃん、こっち来てオジサン達と飲もうよ」
目をみると、明らかにシラフでないことが分かる。
「……結構です、私はこっちで飲みますから」
美由紀はやんわりと断った。だが、しつこいオヤジは、なおも引き下がらない。
「いいじゃない、ね、お小遣いあげるからさ」
「………」
美由紀は、俺に助けを求める視線を投げかけた。これを無視しては男がすたる。
「オトウさん、許してやってくれませんかね。この娘、俺のコレなんです」
言って、小指を立てる。美由紀が顔を真っ赤にして、首を左右にぶんぶん振るが、それは気にしない。
オヤジは不機嫌な顔をこちらに向けて言ってきた。
「なんだぁ? 若造はすっこんでな! 俺に逆らうとイイことはないぞ、なあ、田中君」
オヤジが仲間の方の呼びかけると、『田中』と呼ばれた男が、肩を回しながらやってきた。身長は百八十ちょっとあり、肉のつき方も良い。
「ボディー・ガードのお出ましか。まるでヤクザだな」
「なにぃ!?」
俺の言葉に激昂したオヤジが大声を出す。客がこちらに注目し、マスターの男が弱ったようにオロオロしている。
「佐伯先生……」
美由紀も怯えた顔をしている。
「田中君、この男……君と遊びたいみたいだぞ?」
「そのようですね」
オヤジの言葉に、田中が答えて指を鳴らす。
「おい、ニイちゃん、立ちな」
田中が俺に言う。立てと言われて立たぬ訳にはいかない。俺は美由紀にウィンクをすると、「やれやれ」と呟いて田中の前に立ち上がった。途端に、彼の表情が驚きの色に変わる。無理もない、俺の身長は百九十近くもあるので、自分の身長に自信を持っていた彼のショックは相当なものだろう。
「ケッ、デカイだけが取得だろうが!」
田中は吐き捨てると、腕を振り上げて殴りかかろうとした。周りから悲鳴があがる。が、俺は軽い身のこなしでその第一打をかわすと、すぐさま田中の顎に向かって張り手を放った。張り手は見事に田中の顎を射抜き、田中はその衝撃で二メートルほど吹っ飛び、床に倒れこんで動かなくなった。
「ふん、デカイだけが取得なのはどっちだ」
俺は言い捨てて、唖然としているオヤジを睨んだ。オヤジは俺の視線に「ヒィ!」と、情けない声をあげて後ずさった。
「チ……しらけたな」辺りを見回し、俺はマスターに「御代だ」と言うと、二万円をカウンターに乗せ、放心状態の美由紀に声をかける。
「さ、美由紀ちゃん、場所を変えて飲みなおそう」
「……え? あ、はい」
美由紀はやっと焦点のあった目で俺を見て、そそくさと支度をして立ち上がった。
「今夜のことは、保育園の皆には内緒だぜ?」
扉に向かいながら、俺が冗談っぽく言うと、美由紀はやっと笑顔を取り戻し「はい」と頷いた。
そして扉のノブに手を掛けた時、俺は誰かの鋭い視線を背中に受けている気配がして、思わず振り返った。だが、誰も俺達に目を向けている者はいない。気のせいか――そう思いなおし、視線を戻そうとした、その刹那――俺の視角の片隅が、その姿を捕らえていた。こちらに背を向けて、端っこのテーブルで一人で飲んでいる、ずんぐりとした体型の、汚いセーターを着た黒人の男。
「佐伯先生、大丈夫ですか? なんだか顔色が悪いですよ」
美由紀が心配そうに声をかけてくる。
「いや、なんでもない。それより、早くいこう」
言って、俺は美由紀の背を押すようにして店を出た。
それから俺と美由紀は二件目の店で適当に飲んでから、俺は彼女を自宅に送り届け、そこから自分のマンションに直行した。
バス・ルームで、熱いシャワーを浴びながら、俺は一件目のバーで見かけた黒人の男を思い出した。
――見られていたのか。だとしたら最悪だ。
間違いない。奴は……
ダンプだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます