第8話「悟る仲冬」


「苗字」

澪がリハビリの続行が不可能になった。

覚悟していた事ではあるが、ちょっとキツい。

ただ院内学級は未だ健在だ。学校に通うようになった時に貯金がないとついていけない!と毎回長時間かけて行われる澪の数学はとても分かりやすく、かなり成績は悪くない程度になっている。

…澪の授業は明らかに高3の…というか数IIIの範囲だ。

聞けば、喧嘩した数ヶ月はずっと自分の勉強を憂さ晴らしのように解きまくっていた副産物らしい。…早すぎないかとちょっと引くと叱られた。

その澪のおかげでかなり分かるようにはなったためかなり楽だとはいえ、やはりキツい。…まだ高2にもなってないのに……

化学や生物も先生からかなり厳しめに求められている。歴史…世界史は文学から学ぶことも多かった上、文学史は多くは読んだものだったため、猫背の医師に深く感謝する。同様に猫背の医師に貰った英文学のおかげで、英語は澪より上をいっていた(最も、澪はかなり悔しがっていたが)。

(やっぱ澪は賢いや)

そう思いつつ、復習ノートを閉じる。


コンコン

「はい、…あ、入っていいですよ」

(病室にわざわざノックしてくるなんて誰だろう…)

ガチャリ

「玲君、お久しぶり」

来客は予想外すぎる人だった。少年は驚く。

「え!?…み、澪のお母さん!?」

「ふふふ」

この人は本当に神出鬼没だ…


「え…な、何の用です?」

「…かなり重要な話よ」

改まった感じでお母さんは椅子へ腰掛ける。本当に重要な話みたいだ…

「ここでいいんです?」

「仕方ないですが、ね。…ガチガチになって話をするのもなんですし、どうぞ」

魔法瓶とお茶菓子をくれる。ありがたい…

魔法瓶のお茶を備え付けのコップに移す。何故か緊張して溢しそうになった。

「…で、何です」

「いえね?…


…私達、あなたを息子に迎えたいの」


(息子…?)

突如飛び出した突拍子もない話に、少年はある疑念を抱く。

「…澪の代わりなら断りますよ」

澪の代わりなんて、何よりも澪に対して侮辱的すぎる。しかし、

「いえ…。あの子の代わりなんて居ませんよ、分かっています」

「…では、尚更何故ですか?」

警戒心を顕にする少年に、七瀬狭花として本心を口に出す。

「1つは、私達のエゴ。…私達は、澪が居なくなったら、誰かを育てる事すら出来ないのですよ。それは、あまりに寂しすぎます」

確かにそれはエゴだろう。しかし、

「…まだあるんですね」

「ええ。…二つ目は、あなたに…親を持ってもらいたいの」

(俺に…親?)

…でも、言いたいことは分かった。

猫背の医師だ。

「先生が父親だと駄目、と?」

「…その先生が悩んだ結果なのよ」

「先生本人が…ですか?」

「それについては後で本人から聞いてあげてほしいの」

「…分かりました」

先生は確かに親というより、まさに先生として慕っている。何か考えがあるなら、聞くべきだろう。

「3つ目は、願望よ。

…あなたが、澪と同じ苗字になってほしいの」

意味が、わからなかった。

「…同じ…苗字…??」

「ええ。ウェディングをしたからね…」

「苗字ってそれ、え、つまり…」

「そうよ。

あと、忘れちゃいけない事が1つ。私達は…あなたの成長を見てみたくなった。これで全部かしらね」


少し、目が眩む。

俺が、七瀬家に…

考えを巡らせてみる。

澪のいない世界の話は、本当に心が痛くなる。…でも、だからといって歩みを止めるのは澪自身が一番怒るだろう。……独り考えるのはつらい。やっぱり澪に相談しよう。

「先生と、澪に話をして…それから決めます。…申し出、ありがとうございます」

「…こちらこそ。こんな急に言い出した事にちゃんと対応してくれて、ね」

感謝の言葉と共にドアが閉まる。

(…まずは先生か)


「あ、お話聞いてますよ。いつでもどうぞ」

受付の看護師は親切にも猫背の医者の場所を教えてくれた。

きぃ。きぃ。

車椅子が暗い音色を奏でながら、先生が休み時間使う部屋へと向かう。

「先生ー」

「九十九君か。空いているよ、入りなさい」

「お邪魔します」

「……話は、聞いたようだね」

「はい。…どうしてですか?」

「私はね…家庭が厳粛だったのもあるんだが、君に父親らしく出来なかったと思ったんだよ」

…言葉に詰まる。先生は親という感じではない、とさっき思ったのは自分ではないか。

(ど、どう言えばいいんだよ…)

「ふっ…その困った顔で分かるよ」

澪にも言われたが、そんなに顔に出てるのか…?

「いいんだ…私が君を引き取った時は、人の生命を守る事で頭が一杯だったんだ。…人が死んでいないのと生きている事の違いを」

無菌室に入れられ、何もやることが無く生き長らえていた時期を思い出す。死んでいないのがああいう事なら…

「大丈夫です先生、俺は今ちゃんと生きてますって!」

「……そうか。なら、私はもう必要あるまい」

「えっ…それは…」

「君には、親が必要だ。そしてそれは、10年以上も君がいながら全く親として振る舞えなかった私に果たせるような役目ではないんだ…!

分かるか九十九君…辛いんだ…」

命を守る事に躍起になりすぎた医師は、今更になって自分の行為の意味を知り、傷ついていた…

しかし、

「でも、先生に救って貰ったんですよ?それでいいんじゃないですか?」


「…ふっ…君は単純でいいなぁ…

まぁ、私は彼らに親になって貰う事をすすめるよ」

「…そうですか。…澪の所にも言って、それから決めます…ありがとうございました」

「じっくり考えなさい」

扉は静かに閉まる。

「…泣かせるなぁ…救って貰った、かぁ…

…救われたのはどっちだか…」



「澪、今いいか」

「どうぞー…って、真面目な顔だけどどうかしたの…?」

顔が曇る澪。病状か何かと思われたらしい。

「いや、病状じゃないよ」

「よかっったぁ……君が笑ってないと不安になるんだから、ほら、笑ってよ」

「いや、ちょっと相談があるんだよ」

「ん…?何?」

「俺、七瀬家に養子に誘われてるんだ」

「…なるほどね」

「…ん?」

「母さんが言ってたの。苗字が同じになるって憧れかどうか」

「あの人は…」

「玲君は…なんて答えたと思う?」

「その笑みで分かるよ。…いいんでしょ?」


「もっちろん!君と同じ苗字なんて最高だよ!」

本当は君の苗字が欲しかったけどね、と笑う。


ああ。そんなにぼろぼろなのに、そんなに満面の笑みで見られたら。

「分かった。…お母さんに承諾の意思を伝えておいてほしい」

「おっけ!…へへ…苗字同じかぁ…婿養子だね」

「まぁ、法律上は兄弟姉妹の扱いだけどね」

「夢がないよ玲君!」

「はいはい」


その後、澪の(というにももう自分の、になるけど)お母さんやお父さんと話をした。

お父さんは前の一件で信頼されているようで、照れながら書類を仕上げていた。


先生は、困ったような笑みで送り出してくれた。



…澪は、1つだけ付け加えた。

「忘れないでね。君は君、私は私。七瀬玲になっても、君は私にはなれないからね?…君には過去ばかり見てほしくないの」

「…肝に銘じておくよ」


…そうして俺は、七瀬玲になった。







「独白」


澪が、倒れた。


宣告された余命はすでに来ているんだ、倒れもする。…まだ、澪の命が止まる時ではないようだ…

でも…それは近いのは、確か。

リハビリ前と、院内学級…自身の要望で大幅に授業を増やした…前に、澪の部屋に顔を出す。調子がいい時は、少し話もする。

病院の心拍計の音だけが響くその部屋は、俺にはキツすぎる。

日に日に衰弱していく澪。それでも、どれだけ衰弱していても…俺が来たら目を細め、笑うんだ。ズルいよ本当に…

…澪からは貰ってばかりだ。希望。恋。愛。未来。知識。温かさ。…数え切れないものを、貰った。

…ああ、駄目だ。覚悟はしていたつもりだったが、それでもちょっと感傷に浸りそうになっちまう…

それじゃあ、澪は怒るだろう。前を向け。歩みを止めるな。過去ばかり見るな。澪がそう願ったんだから、守らなきゃいけない。

一度病室に行った時、お父さんが涙を堪えていた。澪の前では泣きたくない、って…でも目は真っ赤で。病室の外に連れ出し、話を聞いた。やっぱり、お父さんもつらいみたいだ。

看護師の人たちも、用事がない時はちょくちょく澪を見てくれているらしい。…恥ずかしい話だが、俺達は病院名物みたいな扱いをされていたらしく、澪がいなくなったら俺が心折れるんじゃないかと気を揉んでいるらしい。


誰も彼もが、澪の死に備え始めていた。


心拍計の音が響く病室。少年はこぼす。

「なぁ澪。お前が死ぬなんて、あの夏から聞いてた事だったじゃないか。今更なんだってみんな心配してんだよ…俺達は、知ってて愛し合ったんだ。今更、後悔なんてないよなぁ…!」

一粒の涙が落ち、しかし何も起こらなかった。

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