「オウムの死で日本は救われたか」ニューズウィーク日本版より



ニューズウィーク日本版の3月24日号の特集に「オウムの死で日本は救われたか」というものがあって、とても興味深かった。筆者は作家で映画監督の森達也。森は2018年に麻原をはじめとするオウム関連の死刑囚たちの死刑が執行されたことを起点にして、改めてオウムについてまた麻原の死刑の是非、日本社会の反応について書いていく。

まずは内容を簡単に要約したい。



2018年の7月6日に麻原と6人の死刑が執行された。麻原の遺体を引き取りについて、拘置所は遺族への引き渡しを拒否し、麻原自身が遺体の引き取り手を「四女」と指定したとの報道に対して混乱があったことがこれまで明らかにされている。だが拘置所の対応に対して、麻原の妻と次女、長男、三女(松本麗華)は「当時の麻原の精神状態からして、特定の人を引き取り手に指定することはありえない」と反論する。事態は今も膠着しており麻原の遺体は未だに拘置所内に収容されたままである。

これに対して森は前例のない措置とし、これまで報道されていなかった点として、麻原の死刑執行の4ヶ月前に法務省が死刑囚本人が指定した人に執行後の遺体を引き取らせる、との通達を発していたことに触れる。このタイミングでの通達に、森は「極めて政治的な動きがあったのではないか」と疑義を呈する。

また執行直後に三女である麗華のツイッターには多くの人々から「おめでとう」「よかったね」などのコメントが殺到する。森は「なぜここまで憎悪をむき出しにできるのか」と言葉を失う。こうした反応を森は「集合無意識的な何か」と形容する。これは1995年のいわゆるネット元年以降急増したものであるという。

ここで三女の麗華に触れると、彼女は麻原の三女でありこれまでも度々メディアに登場してきた。2015年には「本当は実名や顔を出したくはなかったが自身が精神的な病気であることを訴えたくて」手記も出版している。

麗華は現在37歳。だが彼女の属性から「麻原の三女」という部分は消えることがない。結婚も出来ず就職もままならず、普通の人生を送りたいのに送れない、と語る麗華を前に、森は「オウム事件真相究明の会」を立ち上げる。理念として、心神喪失状態にあると思われる麻原を治療して裁判のやり直しを行い、オウム事件の真相を究明することを掲げている。

森は2004年に麻原と接見をしている。そこで麻原は精神障害の典型的な障害の一つである常同行動を取っており、それ以外にも失禁や脱糞などが裁判の過程の中で指摘されてきた。これらは詐病の可能性もあるが、結局麻原は裁判の中で自発的な発言をすることもなく、一審で裁判は終わっている。だが麻原は一度も精神鑑定を受けることはなく、死刑が確定した。

麻原は一審途中で不規則発言を繰り返してのちは沈黙し、肝心の動機については曖昧なまま終結してしまった。これについて、森は動機は事件の根幹部分であり、地下鉄サリンをテロというのであるならば政治的目的がその条件であるのではと指摘する。また動機が分からないのであればテロとは断言できないという。

そして「誰もが被害者になり得る」という地下鉄サリン事件の性質上、擬似的な被害者意識が共有され、またメディア報道によって善悪の二極化とセキュリティー意識によって日本社会の集団化が加速したと森はいう。ここで森はこのプロセスが犯罪被害者等基本法の成立など良い変化もあったと指摘する一方で「被害者の聖域化」が進行して、その後の社会問題に多大な影響を与えたことも事実であるという。この点について、森は率直に「言葉にしづらい」と認めている。

こうした加害者と被害者に対する社会の視点がオウム事件によって大きな転回を見たことは明らかである。これに関しては、オウム事件のオピニオンリーダー的な作家やジャーナリストらの影響力も大きい。彼らはオウムから命を狙われた被害者でもあったが、その被害者としての視点が彼らの弁護士や作家、ジャーナリストとしての視点として社会に共有されたことを森は指摘する。

これらを踏まえ、森は改めて麻原は治療をして真相を語らせるべきだと主張する。この主張は大きな反発を受ける。その中にあった意見の一つに「彼らが治療によって麻原が自発的に真実をしゃべると本気で考えているとしたら、オウム真理教やこの男の人間性について、あまりに無知と言わざるを得ない」というものがある。これに対しても、森は前提として人間はそれ自体複雑な生き物であり、他者の内面や人間性についてこれほど強硬に断言できる理由が分からないとする。オウム以外では聡明な議論をする人たちも、オウム関連のことになると「明らかにギアが変わる」ことも指摘する。

だが、森自身も麻原が治療によって回復する可能性も低いことを認める。だが「治らないだろう」「自発的にしゃべるような男ではない」これらはどこまでも予測であり、それらを理由に手続きを省略すべきではない。

なぜオウムは戦後最大の凶悪犯罪を行なったのか?この疑問について、森はアーレントによる「エルサレムのアイヒマン」を例に取り、アイヒマン自身の「命令に従っただけ」との発言を例に「邪悪で狂暴だから悪事をなすのではない。集団の一部になって個の思考や煩悶をやめた時、人は壮大な悪事をなす場合がある」との重要な指摘をする。こうした惨劇は「歴史的教訓の骨格を獲得し、特異性だけでなく後世への普遍性を示すこと」になる。それは現代を生きる私たちのためのものである。

ヒトラーは自殺をしてしまったが、麻原は生きていた。ならば治療をして最後まで語らせるべきであったと改めて森は指摘する。

「聞きたいことはいくらでもあった。徹底して追い詰めるべきだった。言い逃れるなら論破すればいい。答えに窮して立ち尽くす姿をさらすだけでも意味がある」。そしてもう一点、心神喪失の状態にある人は処刑ができない。

だがオウムに関連する麗華に向けられるような誹謗中傷はやむことがない。こうしたオウムによって煽られた危機感や憎悪は過去のものではなく、現在進行形のものである。

またかつての麻原自身も目が見えず、周りの状況を一方的に弟子たちからもたらされるものに頼るしかなく、危機感を煽られ続けた。だがそうした行動を行なった弟子たち自身にも嘘をついているという明確な意識はなかったかもしれない。その根底にあったのは自らが迫害されているという被害者意識と、そこから派生する過剰なセキュリティー意識、麻原への忖度に発する。こうした事件直前のオウムの状況というのは、現代の日本社会にも当てはまるものではないか。

これらを踏まえ、森は「麻原に帰依することの何がどのように危険なのか」と問う。たしかにオウムの犯した未曾有の犯罪というものは事実である。だが日本社会はそこに至るまでのプロセスやメカニズムについて、明確に獲得できていない。森も麻原は最終解脱などあり得ない俗人であると指摘する。であるからこそ、犯罪に至るメカニズムと組織共同体の作用を考察すべきである。

日本社会はオウムによって大きく変化した。その変化のベクトルは、自分たちが社会から攻撃されている被害者の側だと妄想し、社会への攻撃を決意したオウムと重なるものではないか。これはあくまで仮説である。これを実証するための最大のキーパーソンである麻原はもう生きてはいない。



私が森の文章を読んで思うことは、彼の思想の根底部分も結局は彼が批判をしている人たちと同じところにあるということだ。

彼は麻原に批判的な人々について、「どうしてそこまで他者の内面について断言できるのか」と疑問を投げかけるが、その彼はのちに「聞きたいことはいくらでもあった。徹底して追い詰めるべきだった。言い逃れるなら論破すればいい。答えに窮して立ち尽くす姿をさらすだけでも意味がある」と書く。これには非常な違和感を憶える。彼のいう治療によって麻原を「論破」できる、あるいは「答えに窮して立ち尽くす」ようなことが私たちに「できる」と考えるのも麻原の内面への断言である。だが彼はこの矛盾に気がついていない。もっと言うならば、彼は集団無意識の先鋭化した今の日本を批判していながら、その批判する社会に未だ麻原を「徹底的に追い詰めることができる」だけのものが残っていると信じている。これは傲慢なものなのではないか?そして、あまりにも現代社会の抱えている問題について無知であり、無垢であると言わざるを得ない。

もし現代の日本社会が、事件直前のオウムや麻原が置かれていた状態と重なるのであれば、麻原のような人物を追い詰める、あるいは答えに窮して立ち尽くすような「問いかけ」など望むべくもないと私は思わずにはいられない。何かの問題に対して、客観的な認識ができず、事実よりも自らの情緒的・恣意的な情報のみに問題の解釈を頼るような人々の集合体として今の日本社会があると森は暗に書いているが、他ならぬ彼自身もそれを構成している多くの人々と同じような誤謬の中で、批判を展開している。

だから、私は彼の現代の日本社会についての考察は理解できなくはないけれど、その主張については肯定することが今ひとつできない。

これは最近思うことだけれど、批判する者とされる者とを真に分けるのものはイデオロギーや信条の差異というものではなくて、「自分はより多くのものを知っており、そうでない人々を啓蒙しなければならない」という無意識の差別意識ではないか。自らを「知る者」そうでない人々を「知らざる者」とに分ける知的行為こそが最も深刻な問題ではないか。

たしかに森のオウムの無差別的な犯罪性によって被害者意識が社会全体に共有され、オウム関連の誹謗中傷の先鋭化と、メディアやインターネットの発達により社会の集団的無意識の加速の先に現代の日本社会があるとの考察は興味深い。だが、肝心なところで森は大きな誤りを犯していると私は思えてならないのだ。それは彼の「言いづらい」主張にではなく、彼自身のある種の啓蒙的な姿勢にある。

ここまで森を批判してきたが、視点を日本社会に目を向けて見ると以前見た麻原とビートたけしとのバラエティ番組での対談を思い出す。麻原の傾聴的な姿勢についてフォーカスすると、彼は決して馬鹿ではない。むしろ相手の求める答えというものについて非常に鋭敏で、かつそれを自らのフィールドである仏教、あるいはオウム真理教における教義というものに結びつける知的さがある。ビートたけしはすでに大物芸能人として頂点にいたし、どこかで自らの「ビートたけし」的な属性に対しての虚しさのようなものを感じているフシすらあった。だがそうした虚しさを芸能人としての成功も、映画監督としての成功も癒すことはなく、もちろんカネやオンナというものでも癒すことはできなかった。ビートたけしはそれとははっきり言わなかったが、現代のどこかニヒリスティックで社会的成功が必ずしも幸福には繋がらないことを麻原に吐露するのだ。麻原は相手が話しているときは基本的に相槌を打つだけで喋ることはない。彼が次に口を開くときは、必ず相手への肯定で始まる。実際、「たけしさんの仰る通りなのですけれど……」と始めてから自らの主張を展開する。私が麻原を狡猾であると感じるのは、ビートたけしの虚しさに寄り添うような面を強調しながらも、たけし自身の肥大化した芸能人としての虚栄心をくすぐるような言葉も抜け目なく言い添えることも忘れない点だ。

「たけしさんは非常にものをよく考えていらっしゃる」「仏教の中でも最高の教えと重なることを仰っていて、びっくりしたのですけれど」ということを麻原は繰り返し言う。これらは低俗に捉えるならばリップサービス以外の何物でもないのだろうが、麻原はこうしたリップサービスがビートたけしにどのような感触を与えるのか全て分かってやっている。だから、後半になるとビートたけしは「今日は気持ちよくなっちゃったなあ」と吐露するのだ。こうした言語化できない社会に蔓延する虚無や怒り、不満といったものに麻原は異様に聡かったのだろう。だから高学歴なエリートと言われる若者たちがこぞって入信したことも、語弊を恐れずに言えば「無理もない」ことなのではなかったか。ここで深刻なのは、そこに漬け込んだ麻原でもなく、オウム真理教でもなく、こうした虚無や不安になんらの有効な解答を持ち合わせていなかった社会自体にある。

経済的に豊かになりはしたけれど、それに追いつくだけの思想が社会にはなかったのだ。その穴を人々はより物質的なもので充たそうとする。だが豊かさがもはや自明となった社会、あるいはその中で育った青年たちに、物質というものは旧来の世代ほど意味を持たない。むしろ彼らは形なきもの、抽象的なものにこそその答えを求める。そのような社会は麻原のような男にとっては、赤子の手をひねるように簡単なものであっただろう。実際に多くの若者がオウムの門を叩いた。それを「理解できないもの」として「向こう側」からしか報道できなかったマスメディアと社会の側の責は大きい。こうした次元ではオウムの投げかけた問題は明らかにされないだろう。また、麻原自身になんらかの言葉を喋らせたところでそれはゴールを迎えるものでもないと私は思うのだ。だがこれは決して、麻原に語らせることを無意味であると断言するものではない。あくまでそれだけでは「不十分である」と言いたいだけである。

オウム問題について、村上春樹はかつて「アンダーグラウンド」という長大なインタヴューを行ったノンフィクションを出したことがある。そこで当時サリンの撒かれた駅に勤めていた駅員の言葉というものが私は最も真を突いていると思う。


「あんなこと、やりたくもなるでしょ。これだけ金儲けばかり考える社会だと。掃除をしているとね、その上から缶や吸い殻を捨てていく人たちがいる。こんな人たちばかりだと、あんな風になってしまうことも分からなくはない」


大体こんなようなものだったと記憶している。ここで触れているのは、人々の抱える現代特有の無関心についてだ。掃除をしている人の傍らで平気でごみを捨てることのできる人たち。これはありふれた社会の一光景に過ぎない。だがこの駅員はそこにあの不気味なオウムとの関連を見出したのだろう。多くの人がこうした無関心を共有している。

だが、ひとたび何か共有されるものを得ると、こうした無関心は極端な逆回転をして憎悪に近い反応を引き起こす。それが現代のネット社会を迎え、先述した松本麗華のツイッターへのコメントのように憎悪剥き出しの言論へと容易に繋がっていく。もしかすると、当人たちは本気で「悪気なく」行なっているかもしれない。正義感である場合もあるが、正義感ですらなく、ただ「話題になっているから」という理由の野次馬根性だけでコメントを残しているだけかもしれない。これは歴史的な事件ですらも「消費」をしてしまう、あるいは消費可能である現代社会の病根の一つである。



極端な無関心と、過剰な反応というものは一見して対極的なものだが根っこは同じである。これは現代人にとっては誰にでも当てはまるものであろう。善悪は別として、社会の方向性としてそのようにいくようにすでに私たちは方向付けられている。そこで周縁化された一部の人々は孤独を募らせる。すでに経済成長は限界を迎え、かといって社会的に円熟を迎えた、という表現すらも薄ら寒くなってきた日本という国において、私たちが思い描く未来とは、「衰退」の二語に集約されている。現代の先進性を多様性という言葉で表現されることが多いが、「色々なものが社会の表面にあること」は「これでいけば間違いがない」という明確な社会的解答の不在と表裏である。そうであるから、様々な価値観を許容するしかない面もあるのだ。そのことについて、私たちは一人一人どのような解答を持ち得るのだろうか。

かつてオウムが社会に侵食した頃には、物質中心主義への嫌気からオカルトブームが起こり、その波に乗って新興宗教も受け入れられた面もある。

現代はオウム以降の時代である。麻原らの死刑執行を経て、こうした側面はますます強化されていくであろう。だが私たちは未だ有効な解答を持ち得ていない。

なぜ、麻原はあのような凶行に出たのか?森が指摘するように、そこに至るプロセスとメカニズムというものは解明には程遠いところにある。だが、あの時代が決して過去ではないのは、あの時代に共有されていた無意識の集合的意識が今の私たちの中にも存在し続けているからである。

ゆえに、第二の麻原およびオウムというものも見えないところで現代の中に息づいているのである。

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