戦争の顔

「神様が人間を作ったのは人間が銃を撃つためじゃない、愛するためよ。どう思う?」




「あらためて確信したのは私たちの記憶というものが理想的な道具には程遠いということ。それはわがまま勝手なだけでなく、自分の時代に犬のようにつながれている」


これは、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」中の一節だ。

良くも悪くも人は記憶と過去に縛られている。以前天皇陛下退位のニュースの時に、あるコメンテーターがコメントを求められて開口一番に言ったのはこんな言葉だった。


「また昭和の時代が遠くなりますね」


そのコメンテーターは青春も働き盛りもまさに昭和の頃に生きていたのだろう。新しい時代が始まるという時に、過去をまず懐かしむのだ。

個人的にこういう懐古的なコメントはすこぶる詰まらないと興醒めする。好きではない。こんな個人の感想なんかは、せいぜいお茶の間のテレビの前に座っている時にぼんやりと言えばいいのであって、テレビ番組でわざわざ言うほどのことではないと思う。

また別の機会に、バブル全盛期を証券会社やメガバンクの幹部として過ごした人たちの証言があるビジネス誌に載っているのを見た。バブルの当時を知る人は最近では少なくなっている。だからこそ、生き証人たちが生きているうちに当時を語ってもらおうということだったのだが、読んでいて思ったのは「未だにこの人たちはバブルを引きずっている」ということだった。

接待費だけで1000万円以上使っただの、自由で半端ではない金の使い方をしきりに懐かしんで今を嘆いていた。そこに、人間の過去と記憶に対しての固着をまざまざと見た気がしたのだ。



おそらく、あらゆる記憶と過去の中で最も過酷なものは戦争の記憶だろうと思う。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、これまで語られてきた戦争の記憶とは「男たちによってしか」語られていないものだったとする。それは名誉と英雄に彩られた歴史である。だが、第二次世界大戦……もちろんそれ以前の幾多の歴史上の戦争においても多くの女性が戦いに従事してきた。しかし多くの女性たちは長いこと口を噤んだままであった。歴史は女たちの戦争を書き留めないまま進んできた。

アレクシエーヴィチは、こうした女たちの見た戦争に光を当てた。戦争というのは一つの顔をしていない。

看護師であった人にとっては、ひっきりなしに切断されていく手足が戦争の顔であったし、夜戦食堂で働いていた人にとっては誰も食べる人のいなくなってしまった大釜が戦争の顔であったのだ。

兵士、通信士、看護師、掃除婦、工場作業員……女たちは様々な仕事に従事した。まだ10代前半の若い女性たちも自ら志願して前線へと向かった。男も女も戦ったのである。だが、女たちには戦後もう一つの戦争が待っていた。


「軍隊に男を漁りに行っていた」

「軍靴を履いていたなんて、女じゃない」


前線へ行かなかった同じ女性から、そしてかつては共に戦った男性たちでさえ、祖国のために戦った女たちを守ることをしなかった。

戦中に身障者となり、年金を受け取れる証明書を自ら破り従軍した過去を抹消した女性。

もう一つの戦争がそこにはあった。

アレクシエーヴィチは、こうした女たちの戦争をくまなく書き留めた。

戦争の顔とはどんなものなのか?頑なに語られなかった女たちの戦争がそこにはあった。

今回はそれを紹介したい。以下は戦争に従軍した女たちの証言である。



「……これは女の仕事じゃない、憎んで、殺すなんて。自分自身を納得させなければならなかった。言い聞かせなければ……」


「私は殺したくなかった。誰かを殺すために生まれてきたのではありません。私は先生になりたかったんです」


女たちの多くは戦争を予感していたわけではない。結婚を控えたもの、卒業を控え進学に期待を膨らますもの……まだまだ人生が変わらずにそこにあることを信じていた。

そして、戦争が始まっても多くは楽観していた。

「必ず勝てる」「戦争はすぐに終わる」。

だがそうした希望や期待は霧散した。戦争は長く続き、泥沼化していく。


「そりゃ、軍隊で宣誓したわ、『必要ならば命も投げ出す』って。でもどうしても死にたくない。生きて帰っても心はいつまでも痛んでいる。今だったら、足とか手をけがした方がいいと思うね。身体が痛む方がいいと思うね。心の痛みはとても辛いの」



彼女たちを駆り立てたものは何か?男たちと違い、彼女たちは敵を多く殺すことに戦いの照準をあてたわけではない。「この人たちは戦争について兵士として、女として語った。だが、そのうちの多くが母親だった」。


「想像できます?身重の女が地雷を運ぶ……赤ん坊がもうできていたんですよ……。愛していた、生きていたかった。もちろん怖がっていました。それでも運んでいた……。スターリンのために行ったのではありません。私たちの子どものためです。子どもたちの未来のためなんです」



女たちは必死に工場で、野戦病院で、食堂で、そして戦場で戦った。だが戦後こうした女たちは一様に口を噤む。

戦場に行かなかった女たち、男たちは「戦った女たち」を白い目で見た。それは戦った女たちの人生を大きく変えた。結婚もできず子どももいないまま、ひっそりと貧しく、社会の片隅でこうした女たちは隠れて生きていくことになる。

自分たちの守った祖国と未来の皮肉。それでも女たちの多くは語りたがらなかったのだ。

アレクシエーヴィチは苦労しながら、だが丹念にそうした女たちの軌跡を集めていった。そして次第に女たちは語り出す。堰を切ったように……。




「せめて一日でいいから戦争のない日を過ごしたい。戦争のことを思い出さない日を。せめて一日でいいから……」


「訊きたい……もう訊けるわ……私の人生はどこへ行っちゃったの?私たちの人生は?でも私は黙っている」


私は今23歳だ。もちろん戦争は知らない。戦争とは、生身の戦いではなくて乾いた教科書あるいは黒板の上で書かれる過去のものだ。

戦争を知らない世代、とよく言われる。だが、アレクシエーヴィチが取材した女性たちは「戦争しか知らない世代」であった。

鞄いっぱいに詰め込まれるチョコレートの意味。この子は戦場に行ってしまう。その餞別として、貴重であった甘味がいっぱいに詰め込まれるのだ。やがて若い女の子は汽車に乗って最前線へと送られていくのだ。帰ってこれるかは分からない。

だからみんな、チョコレートを詰め込むのだ。

戦争は、男のものであった。正確には男の語るものであった。そこでは敵を何人殺したとか、どんな建物を爆破してやったとか、そういうもので彩られる。だがそうしたものをかき分けていくと、人間の顔が、傷ついた顔が見えてくる。

私は悲惨だと思った。月並みな表現だけれど、悲惨だと思ったのだ。

野戦病院で、死の直前に屈強な兵士が看護師に向かって言ったことは「乳房を見せて欲しい。もう何年も女房と会っていない」ということだ。まだ若かったその看護師は恥ずかしくなってその場を離れてしまう。その兵士は穏やかな笑顔でそれを言ったのだ。

しばらくしてその看護師が戻ってみると、もうその兵士は死んでいた。穏やかに笑いながら……。

「あの目を忘れられない」とその看護師はのちに語る。

戦争の顔とはどんなものだろう。私は幸運にもその顔を知らない。こうして何かを挟んで、その一端を想像することしかできない。

悲惨さの中でも、必死に生きた人がいたこと。戦争を称揚はしない。けれど、そうした人間の強さには不思議な感動を覚える。

人間はなぜ戦うのか?殺すのか?

私たちには分からない。だが、戦争の生き残りは語るのだ。

人間の心は、一つでしかありえない。


「ねえ、あんた、一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ」


心が憎しみに染まりきった時に、私たちは戦うのだろうか?愛で満たされた時に平和が訪れるのか?

まだ分からない。



参考・引用:「戦争は女の顔をしていない」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 岩波書店

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