「命題コレクション 社会学」自選命題集と感想 上

命題コレクション 社会学

作田啓一 井上俊 編

ちくま学芸文庫


図書館で「命題コレクション 社会学」を借りてきた。社会学における各命題を分かりやすく解説した学術書だ。その中から、私が個人的に興味深く、面白いと感じた箇所を抜き出して雑多な感想も最後に付したいと思う。



1.自我の社会性 G.H.ミード

「人間の自我は孤立した存在でもなければ、真空の中に生み出されるものでもない。それは人間の誕生とともにあるのではなく、社会的経験と活動の過程の中で生じてくる。自我は他の人間とのシンボルを通じての相互作用において社会的に形成され、展開される」


自我はミードが主張するように、自我の社会性とは、他者との関連において形成されるものなのだ。他者との関わりにおいて、自我は姿を現わす。またミードは人間の自我が「役割期待」において形成されることも明らかにした。例えば子どもが両親との関係や周囲の人々との態度を学んで自我形成を行うように。人間は「一般化された他者」の期待を取得することによって、自我を発達させることができる。

だが一方で、こうした自我の社会性は単純なものではない。不十分な認識、過度な強調、歪んだ理解…例えば他者の期待をそのまま受け入れ、同調し一体化するなどがあげられる。人は社会規範の内面化というメカニズムがこのような自我の形成を推し進める。だがこうした自我に対する理解は、人間は社会によって形作られ規定される存在と考える「社会化過剰的人間観」に陥る危険性もある。

しかしミードは自我の社会性を、こうした理解に留めているわけではない。それを示すのが「意味のあるシンボル」という概念である。ミードによると、人間の役割取得は意味のあるシンボルを通じて行われる。意味のあるシンボルとは、他者のうちに引き起こすものと同じ反応を自己のうちに引き起こしうる言葉や身振りのことである。ミードのいう役割取得とは、こうした意味の共有がなされていることを指す。そして、自我の社会性の意味も、この「意味あるシンボル」の共有である。またこうした「意味あるシンボル」は固定化し規範化されるわけではない。意味は流動するものなのだ。

こうした自我形成の中で、ミードは自我を「客我」「主我」という用語で表現した。客我とな他者の期待をそのまま受け入れた自我の側面であり、主我は客我に対する反応であり、客我に対して働きかけ、変容し新たなものを生み出すものである。

ミードにとって、社会性とは同時にいくつものことであり得る能力を表す。また社会性は既存のものの寄せ集めや相互調整ではなく、新たな次元における再構成である。「創造的前進」とでもいうべきものである。

自我の社会性は固定したものではなく、流動的な過程として捉えられるのだ。



2.自己呈示のドラマツルギー E.ゴフマン

「社会的状況のもとでの行為は演技の要素を含む。行為者は同時に演技者であり、観客を意識した印象の演出者である」


社会的状況のもとで行われる行為は、行為者自身の何らかの情報を誰かに伝えているものだ。その意味で、行為というのは、常に「自己呈示」である。自己呈示が意図的に行われる時、自分の行為に操作を加えて誰かにメッセージを伝えようとする時、それは演技と呼ばれる。こうした演技の向けられる存在を「観客」と呼ぶ。このような観客の存在を、「当該行為を見ていると行為者によって意識される存在」というように広く解釈すれば実在しており、情報伝達の可能な他者に限定する必要はない。つまり、実在しない情報伝達の可能性のない他者も観客となり得る。

ただゴフマンはこの種の観客にはあまり興味を持たず、実在する観客について彼は取り上げている。演技を支える関心は大きく2つある。第一に、自己利益への関心である。第二に、利他的な関心である。これはプラシーボを与える医師などが例として挙げられる。こうした演技は何か利益を得ようとしているわけではない。むしろ彼らは相手を安心させるために情報をコントロールをしているのだ。

ゴフマンの視点の新しさとは、「他者の意味」に焦点を当て、社会関係や社会集団を捉えようとしていた点である。「行為主体にとって目の前にいる他者は、行為の相手であると同時に行為を見る存在でもある」のだ。



3.ダブル・バインド G.ベイトソン

「人間のコミュニケーションにおけるメッセージは、メタ・メッセージによって自己言及してしまうのが多く含まれ、その中にはパラドックスを作り出してしまうような表現も存在する。人が権力関係の中でパラドキシカルな状況定義を強制される時、状況の正確な対象化能力を失って、適切な反応ができなくなる場合がある。このような状態をダブルバインドと呼ぶ」


人間のコミュニケーションの特徴的な部分は、それが多重の意味を持つ点である。動物においてもこうした特徴的なコミュニケーションが生じないわけでもない。例えば、カワウソが互いに噛み付く身振りは攻撃行動にも見えるが、相手が傷つくほど噛むということは起こらない。この行為には、2つのメッセージが存在しているのだ。一つはこれが「遊び」であること、そして「これは遊びである」という高次のメタ・メッセージである。人間のコミュニケーションにおいてもこうした自己言及的表現があることは容易に察しがつく。

「お前は馬鹿だなぁ」というメッセージも、言い方によってその意味も変わる。ただ一方でこうした自己言及的メッセージの中には悪循環のパラドックスを引き起こしてしまうものも存在する。パラドキシカルなコミュニケーションによって状況が定義される時、人は一貫した行動が取れなくなっていく。例えば気の弱い夫に妻が「あなたはもっと自発的であるべきだ」という命令はパラドキシカルな自己言及を含んでいる。命令者は相手が自分の命令に対して服従的であること自体に苛立っている。この命令には形式的に服従することも、しないこともできないものなのだ。逃れようのない権力関係において、このようなパラドキシカルな状況定義が弱者に強制される時、ダブル・バインドが生じる。こうした不安定な状況に晒され続けると、人はメッセージの認知を歪曲するようになっていく。メッセージを字義通りの意味にのみ反応するようになる。こうした行動が主体の中に内在化されると、メタ的なコミュニケーションを行う能力を喪失していく。現実はその「多重性」を失っていく。だが、ベイトソンによるとこのような状況から脱出させるのもまたダブル・バインドであるのだ。

治療によるダブル・バインドは一元的な現実を破綻させ、メタ・レベルへの道を開くように仕組んでいく。

ダブル・バインドは、人間が持っている普遍的な条件の一つである。



4.ラベリングと逸脱 H.S.ベッカーほか

「人が逸脱者というラベルを貼られるのは、逸脱行為の故というより、社会的マジョリティによって定められた同調・逸脱に関するルールが恣意的に適用されたためである。したがってこのラベルは、とりわけ社会的弱者に対して適用されやすい」

「人は、他者によって逸脱者というレッテルを貼られ、他者から逸脱者として処遇されることによって、逸脱的アイデンティティと逸脱的生活スタイルを形成する」


他者から押し付けられたペルソナがパーソナリティとして定着するというこの命題は、「予言の自己成就過程」のメカニズムなどによって説明される。逸脱者という地位は、人種上の地位などと同じように、他の従属的な地位を圧倒し、優先権を持つ主位的地位であるがゆえに、逸脱的な特性を持つ者は危険人物であるとみなされる。他者との相互作用は彼が逸脱者としての役割を演じた時にのみ可能である。逸脱者の自己観念は、他者が抱くイメージの中に封じ込められてしまう。伝統的集団への参加を拒まれ、日常的相互作用から締め出され、他者の押し付けたラベルを受け入れることによって、逸脱的アイデンティティが形成されるのだ。しかもこうした過程は、非可逆的過程であり、個人が正常な地位に戻ることは困難である。

伝統的実証主義者たちは見えたことは客観的事実だと主張するが、ラベリング論者は、そのように見ようとしたからその事実が見えたに過ぎない、と「視線」に焦点を当てる。そして、そのような視線が逸脱を誘う加害要因にもなり得るという視点を与えてくれる。



5.贈与論 M.モース

「贈与は、外見上、自発的、一方的、断片的な現象であるけれども、根底においては、拘束的、互酬的、システム的な実在である。つまり、贈与は物の提供というよりも、むしろシンボルの交換である」


モースは贈与の「義務的特性」について焦点を当てた。贈り物は気前よくなされなければならず、喜んで受け取らなければならず、忘れずお返しをしなければならない。贈与には、「提供の義務」「受容の義務」「返礼の義務」という3要素を含んでいる。

ポリネシアにおいては、与えることを拒んだり、招待を怠ることは宣戦布告することに等しい。またインディアン諸部族にみられるポトラッチ(競覇型贈与)において、首長や貴族は面子を保つために贈り物をしなければならない。さらに提供された以上のものを返礼しなければ面子は失われる。ポトラッチでは贈与は、各集団の首長の面子をかけた競争という集合的強制力のもとで行われる。

贈与は、本質的には「互酬性」という特性を示す。一つ一つの贈与行為は、表面的には相互に孤立した現象に見えるが、深層においては一つのシステムを形成している。贈与現象においては「提供の義務」「受容の義務」「返礼の義務」という3要素が観察されるのだ。

さて、こうした「贈与交換」のシステムにおいては、何が交換されるのであろうか。モースによれば交換の対象は単に経済的に有用な物に限らない。饗宴や儀式、舞踏や女子などの「感情価値」も交換されるのだ。贈与とは、同時に宗教的、道徳的、政治的、法的な「全体社会現象」である。

贈与交換において交わされる意味とは、威信や尊敬などであり、この点についてモースは「人が物を与え返礼するのは互いに尊敬を与え返礼し合うからである。さらにまた、それは、物を与える時自分自身を与えるからであり、そして自分を与えるのは、自分を他人に負っているからである」と述べている。

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