月に咲く菫の色は

音水薫

プロローグ1話

 アルバイトから帰ってくると、お母さんが玄関に倒れていた。

 今から出かけようという着飾った格好のお母さんは鈍器で殴られたように頭から血を流して床に伏していた。

 靴箱の角は血で濡れており、倒れた拍子に強打しただろうことを容易に想像させた。私は玄関を閉めることさえ忘れてそのままへたりこんだ。

 いつかこうなるのではないか、という予感はあった。

 シングルマザーという負い目からか、お母さんは私に不自由させないようにと働いてばかりだった。夜の仕事が体にいいはずがないとわかってはいたけれど、学のないお母さんがお金を稼ぐには一番よい方法だった。

 薫はお母さんみたいになっちゃだめよ、と口癖のようにいい、進学校にまで入れてくれたけれど、それがお母さんの寿命を縮めていたのだ。

 こうなる事態を防ぐために、お母さんの負担を少しでも減らすために私はアルバイトを始めたのに、そのバイトのせいでお母さんの危機を未然に防ぐことができなかった。

 かつかつかつと通路を歩く足音が近づいてきた。

「薫ちゃん、こんなところでなにしてるの?」

 ひょいと玄関を覗き込んできたのは隣に住んでいるおねえさんだった。職業不定で、昼間から家にいるような人だった。つねにへらへらとしているお母さんと気が合うらしく、私が学校に行っている間に交流していた。彼女はくたびれたシャツとジャージというだらしない出で立ちで近所のスーパーの袋を下げていた。

「香織さん!」

 おねえさんは倒れているお母さんを見たとたん袋を地面に落とし、そばに駆け寄った。

「薫ちゃん、救急車は?」

 そうだ。私はこんなところでほうけている場合ではなく、お母さんを助けなくてはいけないのだ。

 しかし、頭でいくらそう思っていても体はいうことを聞かず、あたまをふることくらいしかできなかった。

 それを見たおねえさんは携帯を取り出した。やがて大きな音とともに救急車がやってきて、担架を持った救急隊員がお母さんを運んでいった。

 付き添いに、とおねえさんに引っ張られて私も同乗したけれど、救急隊員の質問に対してなにも受け答えできないまま病院にたどり着いた。

 こんなことならおねえさんに着てもらいたかったけれど、隣人よりも娘が乗るほうが当たり前なのだろう。

 私からたいした情報を引き出せなかった救急隊員たちはそのままお母さんを手術室まで運んでいった。私は看護師さんに背中を支えてもらいながらなんとか手術室前のソファまで歩き、そこで横たわったまま手術が終わるのを待っていた。

 どれくらいの時間そうしていたのか、やがて手術中のランプが消え、なかから医者が出てきた。最善を尽くしましたが、とありきたりな文句をつらつらと話していたが、私はそのことばを何ひとつ覚えていない。

 ようするにお母さんは死んだのだ。

 私がバイトをしていなければ、あるいはすぐに助けを呼ぶことができていれば死ななかったはずのお母さんは、大切にして可愛がっていた私のせいで死んだのだ。

 ふらふらと家に帰った私に気がついたお隣のおねえさんがチャイムを鳴らし、家にあがってきた。

「香織さんは?」

 玄関で倒れていたお母さんと同じ格好で畳に伏していた私は頭をゆすり、お母さんの死を告げた。そう、とおねえさんは聞いたこともないような冷たい声でそう答え、葬儀屋を手配してくれた。

「香織さんの実家の連絡先は?」

 お母さんは私を産んだことで祖父母たちと絶縁していたので、私は彼らの顔も声も知らなかった。

 もちろん、連絡先もなにも覚えがない。そう答えるとおねえさんは電話台の引き出しをあさり、私も久しく見ていなかった電話帳を取り出した。ぱらぱらとめくっていくうちに同じ苗字を見つけたのか、ちいさく呟きながら受話器を取って、電話をかけ始めた。

「橋本香介さまのお宅で間違いないでしょうか。私――」

 連絡相手に自分の身分を明かし、おねえさんは事情を話した。どうやらちゃんと祖父母にかかったらしい。

 本来私がすべきことをすべてやってくれたおねえさんは意外と頼りになる。伊達に年を重ねてないな、と私は安心しながら畳にほおずりし、やがて眠りに落ちた。


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