第5話 北区中層不明領域
結論から言えば、<翡翠顎>の情報は大当たりだった。
ただ、泥縄式に飛び込んだだけあり、問題は幾つもあった――たとえば、問題の区画にまっすぐ上層から降りる道が消え失せており、下層から大回りする羽目になったことであるとか。
あるいは大回りした先に大空洞があり、魔物の群れに出くわしたであるとか。
隘路に逃げ込んでも、少なくない数が追いかけてきた、であるとか。
なけなしの暗器をぶちまけて足止めしたはいいが、一匹振り切れなかった、とか。
その一匹が、果てしなくしつこく食いついてきている、とか。
目の前には断崖があった。巨大な迷宮の中では、珍しい地形ではない。
背後に生臭い息を感じた。息遣いの温度までも。
浮遊甕の把手は直に掴んでいる。掴んだものを引き寄せて、抱え込んだ。
迷う暇はなかった。グラトはまっすぐに跳んだ。
目的を得た戦闘異法がからだを最適化し、握力と膂力を限界以上に発揮させる。
激痛を、即座に発動する簡易治癒の異法が抑え込む――これが一連の
当然だが、それでも堪えられないものはある。
人の身長の十倍近い高さを垂直落下し、浮遊甕が空中の見えない水面で跳ねた。
ようは金属甕を抱えて、それだけの高さから水面に飛び降りたようなものだ。
腹を全力で突き上げられ、跳ね上げられ、叩きつけられた先は無論、岩盤だ。
口から血の混じった、苦く熱い液体が溢れる。
グラトは激しくえずいた。咳き込んだ。それでも身体は勝手に立ち上がる。
平衡感覚が狂っていようとお構いなしに。
真っすぐ立っているかすら定かでない。視覚も聴覚も殆ど死んでいる。
吐き気と頭痛が一気に吹き上がった。これを考えたやつを殺してやりたい。
ややあって、身体は動かないままだった。
つまり、反射防御は発動していない。
ほんの少し。
ほんのすこしだけ、追手の気配が遠ざかった。
細い間口に飛び込んで、冷たい壁にもたれかかる。
グラトは大きく息を吐いた。
息を吐いて、それからほとんど犬のように舌を出し、喘鳴する。
無理やり身体を動かすため、呼吸すら最低限に絞られていた。
ダメージは回復でなんとかすればいい。だが苦痛を消すにも限界がある。
水筒を出し、舐めるように水を含んだ。どうにか、咳き込まずには済んだ。
うがいをする。吐き出す。直視したくない色の汁が飛び散った。
「ああ。もう」
声が出ることを確認する。だいぶ怪しいが、機能はどうやら生きている。
「誰に愚痴ったらいいんですかね」
上司か。それしかないだろう。戻ったら一服盛ってもいい。
ともかく生きて帰る必要がある。生きて、成果物を持って。
いい材料はある。たとえば、いま逃げ込んだこのスペース。
壁が冷たい。あきらかに冷たい。そして何より、明るかった。
金属の色と乳白色。埋め込まれた乳白色の板が、微かに明滅している。
グラトの知識に照らすなら、これは機械文明の形式に近い。
そして、この手の明かりが灯るには、多くの場合大型の設備が必要になる。
それこそ、迷宮の一角を埋めるほどの規模の。
つまり、ここが目的地ということだ。
悪い材料もある。
グラトの知る限り、機械文明が蘇生技術を持つケースは、殆どない。
少なくとも、彼のいま望んでいるような形では。
見た目だけそっくり同じ人間、を作る。記憶がない。
これは駄目だ。論外だ。まったくもって意味がない。
記憶を持った人間が生き返る。なんとしてもこれが必要だった。
記録から見るに、それは不可能ではない。
それこそ無尽宮公社の社長のような、横紙破りが可能な存在がいれば。
ようは、自らを神とか称する、それに相応しい代物が見つかれば。
グラトもそれを可能とするタイプの『影』を引き当てたことはある。
一度だけ。それも、ずいぶんな幸運だ。
「ウロ
何もない、不安定な迷宮の裂け目そのものがウロ
中途半端に出た遺構に踏み込んだ山師が、丸ごと飲み込まれて消えることがある。
落ちたが最後、帰ってきたものはないともいう。
そこに飛び込んでしまえば、いっそ楽になれるだろうに――
と。グラトは、自分が暗器を握っていることに気づく。
からだがほとんど勝手に向き直る。
起動しぱなしの戦闘異法だ。
つまり。
「ああ。こりゃ、ほんとに。しつこい」
隘路から、トカゲ頭の鳥としか表現できないモノが顔を出していた。
といってもそれは上半身だけの話で、下半身はほぼ蛇に近い。
羽毛ある蛇、名をそのまま
「あんたら、飛べないはずじゃなかったんですか。こんな崖の底まで」
有さない代わりに、とてもとても厄介な特性を備えている種である。
それが通説になっていた。せいぜい、短い距離を滑空する程度だと。
短い距離? 墜落したら即死するような断崖絶壁が?
何しろ深層の魔物だ。嫌がらせのような性質は山盛りだろう。
げに迷宮は、暴力に満ちている。
状況は最悪に近い。
狭い空間。背後には浮遊甕。もしこの
自動的にからだが動こうとしないのは、そのリスクがあるからだ。
知識を参照して、死にかねない場所へは動かないよう制御する。
安からぬ戦闘異法は、嫌味なほど適切な機能を持っていた。
つまり、自ら決断しろということだ。
グラトは息をつき、最後の暗器を引きずり出した。
折り畳まれた薄い金属板が伸び、丸まり、細い中空の槍状に定義される。
掌大の板から手槍を形成する。
横の衝撃には脆く、打ち合うには向かないが、小型一匹を狩るには十分。
狩るだけならば。
そのまま身体を低く。
片腕だけ入り込んだ
鎌首も、翼が邪魔になって届かない。
限界まで強化された筋力でもって、胴体へ筒槍を突き上げる。
真っ赤な血が飛び散った。魔物もほとんどは、赤い血を持つ。
そして、心臓を破壊されれば死ぬ。
問題はここからだ。
力なく下げられた翼越し、
危険を感じた。
当然だが、希望的観測は、裏切られた。
迷宮の植生は、それ自体が罠を形成する。
たとえば、毒を持つ苔。毒性の胞子を噴射する菌類。
それらは、グラトにとっては問題ではない。問題なのは、もっと直接的な。
火吹きするほど器用ではない
当然死ぬ。だから、興奮状態で絶命するとき、断末魔としてそれを行うのだ。
つまり、一部の
生きるために何ら有利にならないこの特性は、迷宮の暴力性の一つに数えられる。
貫いた胴のなかから、グラトは真っ赤な光が吹き出すのを見た。
それきりだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
小さく呻くだけで、身体に激痛が走った。
グラトは身体を起こそうとした。果たせなかった。
粉々に飛び散った翼手竜の骨が、軽装鎧を貫いていた。
戦闘異法の限界を超えている。下手をすれば骨もやられているだろう。
かろうじて首を巡らせると、泣きたくなるような光景が見えた。
蓋も消し飛んでいる。どこに消えたかわからない。
当然、「
火はほとんど消えていた。可燃物がないからだろう。
(空?)
いかにも、空だった。
少女の死体も残っていない。
「おい。貴様」
声が、した。
どうにか視界を傾けて、声の主を確認する。
少女の姿があった。ひどく大人びた表情の。
死んだはずの少女の姿が。生きているように見える姿が。
驚愕に目を見開く姿を見て、少女は、何故か嘆息した。
「……貴様、
「は?」
思わず返事をしてしまい、グラトは激痛で身悶える。
咳き込む。その息すら満足に吐き出せない。
「もういい。駄目だな、どうも、これは……」
眉間を揉みながら、少女は周囲を見た。
「丁度よい。色々と聞かせて……おい、寝るな。死ぬぞ貴様」
そう言われても大いに困る。
戦闘異法使用後のクールタイムすらないのだからして。
もはやからだは限界をとうに超えている。
「おい、馬鹿者! 死ぬな! どうすればいい、おい!」
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