新しいアルバイトの始めかた
「真由ちゃん。P-1アニメーションで仕事始めてから一週間になるけど、仕事には慣れた?」
夏コミが終わり、間もなく八月も終わろうとしていた。それでもまだ暑い日が続いていて、一歩外に出ると熱い日差しにあたしの身体は溶けてしまいそうだった。
ここは冷房の利いた、P-1アニメーションの休憩室。
まだまだ不慣れな仕事をやっとこさっとこ粉しているあたしに、こうやって優しい声で話しかけてくるのは、『いい意味での原作殺し』として有名な伝説のアニメーター、あの
「はい。……でもあたし、夏休み中のみの短期バイトという話のはずなんですけど、こんなにどっぷりと鈴城さんに教えてもらってしまって、本当に大丈夫なんでしょうか?」
そう。あたしはランコちゃんから自主制作アニメの仕事を引き受けた後、中途半端な気持ちでやりたくないという想いもあり、たまたま雑誌の広告で見つけたP-1アニメーションのアルバイトに申し込んだんだ。でも、そもそもP-1アニメーションって間違えなく大手だし、アルバイトだろうとアニメーターのど素人がそんな簡単に雇ってもらえるわけないと思っていたけど、運が良かったのかあっさり仕事をさせてもらえることになった。
それがまさかこんな有名な方に、いろいろ教わることができるなんて……。
あ、もちろん『嵯峨野文雄』という名前は隠している。
ここはアニメーションの世界だし、そんな場違いの名前をこんな場所で出したところで意味がない。それにこれ以上『嵯峨野文雄』という名前で騒がれるのもごめんだしね。
あたしは相楽真由として、そしていつものあたしの絵ではない絵を、ここ一週間でもう何枚も描いてきた。
「だって真由ちゃんの絵、ものすごく魅力的だもの。私としても教えがいがあるってものよ。」
「あたしの絵……ですか? ……すみません、もう少し作者さんの描きたいものを描けるように努力します。」
「ふふっ。……そうね。もう少し他の方のレベルに合わせて描いてもらえると助かるわ。真由ちゃんのせっかくの才能には申し訳ないけど。」
「申し訳ないなんてとんでもないです! これはお仕事ですし、それができなきゃプロ失格ですよ!!」
そう。ここでのお仕事は、他の方が制作したキャラクターを動かすこと。作家さんの意図を上手くくみ取って、それをアニメとして動かすことがここでのお仕事だ。大学で文学を学んでいるあたしとしては、作家の意図や行間を読み解くなんてことをもう当たり前のようにやってるけど、それをこんな場所で活かせるとは思いもしなかった。
当然だけど、あたしの色なんてこんな場所で出てはいけないもんね――
「プロ失格か~。まるで絵のお仕事でもしてるような人の厳しい口草ね。」
「それこそとんでもないですよ!! あたしの絵なんかそんな……」
優しい口調で悪戯っぽく、そんなことを言う鈴城さんの前で、あたしは思わず紅坂さんの言葉が脳裏を過った。
『絵描きなめてんじゃねーぞ』……それをあの人に言われたとき、あたしはプロ失格だと思ったから――
……やばい。思い出しただけで涙が溢れそうになってくる。
それを忘れたくて、吹っ切りたくて、ここに来たはずなのに――
「ちょっと真由ちゃん。大丈夫?」
「……え?」
「なんだか急に怖い顔してたから。」
「あ、はい。大丈夫です。」
おっと。ここはP-1アニメーション。
こんな顔をしていては絶対にダメだよね。
「でも真由ちゃんはここでは『プロ』ではなく、まだ『バイト』なんだから、そこまで悩みこむ必要はないよ? もっと大きく背伸びしてくれた方が、絶対いいものが出来上がるから。」
「え……。あ、そうですね。」
あれ、何か今の言葉、引っかかるものを感じたけれど……
「ま、そうは言っても真由ちゃんにはプロのアニメーター並みにバリバリ頑張ってもらわないとね。せっかく私があれこれ教えてあげてるわけなんだし。」
「……って急にハシゴを外すの止めてください!!!」
そう言いながら鈴城さんはあたしに笑顔を見せた。その笑顔にあたしの心もすっと安らぐ。
――最近ちょっと辛いことばかりだったから、こうして笑っていられるのもなんだか懐かしい気がした。
せっかくの夏休みだもんね。だからそんな貴重な時間を満喫しなくては。
ほんの数分の休憩時間のあと、あたしと鈴城さんは作業場に戻った。
ここで描いている絵は、どちらかというとスピードを優先させて描いている。だって、枚数が違うもん。こんなときあいつの無茶ぶりが役に立つとは思わなかったけど、六月にほんのわずかな時間で描いた東部線コラボイベントの十四枚の絵の経験が活きていた。
だけど、あの時は側に英梨々がいた。
霞さんもいた。町田さんもいた。
そして、あいつ――タキくんもいた。
でも今はあたし一人だ。
今は鈴城さんが側にいてくれると言っても、いつもいてくれるわけではないし――
あたしは新しい領域を、新しい場所で開拓しようとしている。
そんな風に考えていたら、いつもあたしを、あたしの絵を見守ってくれていた方々に、感謝しなくちゃと改めて思う。今だって鈴城さんに見守られている。そのことだって忘れちゃいけない。
あたしみたいなどうしようもない絵描きに、こんなにも親身になってくれて……。
だから、あたしはこんなところで逃げるわけにはいかない。
みんなの気持ちに応えなきゃ、本当に申し訳ないよ……。
ちょっと今は辛いけど、それでもあたしは自分の絵に向かい合わなきゃいけない――
「相変わらずのスピードね。まるで締め切りに追われて絵を描くのが当然みたいに。」
あたしが黙々と描いていると、鈴城さんがたまにこんな風に声をかけてくる。
「はい。同人誌の締め切りだったらいつでも追われてますし。」
あたしは笑いながら、鈴城さんにこう答えた。
本当は同人誌の締め切りよりも、いつになっても原稿をあげてこない霞さん、そしてそれでも断固として納期を後ろにずらそうとしない町田さんやタキくんの間で、いつも板挟みに遭ってるという話だけどね。
「真由ちゃん、同人誌も描いてるんだ? なんていうサークル?」
「そんなの、恥ずかしくて言えませんよ……」
それも嘘。間違っても壁配置のサークル名とか決して出してはいけない。
そもそも一般的に知られている嵯峨野文雄はあたしじゃなくてお兄ちゃんだし、そんなサークル名を出したところでどう考えたってまたいつもの混乱を招くだけだもんね。
「ほんと、私がいろいろあれこれ教えてあげてるのに、真由ちゃん自分のことは一切教えてくれないんだから。」
「あ、いや……あたしの絵のことは恥ずかしくて言えないだけです。その他のことなら……」
「じゃー、真由ちゃんのスリーサイズだったら教えてくれるの?」
「いやあのそれとこれとは話違いますよねあたしそういう話はしてませんよね!!?」
こんな冗談めいたことまで言ってくるんだ。
ていうかあたしのスリーサイズとか……
……うん、それこそ恥ずかしくて言えないわけだけど。
でもそんなあたしに対して、いつも鈴城さんは爽やかな笑みを返してくる。
あたしはそれを見て落ち着きつつもあり、どこか目のやり場に困っていた。
「ねぇ真由ちゃん。後で少しお話があるんだけど、今日の作業が終わったら、会議室に寄ってもらえないかな?」
「え、あたしに話ですか?」
「大丈夫よ。隠し事ばかりという理由で明日からクビとか言ったりはしないから。」
「いやその尾ひれむしろ逆に怖いんですけど……」
「じゃ、私は先に行って会議室で待ってるから。後で来てね。」
時計を確認しながら鈴城さんはそう言うと、作業場を離れた。確か今日は新しいアニメの打ち合わせって言ってたっけ? やはり当然ではあるけれど、忙しそうな人だな。
そんな鈴城さんにこんなにまで気にかけてもらえるなんて、あたしはやはりラッキーかもしれない。
新しいアニメか〜。バイトという一番下っ端のあたしには、それが何というタイトルなのかまでは教えてくれないだろうけど、オタクであるあたしはちょっとドキドキする。
だって、こんな身近な場所で、あたしの大好きなアニメが生まれてるんだよ!
そんなの、ワクワクが止まらないに決まってるじゃんか!!
☆ ☆ ☆
「失礼します……」
あたしは今日のノルマ(何枚とか具体的な枚数については省略)を描き上げると、さっそく鈴城さんがいるはずの会議室のドアをノックした。『後で寄って』とは言われたものの、何の会議をしているのかまでは聞かされてるわけでもなく、その会議室に誰がいるのかもわかっていないから、ちょっと不安があった。『クビにはしないから』……とは言うけど、そもそもそれ以外の理由に、どんな話があるというのだろう。
恐る恐る、あたしは会議室のドアを開けた。
「お、来たね。鈴城の期待のバイトさん。」
「真由ちゃん、こっち。ここに座って。」
その会議室にいたのは三人。
一人は鈴城さん。それとその隣りに座っている男性は、P-1アニメーションの敏腕プロデューサーこと、
あたしは鈴城さんの隣りに座ると、その相向かいには見覚えのない女性が座っていた。
……あれ、この人……誰だろう???
「真由ちゃん。この方はね……いろいろ探られると困るからどこの会社の方は言えないけど、今度アニメ化される原作側の担当の方。名前は竹下さん。P-1アニメーションでもよくお世話になってる方よ。」
メガネをかけたその女性は、見た目がどこか冷たそうで……でもなぜかあたしは、どこかで会ったことがあるような気がした。いや、そんなことあるはずないけど、ただ誰かに雰囲気が似ている……?
その顔のどこかに、どういうわけか懐かしさを覚えていた。
「どうもはじめまして。相楽真由です。」
「竹下千歳です。……あれ、あなた……どこかで会ったことがあったかしら?」
「……いえ。そんなことはないはずですけど……?」
えっと〜、本当にあたしはこの人に会ったことがない……?
でもその『竹下』という名前が、あたしにとって初耳なのは間違えなかった。
「やはり鈴城の思ったとおり、お二人は初対面だったようだね。」
「でしょ〜。やっぱり真由ちゃんは竹下さんとこの秘密兵器なんですよ。」
「それは一体どういう意味かしら???」
荻島さんと鈴城さんのひそひそ話に、竹下さんがツッコミを入れる。
……って、あたしも竹下さんと同じ状況だ。少なくともあたしは竹下さんとは初対面のはずだし。
あたしと竹下さんの関係性……? それは一体、何だというのだろう???
いろいろモヤモヤするものを感じてはいるけど、ただこれだけははっきりしている。
ここでのあたしは相楽真由であって、『嵯峨野文雄』ではないということ。
一度たりともあたしが嵯峨野文雄だって、誰にも話してはいない。
そして、あたしはこの『原作側の担当者』という竹下さんを、知らない――
「……それで、あたしがこの場に呼ばれた理由は一体、結局何なのでしょうか?」
とあたしが言った瞬間、今度はしーんと会議室が静まり返った。
……え、あたしなにか悪いこと言った???
「まさか鈴城さん、こんな若い子に今度のキャラデザのコンペに参加させる気ですか?」
「大丈夫ですよ。コンペに参加してもらって、選ぶのは竹下さん達ですから。それに……」
「はははっ。面白い作品になること間違えなしですな。事情はともかく。」
……はい??? コンペ?????
「真由ちゃん。まだ言ってなかったけど、一ヶ月後のキャラデザのコンペに、真由ちゃんにも参加してもらうことにしたから。だからそれまで、頑張ろうね!」
あたしは頭の中がみるみるうちに真っ白になっていく……
「……ってちょっと待ってください!! あたしはそもそもバイトで……」
「だからそのアルバイトの卒業試験よ。ちなみに試験に合格しなかったら卒業させてあげません!」
「いやいやちょっと待ってください。それってひょっとして、試験に合格してもしなくても、あたしにこのバイトを辞める権利はないってことですよね!??」
「確かにそうね〜。キャラデザ就任が決まっちゃったら真由ちゃんの仕事は今以上に増えるわね。」
「ちょっ、ちょっと〜!!!」
えっと〜……なんでそんな話になってるんだろう?
そもそもあたし、アニメーターとしては初心者だよ?
それがなにがどうしてキャラデザのコンペとか、卒業試験とか……
「あら。二人とも、随分とこんなバイトの子に自信をお持ちのようですね?」
「それはそうですよ。だってこの子は……」
「荻島さん、その話はもうちょっと待って。……大丈夫ですよ、竹下さん。コンペまでに一人前のアニメーターとして、真由ちゃんを私が責任持って育てますから。」
そんなことをはっきりと、鈴城さんは竹下さんに言うんだ。
なお、あたしの頭の中はまだ全然話の流れについていけていない。
……いや、ついていけるわけないよね?
なんだか夢の中にいるみたいで、目の前の会話が霧の中にぼやけて見えていた。
「そもそもなんですけど……その作品のタイトルは???」
「な〜んにも教えてくれない真由ちゃんにはヒミツ。というより原作者の作家さんですらまだ知らない話だしね。これはトップシークレットのお話なのよ。」
「は、はぁ〜……」
ほんのふとしたきっかけを見つけたくて始めたバイトだったはずなのに――
いつの間にか、あたしが想像もできなくなるほど、事が大きくなっていたんだ。
確かに、あの伝説のアニメーターである鈴城さんに『責任持って』教えてもらえるなんて、悪い話ではない。というより、本当にそれでいいのかと思えてしまうほどだ。まさかそこまで期待されているなんて思いもしなかったから……。
そもそもあたしはアニメのキャラクターデザイナーなんてできるんだろうか?
どんな作品なのかも知らないのに、そんなのって……
それでも、素直に嬉しかった――
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