朝のブラックコーヒーの味わいかた

『嵯峨野さん、忙しそうだけど今度会うことできるかしら?』


 アニメーターのアルバイトが終わり、ようやく帰宅する頃には既に夜も更けていた。とっくに通勤ラッシュのピークも終わっていて、電車も少しだけ空いていたような気もする。

 やっと帰宅したあたしはスマホを確認すると、霞さんから着信があったことに気づき、慌てて電話をかけ直した。霞さんは待っていたとばかりにすぐに電話に出て、開口一番そんなことを聞いてきたんだ。


「えっとー、最近バイトしてて……」

『あら。『純情ヘクトパスカル』のたった一人しかいないイラストレーターさんがバイトに明け暮れて絵も一枚も描けなくなったとか、あまりシャレになってないのでは?』

「すみません仰るとおりですそれについては何も言い返すことができません!!」

『それで、次の休みはいつかしら?』

「あ……明日です……」

『じゃー明日の午前中にでも嵯峨野さんの家に伺うわ。せっかくの休日、わざわざ出向いてもらうのも申し訳ないし。』

「あ、いや、別に構わないですけど……霞さんあたしんちの住所知ってましたっけ?」

『そんなの、この前倫理君に教えてもらったもの。』

「霞さんそれって職権乱用というやつですよねあいつ女の子の家の住所をひょいひょい教えるとか何か間違ってますよね!??」

『確かにそうね。それにしても嵯峨野さん、せっかく夏休みを自分で取っておきながらバイトを始めるとか、一体なんのバイトをしているのかしら?』

「あの~他人の住所の話ってそんな軽くスルーして…………バイトの件はちょっと事情もあり、秘密です……」

『……まぁいいわ。明日たっぷり近況を聞かせてもらうから。』

「それめっちゃ怖いんですけど!! でも、あたしも霞さんに聞きたい話もあるのでその時に。」

『ふふっ、お互い楽しみね……』


 ☆ ☆ ☆


 翌朝、時間通りの朝十時に霞さんがあたしの家にやってきた。

 今週から九月に入り、暦の上では秋ということになっているけど、これが残暑というものか、まだまだ暑い日が続いている。霞さんがあたしの家にたどり着いた時には、霞さんの額にも汗の雫が僅かに付着していた。

 それにしてもタキくんから『霞さんは朝に弱い』と聞いていた気もするけど、こんな朝十時にやってくるとか全然聞いてた話と違うじゃん! あたしなんて今にも重い瞼が閉じてしまいそうなんだけど――


 あたしは眠気覚ましに電動ミルで二人分のブラックコーヒーを用意した。ちなみに兄は朝から仕事で出かけている。何の仕事をしてるかはもちろん秘密だけどね。


「思ったよりも元気そうじゃない?」

「え、なんのことでしょう?」


 そういえば、『純情ヘクトパスカル』と短編集の仕事については夏休みを頂いているため、霞さんに会うのも半月ぶりだった。最後に会ったのは夏コミのあの日以来。

 あたしは霞さんにそれを言われて、そのことをふと思い出した。

 そして、あの日の……あまり思い出したくない記憶が沸々と蘇ってくる――


「てっきり紅坂朱音に苛められてから、まだまだずっと部屋に引き籠もって泣きじゃくっていることを密かに期待していたのだけど……」

「あの~霞さん? その期待する方向性、絶対何か間違ってますよね??」


 あたしは思わず顔が熱くなっていることに気づく。

 あの日のことーーあの場には英梨々と町田さんとあたしと、そして紅坂先生しかいなかったはずなのに、みんなあのことを知っているのか…………


 なんだかそれはそれで、やっぱし悔しいな――


「まぁいつまでも引きずるものではないものね。」

「そう…………かもしれませんね。」


 霞さんはあたしが煎れた熱いコーヒーを口にして、ゆっくり味わいながらそんなことを言ってくる。ひょっとして、今日の霞さんはあたしを励ましにわざわざ来たのだろうか?

 そう言えば恵ちゃんからこっそり聞いたことがあった。それは今からちょうど一年くらい前の話。伊豆で『blessing software』関係者で合宿をしていると、深夜に紅坂先生がやってきて――


「あたしは……なんとなくですけど、今のアルバイトに救われている気がしています。」


 あの時の霞さんを救ったのはタキくんだったそうだ。

 恵ちゃんはむくれながらそんな話をしていたけど、それでも、二人は『信用してない』と言いつつも信頼に満ちているようで、自信満々な顔でそんな話をしてくれたっけ。もうほんと、リア充って怖いよね。


 そんな話はともかく、今のあたしを救ってくれたのは鈴城さんだった。きっと鈴城さんに会っていなければ、今でもきっと――


「あら。ますます気になるわね。私の大切なイラストレーターさんを奪っておきながらそこまで夢中にさせてしまうアルバイトがなんなのか。」

「ひぃーごめんなさい!!!」


 霞さんにそう言ってもらえるのは非常に嬉しい話ではあるけれど、それ以上に申し訳ない想いでいっぱいだった。そういう意味だとあたしは、ますます中途半端な方向性へ向かおうとしていないか、そんな疑問すらある。


 あたしは今、どこに向かおうとしてるのだろう――


「ふふっ。なるほどねー。まだ完璧に立ち直ったわけではないのか。」


 そんなあたふたするあたしの表情から、霞さんはそう悟ったようだ。確かに霞さんの言う通りではあるのだけど、改めてそれを言われてしまうと、あたしは自分の立場というものを本当に見失ってしまいそうになる。

 自分の視線をやや霞さんから逸らせながら、あたしはこんなことを聞いてみた。


「ねぇ霞さん。さっきあたしに『大切なイラストレーター』って言ったよね?」

「ええ。確かに言ったわね。」

「それって、本当なのかな? 本当にあたしである必要なんて、あるのかな……?」

「相変わらずくだらないわ。」

「えっ…………」


 霞さんはそんなあたしの疑問を一蹴するんだ。


「それは、あなたの、嵯峨野さんの実力が不足してるとでもいうのかしら?」

「ううん。……いやそれもあるけど、そうじゃなくて、あたしの仕事が絵描きではなくなってしまうかもしれないということ――」


 霞さんにはそう答えたけど、たぶん嘘のような気がする。

 あたしは逃げ出そうとしてるだけかもしれない。もうこれ以上は上達しないかもしれない自分の力を見切って、違う道に進むことになるかもって。


 あたしのどうしようもなく俯いた顔は、霞さんに見せられなくなっていた。

 あたしはもう、自分の道も一人で決められなくなってしまったんだろうか。


 ☆ ☆ ☆


「あの、鈴城さん? なんであたしなんかをキャラデザにしようとなんて思ったんですか?」


 数日前のこと。

 あたしは突然キャラデザのコンペの話を聞かされて、頭が混乱していた。

 そりゃそうだよね。アルバイトのつもりで始めた仕事が突然そんな大役を任されようとしてるんだから。冗談だって考える方が自然だ。


 コンペの話を告げられた後、あたしと鈴城さんは会議室に残り、この後の段取りについて確認していた。でも冷静になればなるほど、やはりその話は不自然に思えてきて、あたしは鈴城さんにこう切り出したんだ。


「前にも言ったでしょ? 真由ちゃんの絵がとても魅力的に感じたからよ。」

「そんなの嘘だよ。だって、あたしの絵なんか…………」

「真由ちゃん、またそんなこと言う!!」


 だけど、そんなあたしを裏切るかのように、鈴城さんはちょっと強めの口調で、ただし軽く笑い飛ばしながらそんなことを言うんだ。


「真由ちゃん、もっと自信持っていいんだよ? 真由ちゃんの絵は誰にも真似できない、たったひとつの絵なんだからさ。」

「……あの~すみません。ここアニメーターの現場ですよね真似できなかったら他の人が困りますよね……」

「うんそうだよ、その通りだよ。でもそんなアニメだって、どんなに声優さんが名演技しても、どんなに脚本が傑作であっても、どんなに原作が売れている作品であっても、結局は絵が良くなきゃ完成しないの。だから私達は一枚でも多くの素晴らしい絵を書き続けなくちゃいけない。」

「だからって、初心者のあたしが足を引っ張っていいわけないし……」

「真由ちゃんはアニメーターとしては初心者かも知れないけど、誰もそんな風には考えてないわよ。だって、こんなに素晴らしいものが描けるんだもの。だからむしろ真由ちゃんには、リードする立場でいてほしいの。」


 あたしが……アニメーターの現場をリードする……?

 頭の中に無数の疑問符が沸々と浮かび上がってくる。そんなこと言われたところで実感など何も湧いてこなかったから……。


「でもあたしは、他の人が描くような凄い絵なんか描けないんですよ……?」

「誰がそんなこと言ったの? 誰と比較してるの? いいじゃんそんなの。言わせておけばさ。真由ちゃんは自分のペースで、自分の絵を完成させればいいのよ。」

「…………うん。」


 すると会議室の椅子に座るあたしの背後から、鈴城さんは両手であたしの肩を軽く掴む。

 本当に、温かい手。

 だけど、やはり全てを受け入れるのは難しくて、あたしは――


 すると優しく包み込むような声で、鈴城さんはこう言ってくるんだ。


「きっとそれを言った人って、真由ちゃんの好きな人?」

「…………うん。あたしが大好きな……じゃなくて、大好きでどうしようもなかった人。」

「過去形? ……そっか。」


 悔しい。だから、少しでもいいからあいつを見返したい。

 でもその結果がこれ。

 仮に間違ってあたしがアニメのキャラデザなどになってしまったら、あたしはその忙しさから『純情ヘクトパスカル』を手放さなくてはいけなくなるかもしれない。


 ううん。だけど本当は、その方がいいのかもしれない。

 今のあたしは、霞さんやあいつの期待に応えられるのか、正直怪しい。

 『純情ヘクトパスカル』はあたしじゃない方が、ひょっとしたら――


「あたし、本当にキャラデザなんてやっていいのかな?」


 だけど、見方を変えればこれってあたしには二度と訪れないチャンスかもしれない。

 だから、やるからには全力でやる。


 それでも、だけどね――


「真由ちゃん。何を心配しているの?」

「だって、そんなことしたら今のあたしの生活は変わってしまうだろうし、今のあたしから失うものも少なからずあるような気がして……」


 すると鈴城さんは力強く、はっきりこう言うんだ。


「大丈夫よ。真由ちゃんに悪いようにはさせないから。だから今は自信を持って前を向いててもらえないかな?」


 まるでそれは、あたしの気持ちの何もかもを悟っているかのようで――


 ☆ ☆ ☆


「ねぇ霞さん。」

「今度は何かしら?」


 さっきより幾分冷たい、いやどちらかというと冗談めいた表情で、霞さんはあたしと向かい合った。


「霞さん、竹下さんって人、知ってる?」


 が、あまりに唐突な質問だったのか、霞さんはあっけらかんとした表情に変わってしまう。


「竹下さん? 知らないわ、そんな人……」

「……だよね? あたしも知らない人だし。」


 うん、知らない人。

 だから竹下さんは『原作側の担当』ではあるけど、『純情ヘクトパスカル』とは関係のない人……


 ……そのはずだよね?


「その竹下さんという人がどうかしたのかしら?」

「とある作品の『原作の担当者』だってさ。霞さんなら知ってる人かなと思ったけど。」

「いや、そういう話を聞いてるわけではないのだけど……」


 さて……ここからが本題。

 あたしがあたしでいられなくなる前に――

 もう一つだけ、あたしは霞さんを裏切ってしまうかもしれない、そんな質問をしてみる。


「霞さん。もしあたしが、『純情ヘクトパスカル』の仕事をこれ以上できないって言ったら、霞さんはどうする?」


 その質問は、単刀直入で……。


「そんなの、代わりを探すだけに決まってるわ。」

「そっか。そう……だよね…………」


 ただし霞さんは、そんな質問をさらりとかわしてみせた。

 ふふっ。それが当然の回答だよね。


 ところが霞さんは続けてこんなことを言ってくるんだ。


「でも、私は少し寂しくなるくらいで済むけど、倫理君はまた泣き出すんじゃないかしら?」

「え…………?」

「だって最近の倫理君、嵯峨野さんの信者になりかけているもの。」

「……………………」


 最後に霞さんはそんなことを言うと、また少しだけコーヒーを口にした。

 あたしも目の前に注がれた黒く光るコーヒーに視線を落とす。

 そこには、ゆらゆら揺れるあたしの顔が微かに映っていた。


 だけどその顔は、霞さんのその言葉に素直に受け入れれることができていない。

 そこに映ったあたしは、完全に迷路の奥深くに迷い込んだ、そんな顔だった。


 信者か…………。

 そんなこと、あるわけないのにね……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る