Lesson12: Summer Festival Day

夏コミ当日朝の集まりかた

「暑い……なんであたしがこんな朝早くからラッシュに巻き込まれなきゃならないのよ……」


 夏コミ当日の朝は早い。朝、八時四十五分より前までに橋を渡らないと、その吊橋はナイフでえいっと切り落とされ、あちらで並ぶ人のゴミ……じゃなかった、人混みに紛れての会場入りを余儀なくされる。そうなると大遅刻確定となってしまい、他のサークルメンバーに多大な影響を及ぼすことになるんだよね。

 あたしもいつもなら兄と一緒に、この時間、この橋を渡っていた。だけど今日は……


「ごめんね英梨々。明日はエゴリリのブース手伝ってあげるから、今日は許してよ。」


 横を見ると英梨々は小さな鞄を担いでいる。

 その荷物の量、あたしの鞄よりは少なそうだけど……


「あれ、言ってなかったっけ? 明日はパパとママが売ってくれるから、あたしたちの出番はないわよ。パパとママも明日は楽しみにしてるみたいだから、あたしは一人、家でお留守番。……あ、更衣室あっちだから、あたしそっちへ行って着替えてくる。」

「え……あ、うん。じゃーあたしたちはサークルブースに先行ってるね!」


 英梨々、明日は両親に売ってもらうのか。確か、イギリス人のエリート外交官パパと、見た目若くて綺麗な美人ママだったっけ? 二人はサークルブースでよく見かけるけど、二人の娘である英梨々が美形なのも、その姿を思い出すと思わず納得してしまう。

 そんな両親がこんなオタクの祭典コミケの売り子に――

 ……それにしても、とんずらした我が兄もしっかり見習ってほしいわけで。


「まったく、澤村さんの声がきゃんきゃんうるさくて、電車の中で全然眠れなかったじゃない。」

「いやあんだけ混雑した車内で寝ようとすること自体が、恐らく間違えだと思いますよ霞さん……」


 あたしの後ろから、のそりのそりと付いてきていたのは霞さんだった。

 この様子は間違えなく、あたしより眠そうではあるけれど。


「仕方ないじゃない。昨日あの後酔っ払った町田さんに電話で呼び出されて、夜遅くまで町田さんと紅坂朱音のお酌ついでたんだから……」

「うわ~…………」


 でも確か霞さん、まだ未成年でしたよね飲まされてませんよね!?

 ……という話はともかく、あたしも紅坂さんといろいろ話をしてみたい。英梨々や霞さんはいろいろとボロクソに言ってるけど、兄の話を聞く限り、根はそこまで酷い人とは思えなかった。

 今日もどこかに、紅坂さんはいるのだろうか?


 あたしと英梨々と霞さんは三人で待ち合わせて、この会場までやってきた。二人ともあたしより眠そうで、昨晩全然寝てなかったんだろうなぁ~ということは容易に想像がつく。

 なお、英梨々とあたしはともかく、電車がビックサイトに近づくにつれて、霞さんの顔バレ問題が浮上してくる。電車が地下へ入った辺りから『あれって霞詩子じゃない?』という小声が、車内のあちらこちらから聞こえてきたんだ。あたしは慌てて、あたしが被っていた麦わら帽子と鞄の中に潜ませていたサングラスを、霞さんに身につけさせたのだけど。

 ちなみに英梨々とあたしは顔バレ対象外。『嵯峨野文雄』そのものは顔バレ対象ではあるけど、その顔はもちろんあたしの顔じゃないしね。

 ……ま、そのせいで今回ばかしはちょっと面倒なことになってしまったわけだけど。


 そんなことを考えながら歩いていると、目の前にやっと会場入口が見えてきた。

 とにかく、恵ちゃんがシナリオを書いた『cutie fake』のゲーム体験版、それとあいつが作ったあたしの画集を、なんとか絶対売り切らなきゃね!


 ☆ ☆ ☆


「霞さん、嵯峨野さん、おはようございます!」


 サークルブースにたどり着くと、一足お先に到着していたタキ君が、妙に爽やかな笑顔で出迎えてくれた。タキ君は確か恵ちゃんと来るとかで、あたしたちと会場入りは別だったんだ。

 そう、『blessing software』、それと出海ちゃんの『Fancy Wave』も今日なんだよね。


「あら倫理君。私に『先輩』を付けずに『さん』付けで呼び捨てるとは、朝からいい度胸ね?」

「ち、違うでしょ! ここでそんなプライベートの呼び名で呼べるわけないでしょ! 今日の俺は仕事だって言ったのは詩羽先輩の方でしたよね!?」


 それにしても、朝からなんともめんどくさそうな会話だ。結局タキ君は『詩羽先輩』に戻ってるし、もはや仕事もへったくれもないような気がする。そもそも二人とも、あたしのサークル『cutie fake』を手伝うことがお仕事だと言うなら、あたしの今日の立場は一体何なのだろう?


 ……そんな風に意味もなくマイナス思考なのは、昨日のことがあるからに違いなかった。

 あたしは本当のこと言うと、この場から……タキ君の前から、逃げ出したいんだ。


 自ずとタキ君から視線を逸らしつつある。……無意識に? いや、意識的に。


 なんでだろう? その理由を考えれば考えるほど、馬鹿馬鹿しいわけだけど。

 あたしは無言のまま、自分の鞄から小道具を取り出し、それを机の上に並べていた。


「あの〜、嵯峨野さん? 何か機嫌が悪そうに見えるんですが、気のせいでしょうか?」

「そんなことあるわけないでしょあたしいつも通りだよねそれともあたしに何か文句あるの?」

「いやいやそれどう見たって機嫌悪いよねなぜだかそれって俺に当たり散らしてるよね!?」


 はぁ〜、バカだな〜……あたし。思わず大きな溜め息が出てしまった。

 タキ君は何一つ悪くない。全部あたしのせいなのになぁ……。


「あら嵯峨野さん。今日はせっかくお膳立てしてあげてるのに、随分と期待はずれね。」

「……お膳立て???」


 そして霞さんは冷たい視線とともに、こんなことをぶつけてくるんだ。

 うん、なんとなく霞さんが言いたいことも理解できている。だけど、それとこれとは違う気もするんだ。


 どうせあたしなんか……絵描きとしても、人間的にも、何をやっても中途半端で……


 すると霞さんはあたしの近くにやってくると、あたしのおでこにデコピンを食らわしてきた。

 力強く、思いっきり――


「今日のこのサークルの主役はあなたよ。そんな主役が下を向いてどうするの?」

「あたしが、主役……? そんなの、あたし頼んだつもりない……」


 随分酷いことを言う……。そんなことはもちろんあたし自身も自覚していた。

 あたしは朝から自暴自棄になっている。なんて身勝手な人間なのだろう……


「どうしたのよ真由。そんな怖い顔しちゃって……」


 ふと振り向くと、更衣室で着替え終わった英梨々があたしの前に立っていた。

 その衣装は、昨日不死川書店に届いたばかりという、できたてほやほやの紫姫アンジェの姿そのものだ。


 あたしはその服を見ると、ますます自分が嫌いになっていったんだ……


 だって、それだってあたしがデザインした衣装だもんね――


 あたしは涙を堪えるのに必死だった。

 こんな大衆の場で――こいつの目の前で、涙なんて見せたくはなかったから。


「霞さんごめんなさい。あたし、心にもないこと言ってた。英梨々……うん、なんでもないよ。」


 あたしは一体どんな顔をして、こんなことを言っているんだろう。

 少なくとも――あたしは間違えなく、情けない顔をしていることだけはよくわかっていた。


 そんなあたしに、霞さんは小さな笑みを見せたんだ。

 まるで何もかもを悟ったかのように……不気味な笑みだった。


 あたしは前を向かなくては……。ちょっと辛いけど、今はそうするしかないんだから――


「そ、そんなことより霞さん? このタイミングで英梨々をあたしのブースに、しかもこんなに堂々と設置して大丈夫なんだっけ?」


 頭を切り替えなくちゃ。目の前に現れたその完璧なまでのアンジェ……じゃなかった、英梨々を見ながら改めてそれを考え始めた。


 てゆうか、兄と絶賛スキャンダル事件勃発中の柏木エリを、こんなに堂々と人前に……

 いいのかそれって!?!??


「そうですよ詩羽先輩。こんなところに英梨々なんて置いといたらさらに炎上するのでは?」

「だからあたしは置物じゃないって、昨日から何度も言ってるでしょ!!」


 その英梨々の怒声とともに、ツインテビンタがタキ君にクリーンヒットする。

 うわ~、この瞬間のこの場面、めっちゃ写真に収めておきたいんだけど!!


「あら。二人とも、何を言っているのかしら? 今ここにある置物は『紫姫アンジェ』本人そのものよ。作者である私が認めているんだから間違えはないわ。」

「……はい?」


 どこからともなくあたしの中から出てきたその疑問符は、あたしの感想そのものだった。

 えっとー、ちょっと霞さん? 一体何を…………。


「それともなに? 男を取られて迷走しているだけの負け犬ポンコツ娘のくせに、ちょっとは名前が売れたからって彼氏作ったふりして調子に乗りまくってる柏木エリ先生が、まさかこんな場所にいるとでも言うのかしら?」


 そんなことを言う霞さんに対して、あたしと英梨々、タキ君の三人は思わず互いの顔を見合わせてしまった。

 えっと……それって……


 ……まさか霞さん、今日はそれで押し通すつもり!??


「か、か、か、か、か、霞ヶ丘、詩羽~っ!!!」


 紫姫アンジェ……もとい、英梨々のツインテビンタが先程以上に力強くタキ君にヒットしている。そのやり場のない英梨々の怒りは……というより、もはや何に対して怒っているのかもよくわからないとこがミソだけど。


「相変わらずうるさいわね~この負け犬ポンコツ娘……」

「あたしは負け犬でもポンコツでもないわよ!」

「じゃー何だって言うのかしら? 今更『柏木エリ』だとか言うんじゃないでしょうね?」

「あたしは……あたしは〜〜〜!!!!!」


 どういうわけだか『柏木エリ』という名前を霞さんに剥奪されて、急にしゅんとなってしまった英梨々ではあったが、そのツインテールは未だにタキ君にビシビシと鞭のように当たっているわけで……。いやだから、タキ君に当たり散らすのはそろそろ止めてあげようね。


 ……まぁ、あたしもさっきまでタキ君に当たり散らしてたし、他人のことは言える立場じゃないか。


「ねぇ、それより英梨々? ところであたしの兄の居場所、本当に知らないの?」

「知らないわよ〜!! 昨日からずっと電話繋がらないし、チャットも全然返信ないし。」

「……あ、なるほど。状況としては主にあたしと一緒なんだね。」


 それにしても兄のやつ、こんな時にどこで何をしているのだろう?

 あたしだけでなく、英梨々まで放置かよ……。

 本当に困った人だ。


「ほら。こんなことしていたら開店の十時まであっという間よ。早く準備仕上げなきゃ。」

「って、そう言う詩羽先輩が今一番何も準備していませんよね!??」

「あらそれは心外だわ倫理君。そこでついさっきまで呆然と立ちすくんでいたもう一人の負け犬さんよりは動いてたはずよ?」

「それってあたしのこと? …………で、あたしとタキ君が売り子で、英梨々はずっとそこで立ってればいいんだっけ?」

「なんで霞ヶ丘詩羽がずっとサインしてて、あたしはただ立ってるだけなのよ!?」

「仕方ないわ澤村さん。あなたはここのメインヒロインであって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。」

「えっと〜霞さん? 霞さんこそ実は『ただの委託販売』であること忘れていませんか?」

「あら。嵯峨野さんだってこのサークルの絵描きの『ただの妹』よね? 他人のことは言えないはずよ?」

「…………」

「…………」

「…………」

「……ほら三人とも、つまらない喧嘩してないで、少しは準備手伝ってくださいよ〜」

「「「【あんた|倫也|倫理君】は黙ってなさい!!!」」」

「…………はい。」


 霞さんが考えた最強の夏コミ計画『プランD』――

 それは、あたしとタキ君が売り子で、霞さんは不死川書店が用意した画集にサインをする。英梨々は紫姫アンジェのコスプレイヤー兼売り子のサポート……

 ……この人物こそがここのサークル『cutie fake』の本来の主、嵯峨野文雄と絶賛熱愛スキャンダル中の柏木エリだなんて、そんな風に認識する人は間違ってもいないだろう。うん、そのはずだ。そうに違いない。……多分だけど。

 それは、用意周到に練られた霞さんの完璧な(?)プランだった……。


 こうして、運命の夏コミ当日の朝を迎えたんだ。

 真夏の夏コミ会場は、既に気温と熱気がぐんぐんと上昇している。

 しっかり水分補給もしなくちゃね。


 それにしても朝からこんな意味不明な状況で、今日一日本当に持つのだろうか???

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る