終の巻 「紫嵐の里」

(13)力の秘密

『恨むならあの男を恨むべきよ。あの男が逃亡しなければ、館林忍軍は滅びずにすんだ。それだけは、本当よ』

『いやぁああーー!』

 

 この手にはまだ、あの女を突き刺した生々しい感触が残っている。

 光華ははっと目を開いた。

 心臓が早鐘のように鳴っている。額には冷たいじっとりとした汗が浮かんでいて、首まで水をかぶったように濡れている。


「ここは……」


 光華は布団の上に仰向けのまま、自分が寝ている部屋の天井を仰ぎ見た。

 部屋の中は薄暗いので、まだ夜は明けていない。が、月の光があるのか、縁側の障子がぼんやりと白く浮かび上がっている。


「そうだ……私……ついてきちゃったんだ。あの人達の里まで……」


 光華は再び目蓋を閉じて息をついた。

 あの戦いから、四日が過ぎた。

 寺で清月の体から薬を抜く解毒剤を飲ませた後、あの図体のでかい白髪の男、鬼伯が光華にこう言った。


『今回の仕事はなかったことにする。さ、あんたはもう俺達とは知らぬ者同士だ。追っ手がかからないうちに、早く立ち去れ』


 けれど光華はその言葉に従えなかった。

 仲間はみんなこの地で殺された。死んでしまった。

 館林から一歩も外に出たことがない自分。いきなり放り出されても、これからどうすればいいのかがわからない。どこにいけばいいのかわからない。


『鬼伯。光華殿は里に連れていく』

『清月……!』


 清月はまだ身動きができなかった。が、あの暗紫色の鋭い眼光は、鬼伯を従わせるだけの強い力に満ちていた。


 

 ――あの人は、どうして私を『紫嵐の里』へ連れて来たのだろう。


 光華は再び眠ろうと試みたが、その疑問が頭からずっと離れようとしないことで返って目が覚めていくのを感じた。

 『紫嵐隠密組』。

 彼等は大名には仕えず、他の忍軍の依頼を請けて、しかも人智を超えた力をもって仕事をこなす異能の集団――。

 彼等の姿を見た者はおろか、その数がどれほどいるのか、実体を知るものは皆無に等しいという。

 だが彼等の本拠地ともいえる『紫嵐の里』に、今、自分はいる。確かに。


 その時、傍らの障子がすっと開いた。

「……誰……?」

 忍びとしての本能で、咄嗟に布団から身を起こし、結い髪の中に隠している針へ手を伸ばす。

「あっ……」

 障子の側には白い着物に、紺の羽織を羽織った清月が立っていた。

 紫嵐の里にきて、この座敷に実質軟禁されて以来、清月の姿を見たのは初めてだった。


「すまなかったな。この離れにずっと閉じ込めて」


 清月の顔は逆光の影になっているので、その色までは読めない。だが口調はしっかりしており、自分を気遣う素振りが感じられた。

 光華は髪から手を放し、いいえ、と、頭を振った。

 なんだかほっとした。

 清月の具合がよくなったこともそうだが、何よりもその顔を見たことで、張り詰めていた気持ちがすっと楽になったような気がする。


 ――忘れられてたわけでは、なかったんだ。


「体はだるくないですか? 指先や足先は痺れませんか?」

「いや。もう良くなった。お主のお陰ですっかり薬は体から抜けた。礼をいう」


 清月が頭を下げると、その長い黒髪が、背後から射す月明かりに当たって水面のようにゆらめいた。


「そ、そんな礼だなんてとんでもない! 清月さんは私の依頼を果たそうと来てくれたのに、あんな目にあわせたのは私なんですから。私の方こそ本当にごめんなさい」


 光華はやおら立ち上がって叫んだ。立ち上がるとやっと清月の顔が見えた。

 そこには光華を憂えるような、そんな暗い感情がのぞいていた。

 だが目が合った次の瞬間、それは消え失せ、清月は光華を安心させるかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。


「光華殿。お主に見せたいものがある。少し私に付き合ってくれぬか」

「あ、はい……」


 清月が背を向けて、縁側から庭に下りていく。

 光華も戸惑いがちに、用意されてあった草履を履いて、その痩躯を見失わないように後からついていく。



 鬼伯達と一緒にここへ来た時は、目隠しをさせられた。

 紫嵐の里の場所を教えるわけにはいかないからと。

 だから光華は、喜々として外の景色を見つめながら、夜気を感じながら、月の光で青白く染まる辺りの風景に見入っていた。


 先程まで光華が閉じ込められていたのは、清月も言っていた通り、大きな平家の屋敷の庭に作られた、茶室として使われていた離れだった。

 屋敷も勿論大きかったが、光華は庭にも驚いた。庭にはさまざまな木が植えられていたが、中央にはひょうたんの形をした池が作られ、その真ん中にはこじんまりとした橋がかかっていたからだ。


「すごい……まるで公家くげの邸宅みたい」


 そうつぶやきながら、光華は思わず自分が立ち止まっていたことに気付いた。清月が庭の奥にある木戸を開けて後方を振り返り、光華に向かって手招きをするのが見えたからだ。

 遅れたことを詫びながら、清月に続いてその木戸を通り抜けると、そこは木々が深く生い茂る山がそびえ立っていた。


「こちらへ」


 清月が先をうながす。

 そこを見やると、人が二人並んで歩けそうな幅の苔むした石段が、山の頂上までまっすぐに続いている。

 光華は内心階段を登ることに抵抗があったが、清月に逆らうことはできない。そこで仕方なく、再びその後ろについて、古びた石段を黙々と上がっていった。


「疲れたか?」


 いつから伸ばしているのだろう。組み紐で一つに束ねられた濡れ羽色の長い髪が舞って、清月の白い顔が肩口からのぞいた。


「いえ、このくらい。大丈夫です」


 その言葉に偽りはない。光華は忍びなのだから。

 でも、なんとなく体が何かに上から押さえ付けられるような、威圧感を感じていた。この石段を上がりだしてから。

 しばらくして、清月と光華は石段を上りつめた。

 山の上には風があった。一瞬身震いする程の冷たい夜気が、光華の髪や頬をなぶりながら通り抜けていく。火照った体に、それは冷たくて心地よかった。


「うわぁ……」


 光華は清月が佇む、木々が開けた方へ歩いていった。そこから眼下を見下ろすと、四方を山々に囲まれた盆地が広がっており、所々、橙色の小さな明かりが、星のように点々と光っている。


「これが紫嵐の里……」

「ああ」


 正直光華は拍子抜けしていた。

 眼下に広がる『紫嵐の里』は、里とはとても言えない程、こじんまりとしたものだったからだ。

 右手に見える大きな平家の屋敷は、先程まで光華がいたそれだろう。その屋敷は周りから一段高い場所に立てられていて、その下に何軒かの小屋が連なっている。

 夜だから更に詳しい建造物はわからないが、幾つかの小屋は屋根が抜け落ちたり、今にも崩れ落ちそうなほど痛んでいるものもあるようだ。


「小さくて貧相な里だろう」


 光華はびくりと肩をそびやかした。背後で清月が低く笑っている。


「――昔は百人ほどの里人がいた。でも、数年前にある事件が起きて、その時に多くの里人が命を落とした。だから今は、二十人に満たないその時の生き残りが、私の屋敷に住んでいるだけなのだ」

「……清月さん」


 光華は急にいたたまれない気持ちになって、眼下の景色から目を逸らせた。


「事件って……何があったんですか? そんなに多くの人が亡くなったなんて……まさか」


 光華は『影王』の『お庭番』を思い出していた。

 同時に、清月自身がつぶやいた言葉も。



『何も、力のない者だけが、虐げられるのではない。私のように、人智を超えた力を持つ者もそうなのだ』

『現に光華殿、お主も私の力を欲したように、私の力を利用したいと思う連中はごまんといて、私はそいつらから身を隠しながら生きているのだ』



「まさか、紫嵐の里は誰かに襲われたんですか? あなたの使う『力』を欲する人のせいで」

 清月はじっと光華を見つめていた。

「そうではない。もっとも、その危険にはいつもさらされているのだがな」

 光華は恥ずかしさに顔が火照るのを感じた。

「ごめんなさい! 私、本当に思い込みが強くて」

「いや。あながちお主の言うことは、間違いではないのだ」

「えっ」


 光華ははっとして顔を上げた。同時に、急に夜気のせいで体が冷えてきたように感じる。今倭の国は初夏だから、山間とはいえど、こんなに冷え込むことはないはずなのだが。まるで雪でも降ってくるのではないかと思うくらい、頬に当たる風が冷たい。

 その時、清月がゆっくりと羽織を脱いだ。光華は我知らずのうちに、がちがちと歯を鳴らしていたからだ。


「寒いだろう。でも、もう少しだけ我慢して、ここから里の様子を見て欲しい」


 かすりの着物一枚しか着ていない光華は、清月のぬくもりが残る羽織を肩からまとい、その暖かさにしばし安堵した。

 そして清月の言う通り、朧げな月影が射す里を再び見下ろした。

 里が霞んで見える。

 否、霧だ。先程までなかった淡い紫色を帯びたそれが、冷たい夜気と共にどんどん里の東側から流水のごとく流れ込んでいく。さながら湖に水がたまっていくように。

 光華は羽織の袂を引き寄せて、再び大きく身震いした。霧が深まると共に夜気がとても冷たい。どんどん周りの気温が下がって、体の芯まで凍えてしまいそうだ。


「清月さん。あなたが私に見せたいものって、この光景なんですか?」


 唇を震わせてそう言うと、清月は黙ったままゆっくりとうなずいた。


「そう。この霧を見て欲しかった。この地に住まう我らは、一定の期間、紫霧に触れることで、人智を超える力を操れるようになった」

「えっ」

 光華の動揺をよそに、清月は夜気を静かに吸い込んだ。


「里のある場所から、この霧は発生してここまで流れてくる。毎日」

「ま、毎日? けど……何故こんなに霧が冷たいの? 体の中まで凍って、感覚が麻痺してしまいそうだわ」


 一生懸命二の腕を擦る光華を、清月は急に真剣な面持ちで睨み付けた。


「霧をなるべく吸い込まないように。これはただの霧ではない。死の気配を伴った『黄泉の気』なのだから」

「黄泉の気……?」

「そう」

 清月は短く応え、うなずいてみせた。

「紫嵐の里には、『黄泉』へと通じる入口がある。そこからわずかだが、『黄泉の気』が漂い、里へ流れ込んでくるのだ」

「えっ?」


 光華は一瞬我を忘れた。

 黄泉というのは、いわゆる死者の世界のことだ。普通生きている人間には無縁の場所で、まして行こうと思っていく場所でもない。


「ほ、本当なんですか? そ、それって」


 動揺する自分が馬鹿みたいに思える。目の前の清月はいたって涼やかな顔で、光華の顔をながめているから。


「本当だ。お主も私の術をみただろう。私の冷気は、この『黄泉の気』と同質のもの。触れればすみやかにその命を奪うことができる」


 光華は黙ってうなずくことしかできなかった。

 清月がこれだけの秘密を明かしてくれたこともさることながら、その横顔からみるまに穏やかさが消え失せ、まるで嫌悪するかのように唇を歪めるのを見たからである。


「……大きな力だ。これは、一介の人間に与えられるべきものではない」


 己に言い聞かせるような、そんな口ぶりで吐き捨てたあと、清月が羽織の袖をひっぱったので、光華はその後について再び歩いた。

 どうやら風上に移動して、直接夜気に当たるのを避けるようだ。

 大きな栗の木の下で、再び清月は立ち止まった。

 その顔は霧が流れてくる、東の山の稜線へと向けられている。


「我らは……本来の我らは、この地上に口を開く、黄泉の入口を護る『守部(もりべ)』なのだよ。生きた人間が迷いこまないように。黄泉の幽鬼どもが、生者の世界に溢れ出ないように。それ故我ら紫嵐の里に生まれた者は、霧に触れても命を落とすことなく、反対に黄泉の気を操ることができる。しかし……私は……」


 清月はうなだれ、右手を伸ばして木に体を預けた。

 その肩がゆっくりと上下する。


「私にはできなかった。『守部』として生きることが。『守部』として生きるということは、俗世と接触を断ち、この里から一歩も外に出ることなく生涯を終えるということなのだ。私はこんな力のために、己の生き方を定められたくなかった。生きている『死人』にはなりたくなかった」

「清月さん……」


 清月は小さくため息をつき、ゆっくりと光華の方へと振り返った。


「どうだ? 私の力の秘密を知った気分は」

「えっ」


 清月の問いは唐突だった。

 もとい、その話すべてが一方的なものだった。

 戸惑う光華の様子に、清月は柳眉をひそめながら、その暗い瞳に月影を宿して口を開く。


「光華殿。お主は私のせいで、多くのものを失った。お主が一族を護るために、力が欲しいと望んだ気持ちは痛い程よくわかる。だから、今一度、訊ねてみたい」


 清月の手が光華の肩にかかった。じっとその顔をのぞきこむ。


「お主が望むのなら、私の力をもって『黄泉の気』を操れるようにしてやれる。どうする?」

「……」


 光華は夜気のように深々とした清月の瞳をのぞきこんでいた。

 胸の奥でくすぶっていた感情が、一気に燃え盛る炎のように溢れてくる。

 父上。

 夕香姉さん。三郎太……。

 何も知らず死んでいった、館林忍軍の皆――。

 炎の中で、多くの顔が浮かんでは消えていく。

 そして、忘れもしない『あの女』。

『館林忍軍に謀反の疑いがあり――。そう密書にしたためて、梶尾藩主に渡したのはこの私』

 蛇のように冷たい目をした影王の『お庭番』。

 ――皆を助けることはできなかった。

 でも、あの女はまだ生きている。皆の命を奪ったあの女は……!!


 ああ。憎しみのあまり身が焦がれてしまいそうだ。

 光華は唇を噛みしめ、両手で肩を抱いた。


「……その力があれば、あの女を殺すことはできるわよね」

 押し殺したその言葉に、清月は眉一つ動かさない。

「できるだろう。お主の鍛練次第にもよるが」

 光華はのろのろと顔をあげ、けれど右手をこめかみに添えて、大きく肩で息をついた。

「だったら、私――」


『光華。お前は皆を連れて逃げのびよ』


「光華殿」

 光華はゆっくりと清月から後ずさった。小さく首を振る。


「私は間違っていた。確かに、皆を九十九衆の追っ手から守るために、奴等を壊滅させるためにあなたの力が欲しいと望んでいた。でも、父上は私に『逃げろ』と言われた。『逃げのびよ』と言われた。主君と頭を失った私達は、もう『忍軍』としては生きられないからよ。なのに私は、『忍』としてもう一度生きたいが為に、九十九衆と戦う道を選んでしまった。私が『忍』として生きることを捨てていたら、皆は死なずにすんだのかもしれない。全員は無理だったかもしれないけれど、今みたいにひとりぼっちにはならなかったかもしれない」


 光華は込み上げてきた涙を拳で払い、ひたと目の前に佇む清月の顔を見つめた。


「だから私。戦うための力なんてもう欲しくはない。あなたの恐ろしい力なんて欲しくはない。もう、あんな思いをするのは沢山なの!」

「……」


 清月はそっと光華に向かって歩み寄った。

 涙ですっかりくしゃくしゃになった少女の顔に向かって大きくうなずく。


「そう。それでいい」


 光華はまだしゃくりあげている。

 清月は右手を伸ばし、その細い肩を己の袂へ引き寄せた。


「それでいい……」


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