(12)影
「その綺麗な顔をこれで切り刻んでやろうかしら。影王様は生かして連れてくるように仰ったけど、あなたの顔を二目と見られぬ醜悪なものに変えてやったら、気持ちが変わられるかもしれないわ」
「光華を逃がしてくれたら、そうしてくれてもいいぞ」
「……ぷっ!」
「清月。あなたは短い間だったけど、『お庭番』だったことをすっかり忘れてしまったようね。私の姿を見た上に、館林忍軍が滅んだ理由を知ったあの子を、今更見逃すなんてできるわけないじゃない!」
珠蓮はやおら光華の方へ振り向いた。
右手に握りしめたかんざしを後方へと振りかぶる。
――バサバサバサ!!
「……きゃっ!」
光華の両目を狙って放たれた珠蓮のかんざしを、突如舞い降りてきた一羽の梟がその太い足で掴んだ。
「何!?」
梟は羽音一つ立てず、そのまま珠蓮の顔めがけて飛びかかる。
「
梟と格闘しながら、珠蓮が光華の喉に短刀を突き付けた配下の一人へ叫ぶ。
が、珠蓮が火影と呼んだ男は、その命に従うことができなかった。
梟が飛んで来たと同時に、一陣の風が横から吹いてきて、傍らに生えていた竹が一斉に切り倒されたのだ。
「うわっ!」
倒れる竹が光華たちの頭上めがげ迫ってくる。
「ああっ!」
珠蓮の配下である二人の男は、光華を突き飛ばすように離れると、倒れてくる竹から逃れようと走りだした。光華は地に倒れていた。
早くここから逃げないと。
竹に押しつぶされてしまう。
「そのままじっとしてろ。館林のお嬢ちゃん!」
光華は自分に向かって放たれた声に、内心ほっとした。
体を動かそうとしても恐怖のあまり、足がすっかり萎えて動けなかったのだ。
「魔風斬!」
力強い男の声が竹林に木霊したかと思うと、鋭利な空気の塊が光華の頭上をかすめていった。
「……!」
濃い血の臭いがする。
誰かの断末魔の悲鳴と共に、どさっと崩れ落ちる音が聞こえ、光華の頭上に降り注ぐはずの竹は、遥か先の荒寺の塀に深々と突き刺さっていたのだった。
「お頭っ!」
「清月!」
清月は
「うっとおしい!」
珠蓮は狙いすました一撃で、梟の胸にかんざしをうずめた。
ぱっと白い煙がその体を包み、やがてひらひらと白い紙吹雪が辺りに舞う。
「おうおう。誰かと思えば、影公の『お庭番』か」
鬼伯は清月の前に立ち、長い白髪を揺らしながら左手の鎌を背中に振りかぶった。
「あーあ。おいらの『式』を。こうなったらとっておきを出してやるからね」
小太郎は着物の袖から、一枚の青い札を取り出した。
息を吹きかければ、いつでもここに描かれた鬼が実体化して目の前に現れる。
珠蓮はかんざしを顔の前で油断なく構えていたが、ふふっと小さく笑い、観念するかのように頭を振った。
「私だって引き際というのは心得てるよ。紫嵐隠密組の三人を一度に相手にする気はない。だから……」
その作り物めいた顔が一瞬引きつった。切れ長の目が瞬きを繰り返す。
「いやぁあっ!」
朱鷺色の着物の袖を舞わせて、珠蓮の体が後方へ大きく仰け反った。その胸からは白い刃がぬっと突き出ている。
「えっ……」
小太郎と鬼伯は思わず感嘆の声を漏らした。
光華だった。
光華が珠蓮の背後から、抜きはなった清月の刀で、かの女を深々と突き刺したのだった。
「よくも、よくも皆を……!」
枯れてしまったと思っていた涙を、すっかり泥まみれになった頬に伝わせながら、光華は深く深くその刃を珠蓮の体に押し込んだ。
珠蓮は光華にもたれるように、仰向けのまま、カッと両目を見開いている。
「いかん。鬼伯、光華を珠蓮から離せ!」
清月は鬼伯に叱咤した。
「わかった」
鬼伯がそう返事をした途端、刃が突き出ている珠蓮の体から、黒い霞のようなもやのようなものが吹き出した。
それはまるで生を持つように、大蛇のような形になりながら、ぐるりと光華の体を取り囲んでいく。
「くそっ! そうはさせない」
鬼伯は鎌を振りかぶり、黒い霞を斬り払った。辺りに四散したそれは、再び寄り集まり、元の形に戻ろうと動き出す。が、その前に鬼伯は光華の体を右手で抱え、珠蓮から離れながらその体を蹴り飛ばした。
これで光華の身は安全だ。
それを見て清月は小太郎に叫んだ。
「小太郎。あの黒い霧の蛇を逃すな。捕らえろ」
「合点!」
小太郎は着物の袖から赤い札を三枚出すと、それを黒い霧の蛇と化した珠蓮の足元めがけて投げ付けた。札は三角形の陣を描いて、青白い光の柱となり、黒い霧を閉じ込める牢へと変化した。
「清月」
光華を抱えたまま、鬼伯が後方を振り返る。
清月は上半身を起こして、かつて珠蓮だった黒い霧の蛇めがけ、今放てるだけの冷気を飛ばした。
霜が竹の表面にびっしりとついた。キンとした肌が痛いほどの冷気が黒い霧の蛇を一瞬で凍らせる。
「おらぁっ!」
鬼伯は背後に振りかぶった鎌でそれを一閃した。常人の目からみれば、一度だけ鎌が振り下ろされたとしか見えないが、それは一瞬の内に数十回も振り回されていたのだった。よって霧の蛇は粉々に砕け散り、数えきれないほど細かな氷になって四散した。
やがてそれは朝の光に当たって蒸発を始め、瞬く間に辺りから消え失せてしまった。
「なっ……なんなの。あの女、に、人間じゃなかったの!?」
鬼伯に抱えられたまま、光華はおぞましさと目の前で見たものが本当に起ったことか信じられず、細い肩を小刻みに震わせていた。
「影だ。あの女の実体は……ここには、ない」
清月は再び痙攣を始めた右腕を左手で押さえ、思わず頭を地に沈めた。
「――影公の『お庭番』だから、影をも操るってことか。まったく気色の悪い連中だぜ」
鬼伯が吐き捨てるようにつぶやいた。
「影を消滅させてやったから……我らが館林にいることは影王に知られても、それ以上のことを知られることは、ない」
清月は長い息を吐いた。
影王には決して自分の所在を知られてはならない。紫嵐の里のためにも。そこに住む者達の命が脅かされないためにも。
「お頭。顔、真っ青だよ。大丈夫?」
清月は知らず知らずのうちに閉じていた目を開けた。
傍らにしゃがみこんだ小太郎が、顔をしかめてこちらをじっと見つめている。
「大変。だいぶ血の流れが悪くなってるみたい。早く薬を抜かなくっちゃ!」
光華が慌てたように四方を見回す。
「薬だってぇ~!? ねーちゃん、お頭に何を盛ったんだよ! おいらたちは館林忍軍の依頼を受けるために、はるばるここへ来たっていうのに、ひどいじゃないか!」
小太郎が思わず光華の腕を掴む。
「ご、ごめんなさい。本当に悪かったって思ってるわ。大丈夫、寺に解毒剤があるから、それを飲ませたらすぐによくなるわ」
「ま、自業自得ってやつだな。言っただろう? 今回の仕事は蹴ったほうがいいって。俺の言うことを聞かないから、そんな目にあうんだぜ、清月?」
鬼伯はまるで説教をする寺の住職のように、胡座をかいてその場に座ると両腕を組んだ。清月の顔に笑みが浮かぶ。最も笑う余裕なんてないのだが、鬼伯のがらにもない真面目くさった表情が可笑しくて、笑わずにはいられなかったのだ。
「そうだな。今回はお主の言うことが正しかった」
「よく言うぜ。いつだって俺の言うことはきかないくせに」
鬼伯はげっそりした面持ちでそうつぶやきながら、よっこいしょと腰を上げた。
「いつまでもこんな所にいちゃ危ないよ、鬼伯」
小太郎が鬼伯の黒い虚無僧の袖を引っ張った。
「ああ。またいつ影公の手下どもが来るかわからないからな」
鬼伯は手にしていた鎌を再び念珠へと戻し、袂にしまいこむと、清月の体を肩に担ぎ上げた。
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