青坊主 ~あおぼうず 最終回



 数日後。

 相変わらず居候いそうろう生活を続ける青児せいじのスマホに、佐織さおりさんからメールが届いた。なんと〈首吊りトイレ〉と呼ばれるあの公衆トイレで、沙月さんの首吊り死体が見つかったと言うのだ。換気用の窓にショルダーバッグの紐をかけ、遺書の一つも残さないまま。

〈何かご存知ありませんか? 思い当たることがあったら何でも教えてください〉

 そんな風に結ばれたメールからは、激しい動揺が感じられた。

〈見ててください。あの子、不幸になりますから。近いうちに必ず〉

 その言葉通りになったのに、そこにあったのは、ただ混乱と後悔だけだったのだ。

 そして三時のお茶の時間を迎えて、

「そうですか。残念ですね」

 紅く淹れた紅茶を口にした皓は、メールの文面を読み上げた青児に、そんなコメントを返した。その顔に動揺はない。まるで予測済みの未来を知らされたかのように。

「あの、つまり沙月さんは、この屋敷を出た直後に首をくくったんですよね?」

「ええ、そうなりますね」

「良心が咎めたってことなんでしょうか? けれど自殺する感じじゃなかった気がして」

「さて、本人にその気がなくても首をくくってしまうことだってありますからね」

「……冗談ですよね?」

「さあ、どうでしょう」

 ふふっとしろし少年は笑った。例によって、わかったようでわからない返事である。それよりも、と青児は二通目のメールに目を落とした。何よりもまずわからないのは――。

沙月さつきさんの遺体から、赤ん坊が見つからなかったそうなんです」

 自殺の知らせを受け取った時、まず青児はお腹の赤ん坊の安否を訊ねた。十中八九、死んでしまったに違いないだろうが、それでも万が一の奇跡があればと。

 しかし佐織さんから返ってきたのは予想もしない一言だった。

〈妊娠はありえないと思いますよ。だって自殺した時、沙月は生理になってましたから〉

 そんな馬鹿な。それこそありえない話ではないか。

 そう青児が訴えると、ふふ、と皓は小さく笑って、

「なるほど、青児さんは馬鹿なんですね」

「ば」

 不意打ちのアッパーカットを食らった青児は、しばらく口を利くこともできずに固まった。なぜ今このタイミングで暴言を浴びねばならないのか。

 一方、生身の彫像と化した青児にかまわず、ゆったりとティーポットから二杯目の紅茶を注いだ皓は、香りを楽しむように目を細めて、

「おかしいとは思わなかったんですか? てっきり僕は、青児さんも気づいているとばかり思ってたんですが」

「な、何をですか?」

「沙月さんは、はなから妊娠してなかったんですよ」

「は?」

 思わず豆鉄砲をくらった鳩のごとき反応をしてしまった。

「思いこみによる妄想――想像妊娠の一種と言えるかもしれませんね。ほら、思い出してください。初めてこの屋敷で会った時、彼女は産院に向かう途中だと話してましたよね? けれど彼女がはいていたのは、だったんです」

「あ」

 なるほど、あの時の違和感の正体は、彼女の足元にあったわけか。

「それに、この近くに産婦人科はないんですよ。あるのは心療内科だけなんです」

「それじゃあ、彼女は」

「ええ、〈妊娠している〉という妄想を治療するため、カウンセリングに通っていたんでしょうね」

 しかし症状は一向に改善せず、そんな彼女を持て余した夫は、次第に帰宅を避けるようになり、その孤独感が症状の悪化に拍車をかけた。これこそが、彼女を悩ませ続けた胸騒ぎの正体だったのだろう。

「人を一人死に追いやっておいて、何もなかったことにするのは無理があるんですよ。罪悪感、後悔、自責、不安、罪の発覚への恐れ。そうした感情が歪みとなって体に宿ってしまったんです」

「じゃあ、そのせいで沙月さんは死んでしまったんですね」

 どこかほっとした気持ちで青児は呟いた。

 沙月さんを死に追いやったのがあくまで彼女の良心だったなら、直前にこの屋敷で皓と会話を交わしたことは、何も関係なかったことになる。

 けれど――。

「さて、そろそろ青児さんにも話しておくべきでしょうね」

 カツン、とティーカップの底を鳴らして、皓は柔らかに微笑んだ。

 なぜかその笑みが急に不吉なものに思えて、青児は無意識のうちに椅子を引いた。ギッと悲鳴にも似たきしみが聞こえてくる。

「ここで一つおさらいです。青坊主という妖怪の特性は、その問いかけにあります。拒絶か承諾か、相手に選択肢を委ねるんですね。無視すれば首をくくられますが、きちんと拒絶の返事をすれば、何もしないまま消えてしまうことがほとんどなんですよ」

「は、はあ、そうなんですか」

「その点、さらに恐ろしいのが〈縊鬼いつき〉でしょうね」

「……縊鬼、ですか」

 江戸の昔に伝わる話だそうだ。

 とある酒宴で、遅れて来た客の一人が「急用があるので断りに来た」ととんぼ返りしようとした。様子がおかしいで訳を訊ねると「喰違門くいちがいもんで首をくくる約束をした」と言う。酒を呑ませて引き止めたところ、やがて喰違門で首吊りがあったという報せが届き、その客は命拾いをすることができた。

「つまり縊鬼というのは一種のき物なんですよ。人に取り憑いて悪い心を起こさせる魔物は、総じて〈通り魔〉と呼ばれますが、縊鬼の場合、首吊り自殺者の怨霊が冥府で苦しむ自分自身の身代わりにしようと、見知らぬ他人に憑いて首をくくらせるんです。一度憑かれてしまえば、拒絶する術はありません」

「あのー、一向に話が見えて来ないんですが」

 焦れた青児がそう切り出すと、皓はにこっと笑顔を見せて、

「青児さんは〈首吊りトイレ〉という怪談を覚えてますか?」

「はあ、佐織さんのブログのやつですよね。公園の公衆トイレで、次々と人が――」

 首を、と続けようとした時だった。

 皓の手にしたティーカップ、その円くて紅い水面に、ざんばら髪をした老婆の首吊り死体が映っているのに気づいて、青児はガタリと立ち上がった。

「な、な、な!」

「おや、ようやく気づきましたね。今、青児さんが見たのが縊鬼いつきなんですよ」

 あっけらかんと言った皓に、青児は茫然ぼうぜんと凍りつくより他になかった。

「結論から言うと、〈首吊りトイレ〉の怪談は、縊鬼の仕業なんですね。これまで一度も現場に遺書が残されなかったのは、首をくくった本人にそのつもりがなかったからなんですよ」

「な、え?」

「先日、佐織さんとお会いした帰りに例の公衆トイレに寄ってみたんですね。すると、やはり縊鬼がいました。だからこの屋敷まで連れ帰って、沙月さんに憑いてもらったんですよ」

 さえずる声は、天気の話でもするようなほがらかさだ。

「ど、どうして」

「それが、彼女の罪に対する罰だったからです。だから、地獄に堕ちて頂きました」

 喘ぐように訊ねた青児に、至極しごくあっさりと皓が答える。

 そんな馬鹿なと否定したいのに、今この部屋の天井には、皓が連れ帰ったという縊鬼がいる。けれど、理性や常識すら超えた根源的な恐怖が、目の前の現実を拒んでいた。

 この少年は、一体何者なのだろう?

「ところで青児さんは、現世にも地獄の鬼が現れることがあるのを知っていますか?」

「い、いいえ」

「本来、地獄の鬼は冥府めいふばかりでなく現世にやってくる存在でもあったんです。悪人たちを生きたまま火焔燃えさかる車にのせて、閻魔えんま大王のもとに送り届けるんですね。しかし現在、その役割はおろそかになっています。なにせ獄卒の数は限られているのに、亡者は増え続けるばかりですから」

 そこで、と皓は指を一本立てると、

「閻魔大王のとった対策が、業務の一部を肩代わりさせることだったんです。当世風に言うとアウトソーシングですね。その出張所として、この屋敷にはある呪いがほどこされてるんですよ」

 夜叉やしゃの面よりも皓いその顔で、ふふ、と笑った。

「逢魔が刻になると、その身に罪を秘めた罪人が、知らず知らずの内にこの屋敷へと引き寄せられます。そのどれもが警察の手を逃れ――あるいは罪そのものが露見することなく隠しおおせた罪人たちです。その罪を暴いて地獄に堕とすのが、ここにいる僕の仕事というわけです」

 ふと思い当たることがあった。

 初めてこの屋敷に足を踏み入れた日、青児に仕事の内容を問われた皓が、初めて口にしたあの言葉――。

「じゃ、じゃあ、まさか代行業って言うのは――」

「ええ、代行業です」

 きっぱりと皓が答えた。

 悪い冗談としか思えない。けれど現に人が死んでいるのだ。

「ただ今回の沙月さんのように、同情の余地があると認められた相手には、裁定を下す前に、必ず一度は贖罪しょくざいの機会を与えることにしています。残念ながら、滅多に受け入れられることはないんですけどね」

 そうつけ加えた皓の顔は、どことなく淋しげだった。

「い、今まで一体、何人が――」

「全部で二十二人ですね。いえ、沙月さんを含めて二十三人になりました。最終目標は百人ですから、まだまだ先は長いんですけどね」

 苦笑するように言ったその顔は、珍しく自嘲じちょう的なものにも見えた。

「さて、青児さんは〈稲生物怪録いのうもののけろく〉という怪異譚たんをご存知ですか?」

「い、いいえ」

「おや、有名な話なんですけどね。後に武太夫と名乗る三次みよし藩士の平太郎へいたろう少年が、十六歳の頃に体験した怪異を集めた話なんですよ。あまりに荒唐無稽こうとうむけいなので創作と見なす向きもありますが、実は登場人物全員の実在が確認されている実話なんです」

 比熊山での肝試しによって、妖怪たちの不興を買った平太郎は、それから三十日間、さまざまな化け物の襲撃を受けることになる。そして最後に現れたのが〈魔王〉と名乗る山本五郎左衛門だった。平太郎少年の勇気を褒めたたえた魔王は、その手に褒美の木槌きづちを手渡し、家来の妖怪たちを率いて去って行く――。

「僕の父親は、その山本五郎左衛門ごろうざえもんなんですよ。普段は素性を隠すため、母方の姓を名乗ってますけどね」

「そんな、じゃあ、まさか妖怪たちの親玉――」

「――の、跡取り息子ですね」

 にっこり笑って皓が断言した。あくまでたおやかなその微笑みに、青児は悪寒と動悸どうきを同時に感じる。

「より正確を期すなら〈親玉と目される内の一人〉に過ぎませんけどね。たとえ肩書きが魔王であっても、同格の競争相手がいる内は威張ることもできませんから、そうなれるよう鋭意努力中といったところです」

 苦笑するように皓が言う。そして、まっすぐ青児の顔を覗きこんで、

「さて、そこで青児さんにお願いがあります。できれば僕は、この先も青児さんに助手をお願いしたいと思っているんですが」

「も、もしも断ったら?」

「断りませんよ、あなたは。それはわかってるんでしょう?」

 見透かしたように皓が笑った。

 三日月の形に歪んだ唇は、人形のように美しく整いながらも、般若の面をかたどったものに感じられる。たとえどんなに見目麗しくとも、薄皮一枚剝げばその下から現れるのはぬらぬらと血に濡れてわらう鬼の顔だ。

 逃げたい。

 そう思うのに足の裏が床にへばりついて動かなかった。まるで悪夢だ。夢を見ていると知りながら目覚めることができない。

 けれど、選択肢は一つきりだ。

 板子一枚下は地獄と言うが、今やぽっかりと足裏に穴があいたのを青児は感じていた。底知れない虚無と絶望のその闇は、目の前の少年の瞳と同じ昏さをたたえている。

 つまり文字通り地獄のような目に遭いたくなければ、百魔の王であるこの少年のもとで、助手として働くより他ないのだ。

 けれど地獄の鬼と共に亡者を呵責する日々は――苦悶する罪人たちを目の当たりにしながら、いずれ下される裁きに怯え続ける日々は、まさに生き地獄ではないだろうか。

「もしも、俺がこの先、何か罪を犯すことがあったら――」

 我知らず口にした問いかけに、皓は「おや」と小首を傾げた。

 そして白牡丹はくぼたんが狂い咲くように笑いかけると、

「その時は、よろずわざわいがあなたをお待ちしています」

 直後に青児は、この少年がなぜ牡丹の花を身にまとうのかわかった気がした。

 

――百禍ひゃっかの王だ。


                             青坊主 了



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【路生よる】新人賞受賞作を特別連載!『折紙堂来客帖』(富士見L文庫) &『地獄くらやみ花もなき』(角川文庫) 路生よる/角川文庫/富士見L文庫 @lbunko

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