傘さし狸と迎え人 ――蛙――15
しばらくして。
胸に一幅の掛け軸を抱えた羽根川の背中が、茜辺原の鳥居をくぐる。
それを見送った漱也は、胸につかえた重しがとれたのを感じた。他人事ではあるが、長年におよぶすれ違いが解けたそのことが、ただ嬉しくて仕方がない。
カア、カア。
遠く近く、離れ森のねぐらに帰ってきた鴉たちの声が聞こえる。
午後六時を迎えたのか、町役場のスピーカーから〈家路〉のメロディが流れ出した。老朽化のためか、ところどころ音が割れているのが物悲しい。
(しかし、たった一日で本当に色んなことがあったな)
軽く背のびをして、漱也は胸の内でそう呟いた。思い返しても、にわかには信じられない心地がする。本当なら今頃、アルバイトの面接を終えて……面接?
(しまった――!)
さあっと頭から血の気が引く。
一連の出来事に気を取られて、面接の予定をすっかり忘れてしまっていた。しかも携帯をマナーモードに設定したまま、スクールバッグの中に入れっ放しだ。
慌てて引っ張り出すと、面接先のコンビニから数件着信が入っていた。
そして、留守電メッセージを再生した漱也は「えーでは本日の面接はキャンセルということで」という担当者の声を聞いた瞬間、その場にがっくりと膝を折った。
「えーと、そもそも、どうしてアンタはウチの店に来ることになったんです?」
見てはいけないものを見てしまった痛ましさをこめて蒼生が訊ねる。
どう答えたものかしばらく迷った。真っ黒なお化けが出たなんて笑われるのがオチだろう。しかし漱也は、半ばヤケを起こした心持ちで、この場所へ来るまでの経緯を包み隠さず打ち明けた。
しかし。
「黒いお化け、ね」
予想に反して、蒼生は考えこむ顔つきをした。眉間に一本、深い縦皺が刻まれている。
「厄介そうな相手なのか?」
「いえね。そうとも言いきれないんですが……さて」
腕組みをしてしばらく唸ると、やがて両手を打ち合わせて、
「よし、こうしましょう。アンタ、ウチで働きませんか?」
蒼生が指さした先には一枚の張り紙があった。
文面は、至ってシンプルだ。
――助手募集中。条件応相談。
「……助手?」
「まあ、身も蓋もなく言えば、雑用係なんですけどね」
つまりアルバイトの募集ということらしい。
「時給八五〇円で」
さりげなく最低賃金だった。なにげにシビアだ。
「そうして繋がりを作っておけば、何かあった時すぐにこの店に駆けこめるでしょう。相手の正体がわからない以上、用心するに越したことはないですからね」
と言って、蒼生はすっと片手を差し出した。
「高校の授業もあるでしょうから、週に一度、今日と同じ土曜日でかまいませんよ。この店で町の人を雇ったという前例はありませんが……とりあえず、初仕事としては上出来の部類じゃないですか?」
そんな不器用で遠回しな賛辞に、自然と頬がほころぶのを感じる。切実にバイト先を探していた漱也にとっては、まさに渡りに船でもあった。
それに、と胸の内でつけ加える。
漱也にとって、今やこの折紙堂こそが、ほとんど唯一とも言える父親との接点だった。たとえ店主の蒼生から聞き出すのは難しくても、この店でアルバイトを続けていれば、何らかの手がかりがつかめるかもしれない。
今どこで何をしているのか。そして、どうして漱也を捨てたのか。
「ああ、よろしく頼む」
短く応えて、漱也は差し出された手を握り返した。
そうして折紙堂の助手となった少年に、その雇い主となった青目の少女もまた、花の蕾がほころぶようにして笑ったのだった。
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