傘さし狸と迎え人 ――蛙――11
午後五時。
日没前の時間帯とあって、薄暮の色に染まった商店街は、夕飯前の買い物客で賑わっている。その一角に立つ漱也の前には、豆腐屋の店主の姿があった。
「あん? 化け狸?……いやあ、知らねえなあ」
昔は泣く子も黙る札つきのワルだったと噂の店主は、今なお悪役レスラーのごとき凄味のある禿頭をつるりと撫でると、
「うーん。ウチのじいさんが生きてりゃなんとかなったかもしれねえが、俺が族抜けした途端、安心しきってポックリ逝っちまってよ。とりあえず、後ろのじいさんばあさんに訊いてみたらいいんじゃねえか?」
振り向いた漱也は、思わず固まってしまった。
モンペ姿に腕カバーをした畑仕事スタイルの林梅代さん(七十三歳)。おしゃれな花柄のシルバーカーを押した滝村ヨネさん(八十二歳)――と、漱也にとっては顔馴染みのご近所さんたちが、なぜかずらりと勢揃いしている。
「ど、どうしたんですか?」
「どうしたってお前、漱の字が豆腐屋のせがれに絡まれてるって聞いて加勢に来たのよ。まさかカツアゲされてんじゃねえだろうな、おい?」
そりゃねえよ、とぼやく店主をじろりとにらみつつ口火を切ったのは、お隣の柴田勝五郎さん(六十二歳)だった。源之助の幼馴染で、還暦を超えた今となっても、老人会のカラオケ大会で〈男の友情〉をデュエットで熱唱する仲らしい。
「いえ、あの、違うんです。実は高校の宿題でこの辺りの昔話を調べてまして、それで化け狸について聞いてたんですが――」
慌てて店主の冤罪を晴らした漱也は、即席の口実をでっち上げつつ、羽根川から聞いた話をかいつまんで伝えた。
すわ一大事かと身構えていた面々は、たちまちほっと相好を崩すと、
「そうかそうか、感心感心」
「ほんと漱ちゃんは、今どき珍しいくらい真面目だねえ」
「そうだよお、自治会の行事にもマメに顔出してくれるし、草刈りも嫌な顔せず引き受けてくれるしね」
「源之助さんが羨ましいねえ」
「そうだ、漱也くん、ウチに寄ってきなさい。お舅さんなら昔話を知ってるし、実はウチの孫娘がちょうどアンタの一つ下でね。そろそろ彼氏が欲しいって――」
「おい、ババア、抜け駆けすんじゃねえ! ウチなんか鼻水垂らしたガキの頃から、ゆくゆくはお互いの孫を許嫁にと――」
「ふん、なにさ、そんなの時効もいいとこだよ」
「ねえ、漱ちゃん。なんならウチの姪っ子の子供なんてどうだい?」
なごんだ空気から一転、バチバチとそこかしこで不穏な火花が散り始める。
〈お前、じいさんばあさん世代にモテるタイプだよな。ちょっと困るくらいによ〉
かつて源之助が溜息を吐いていた理由が、ようやく漱也にもわかった気がした。
……肝心の孫世代にモテた例しがないのは泣くしかないと思うけれど。
明後日の方向に転がりかけた話をどうにか戻すと、どうやら化け狸については誰も心当たりがないらしい。
思わずがっくり漱也が肩を落とすと、
「おお、そういえば」
ぽんと膝を打つ音がした。
向かいにある煙草屋のご隠居だ。今どき珍しく山羊ヒゲの似合う粋な着流し姿で、軒下のベンチで将棋をさしている。
「いやなに、関係ないとは思うんだがね。漱也くんの話で、ちょっと思い出したことがあってな」
と自慢の顎ヒゲを引っ張るご隠居に、
「ぜひ教えてください」
意気ごんで身を乗り出したものの、正直さほど実のある話でもなかった。
「御免なあ、役に立てなくてよ」
しきりと恐縮するご隠居に「いえ、ありがとうございました」と頭を下げて、今度こそ漱也は商店街を後にした。そして結局、収穫と言えば――。
「……アンタ、凄腕の托鉢僧かなにかですか」
呆れ顔で言った蒼生の前には、両腕いっぱいに駄菓子を抱えた漱也の姿があった。
聞きこみが不首尾に終わったことに同情したご近所さんに「よかったらこれ持ってきなさい」「じゃこれも」と次々押しつけられた戦利品の山である。
「まったく子供の使いじゃないんですから」
そう文句を言いながらも、早速包み紙の一つを開けた蒼生は、カラコロと口の中で飴を転がして、なかなかご満悦の様子だった。どうやら甘味好きらしい。
しばらくして漱也から事の顛末を聞いた蒼生は、
「じゃあ、結局、収穫なしってことですか」
そう落胆したように溜息を吐いて手中の急須を傾けた。たちまち、ほのかな湯気と共に爽やかな香りが立ち上る。煎茶だった。
場所は、先ほどの小上がりだ。
気がつくと蒼生の手には、漱也の買ってきた栗どら焼きがあった。ふんわりと焼き上がった皮を割ると、ぎっしりと詰まった小豆の中から、ごろっと栗の甘露煮が現れる。
ほくほくと頬張る蒼生の顔は、別人のようなご機嫌ぶりだ。しかしその直後、牙を剥いた虎さながらに「あげませんよ」と威嚇されたりもしたのだが。
「あ、そういえば」
ふと思い出して漱也は言った。
「たぶん関係ないと思うんだが」
そう前置きして煙草屋のご隠居から聞いた話を伝える。
てっきり「そりゃ蛇足ってもんですよ」とバッサリ切り捨てられると思いきや、「ふむ」と蒼生は考えこむように腕組みをした。
「なるほど、だいたいの見当はつきました」
「え?」
「ま、しょせん当て推量ですがね。しかし、これ以上ああだこうだと言い合っても仕方ないでしょう。早速、答え合わせといきましょうか」
言いながら、蒼生は懐から二枚の折り紙を取り出した。たちまち二羽の小鳥が折り上げられる。感心したのは、床や机などの平面を台にすることなく、空中に浮かせて折っていることだった。おそらくこれこそが玄人の技なのだろう。指先には一寸の狂いも見えず、折り目の一つ一つが美しい。
――思えば、不思議だ。
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