傘さし狸と迎え人 ――蛙――9
今から十五年前。
当時、小学三年生だった羽根川聡人が家出したのは、両親の不仲のせいだった。
何が喧嘩の原因だったのか、今もって聡人にはよくわからない。ただ嫌味と罵声の吹き荒れる家の中、耳を塞いで、目をそむけて、心を殺し続ける毎日だった。
互いに罵倒し合う両親の姿が、聡人の目には化け物に見えた。
顔に巨大な口のついたのっぺら坊だ。
目がないから泣き顔の聡人が見えず、耳がないからその声に気づくこともない。
そして、ついに耐えきれなくなった聡人が家を出たのは、梅雨の盛りを迎えた六月のことだった。遠足用のリュックサックにお菓子と着替えを詰めこみ、衝動的に玄関から飛び出したものの、特に行く当てがあるわけでもない。やがて闇雲に足を進める内に、灰色に曇った空からしとしとと雨が降り始めた。
しまった、と聡人は唇を噛んだ。雨に降られることはわかりきっていたはずなのに、傘を忘れてしまった自分の迂闊さが悔しかった。
けれど――と今なら思う。もしかすると自分はわざと傘を忘れたのかもしれない。雨に濡れることを心配した誰かに迎えに来て欲しかったのだ。
民家の軒下に座りこんだ聡人は、涙がこぼれないようにきつく膝を抱えこんだ。
すると。
カラン、と奇妙な音が聞こえた。
直後に聡人が目にしたのは、あまりに予想外の光景だった。
雨の町並みに、蛇の目傘をさした女が一人。まるで灰色の世界に咲いた極彩色の花だ。
すらりと長い手足は、八頭身はあるだろうか。金襴緞子の豪奢な打掛。錦絵にも似た派手やかな前帯。まるで後光が射したかのような、鼈甲の櫛や銀細工の笄の華やかさ。
まさに時代劇で目にする花魁だった。江戸時代の吉原遊郭からタイムスリップして現れたかのように。
朱色の傘をその背に咲かせ、切れ長の双眸がじっと聡人を見つめている。
この世の者ではない、と思った。
差しのべられた手もまた、生きた人ではない白さだったから。
けれど。
「わっちと一緒に来んすか?」
そう訊ねられた聡人は、答えるかわりにぎゅっと女の手を握った。
そうして一つ傘の下、肩を寄せ合った二人は並んで歩き出したのだった。
不思議と誰にもすれ違わないまま商店街へと足を踏み入れ、やがて辿り着いた先は、仰々しい長屋門を構えた武家屋敷だった。
それから女との二人暮らしが始まった。まるで物言わぬ人形のように極度に口数の少ない女だったが、手毬、絵双六、歌かるたと毎日のように遊び相手になってくれた。
たちまち夢のように一ヶ月が過ぎた。
このまま、ずっと二人一緒にいられるのではないか。そんな淡い期待が芽生え始めた頃、しかし、あまりに呆気なく聡人は別れを告げられたのだ。
「また会えるよね?」
ぐっと涙をこらえて訊ねた聡人に、すげなく女は首を振った。
「わっちは狸でありんす。人の子と生きるわけにはいきんせん。あきらめなんし」
そして、匂い立つような白い首をつと傾げると、
「親子ごっこは、もう飽きんした」
その一言に、聡人は心が打ち砕かれるのを感じた。それでも最後の思い出にと手作りの贈り物を手渡して、聡人は両親のもとへと戻った。
温かく迎えてくれる人は、誰一人いないままだったけれど。
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