妖艶なるニグラ

 旧き神々が息づく地、科学よりも剣と魔法が権力を持つ地。遥か遠くあるいは足元に広がっているかもしれない幻想の地。それは現実の場所なのか、誰かが夢想した地なのか、それは誰にもわからない。されど確かに存在する世界、その名をイリシアという。

 この剣と魔法の地イリシアには偉大なる男を目指すカブリ、鉄弓のブレトという二人の英雄が居る。そして彼らを導く<妖艶なるニグラ>を名乗る女魔法使い。此度は二人の英雄と女魔法使いの出会いについて語る事となる。


 その日、世界の中心たるパンネイル=フスまたの名を<混迷の都>と呼ばれる都市の西にある街道をカブリとブレトは脇目も振らずにひたすらに走り続けていた。


「おいブレト! 狩人をやっていたなら後ろに目が付いているだろう! やつらはまだ追ってきているのか!?」

「幾ら私がエルフといえど後ろに目が付いてるはずないでしょう! あなたこそ自然に鍛えられたんだったら察知する感性ぐらい持ってるんじゃないんですか!?」


 やいのやいのと言いながらも二人は決して足を止めることなく、街道を外れ目の前へと広がる森へと進路を定めた。彼らは今、盗賊に追われているのだ。

 腕っ節に自信を持っている二人はパンネイル=フスから別の都市へと向かう隊商の護衛に付いていた。そしてこの街道を進んでいる最中に襲われたというわけなのだ。無論、そのためにやって来たのである。


 カブリは険しい山が生んだ剛健なる剣で、ブレトは野生相手に研ぎ澄まされた弓で商人を守り盗賊を迎え撃った。二人は襲い来る盗賊共をあれよあれよと地獄へと叩き落し、自然へと還したがならず者の数が一向に減りはしない。

 二人は気付いていなかったのだがこの盗賊は<猛る火鼠団>という、イリシアに数ある盗賊団の中でも特に規模の大きい一味だったのである。自分達が戦っている相手が<猛る火鼠団>だと気づいていたのなら、二人は戦わずに逃げ出していたに違いない。


 空気の薄い高山で育ったカブリも、自然が力持つ森に生まれたブレトも超常の能力は持っていなかった。剣は切る度に脂が付くし受ければ刃も欠ける、矢の数は限られているし弦にも寿命が存在する。ついに圧し負けると悟った二人は隊商を見捨てて逃げ出した。

 これは信用を損なう行為である。だが二人は気にしない、信用の重さと命の重さは比べようがない。こんなところで死ぬのは御免だと背を向けたのだが、盗賊共が逃がすはずがなかった。三〇以上の仲間を倒されたとあれば、カブリとブレトは<猛る火鼠団>にとって立派な仇。誅殺すべき対象である。


 と、こんな理由で盗賊に追われて森へと逃げ込んだ二人は茂みを見つけるとそこに飛び込み姿を隠す。そして素早く息を整えると葉を掻き分けて隙間を作り、ようやく後ろを見ることができた。

 追ってくる姿はないが決して油断は出来ない。ほとんど真っ直ぐに走っていただけなのだ、そうそう簡単に撒けるわけでないことは分かっていた。いつでも即座に走り出せるよう、腰を浮かしながら息を整えておく。

 心臓が一〇〇回鳴るまでそのままの姿勢でいたのだが、追っ手がやってくる気配はなかった。


「ブレトよ、弓を使うお前は目が良いに決まっている。俺より遠くを見れるはずだ、あのしつこい連中の姿は見えるか?」

「いいや見えませんね。都に来る前に私がいたのは森の中です、高山で育ったカブリさんの方が遠くを見る機会は多かったはずだ。そのあなたの目に見えるものはありますか?」


 ブレトが首を振るとカブリもまた首を横に振った。目で見れる範囲に動くものは何もなく、木々のざわめきの他に聞こえるものもない。


「どうする? 戻るか? 逃げ出しはしたが商人が気になるのだ。大方、めぼしい物を奪われた上に命まで奪われているだろうがな。だがそれならそれで形見ぐらいは探してやって届けるべきではないだろうか」


 カブリの言葉にブレトは追っ手の姿を探しながら小さく唸った。


「気持ちはわかりますがね、苦労して手に入れた機会を捨てる様な真似ですよそれは。せっかく賊から逃れつつあるのに戻るだなんて、せめて明日にするべきです」

「それもそうだな。戻れば俺達が攻め手に転ずることとなるが、今の俺達には武器が無い」


 音を立てないようにしながらカブリは鞘から剣を半分ほど引き抜いた。盗賊と打ち合い、肉を切り骨を絶った剣は刃毀れが酷い上に歪みも目立つ。もう剣として期待できる代物ではなく、寿命を目前にした棍棒といった方が良いだろう。

 ブレトが持っている弓も弦が切れてしまっていた。交換用の弦は持っているが、張り直したところで意味はない。というのも腰に吊るしている矢筒は空っぽになってしまっていた。


「それよりも今考えるべきことは他にあるでしょう。連中、どうも追うの諦めたみたいですし」

「あぁそうだ。俺達に無いのは武器だけではないからな」


 待てども待てども追っ手の気配は感じられない。追いかけている間に頭が冷めたのだろうと二人は判断した。カブリもブレトも金目の物は身につけていなかった、そんな彼らを追う利点が盗賊にはない。

 ひとまず危難が去ったことに一息吐いた二人は立ち上がり、茂みから体を出して振り返った。広がっているのは深い深い森である。


 彼らが持っていないのは武器だけではなかった。水も食料もない、それらは隊商の馬車の中に置いていたのだ。かといって盗賊が宴を開いているだろう街道に戻るわけにも行かない。生きるためには飲み物と食べ物が必要だし、戦い走り続けた二人の喉はカラカラに渇き切っていた。


「この森の中に入っていくしかないということか。森の中はお前の方が詳しい、水場を探すことは出来るか?」

「造作もないことです、今は都暮らしとはいえ私だって森と共に暮らすエルフですからね。森の中で水を得る方法なんていうのは幾らでもありますよ、とりあえずはこれでお願いします」


 ブレトは手近に生えていた樹に近づいた。節くれ立った幹には親指ほどの太さをした蔓が巻きついている、それをナイフですっぱり切ってやると中から清水が溢れ出す。


「なんと! そんなところに透明な水があるとは思いもしなんだ」


 カブリは感激しながらブレトから渡された蔓の断面を咥えた。中には大地から吸い上げた水がたっぷりと含まれており、吸い付くと水が溢れ出す。水には植物の青臭さが付いてしまっていたが、疾走し続け多量の汗を掻いた体には甘露にも等しいものである。

 蔓に含まれていた水の量は多いものではなかったが、それでも渇きを癒すには充分だった。そして喉が潤えば空っぽの胃袋が気になってくるというもの。


 果実がなっていないだろうかと上を見上げてみたが季節が悪いらしい、どの樹にも実がなっていない。動物を探すという手もあるのだが、獣というのは警戒心が強いもので近づかせてくれなどしない。矢が残っているならまだしも、鉄の棒と化した剣と短剣しか持っていない二人に狩りは難しかった。

 それでも何か得られはしないだろうかとブレトが考え込んでいると、カブリは蔓を噛みながら一本の樹を指差した。


「森に詳しいならあの樹の中に虫がいるかわかるか? 樹を食ってる芋虫は美味いぞ、だが葉っぱを食ってるやつらはダメだ。あいつらは大体毒を持っておるし、毒のないやつでも臭いが酷くて食えたもんではない」

「え……? カブリさん、芋虫食べるんですか?」


 虫も多い森で暮らしはしていたが、ブレトは虫を食べたことはない。食べようと思ったことすらないし、食べられるものだとも思っていなかった。


「そんな顔をせんでも良いだろう、俺だって肉のほうが良い。しかし俺が育ったダンロンの山はそう毎日獣が狩れる場所ではなかったのだ、そういう時は木をほじくって中にいる芋虫を取って食うのだ」

「それならカブリさんが探してくださいよ、私は虫なんて食べようと思ったことすらないんです。どの樹に芋虫が巣食っているかなんててんで見当が付きませんよ」

「ダンロンの男は戦士と狩人だけだ、そして俺は戦士だった。野草を摘んだり果実をもいだり、虫を探すというのは女の仕事だ。男の俺がやるわけがない、どんな風にするのか聞こうと考えたことすらないわ」

「つまり、虫の探し方を知らないというわけですか」

「うむ、その通りだ」


 誇るようなことでも何でもないのにカブリは力強く頷いた。ブレトはこの仕草に呆れもしたが安心もしている。もしここでカブリが芋虫をほじくり出していたらと思うとぞっとするものがあった。

 目の前の男が虫を食しているのを見るだけでも背筋が寒くなりそうなのに、自分が食べる羽目になっていたらと考えてしまう。未知の昆虫食を体験する機会が無い事はブレトにとって幸いなことだったが、食べ物の悩みは解決しない。


「虫も取れんとなると、獣をとっ捕まえるか果物を探すしかなかろうな。矢がなくとも罠を作るという手があるとは思うんだが、出来そうか?」

「出来なくはないですけれど、狙う獲物を定めないことには作れません。罠っていうのは獲物の習性を利用して作り仕掛けるものですからね、そしてこの森にどんな獲物がいるかというのを私は知りません。初めて来た森ですからね」


「そうか、そうなると……出来るだけ避けたくはあったのだが、俺達が取れる手はやはり一つしかないというわけだな」

「そうなってしまいますね。万全と言えない今の状態で、そちらに進むのは得策とは言えません。かといって街道には戻れないし、ここに留まる訳にもいかない。行くのなら日が高い今のうちです」


 進む道が決まったというのに二人は歩き出せなかった。地面から足を持ち上げはするのだが、それを先に進ませることができない。カブリもブレトもその理由が分かっていないが、無意識かで眼前に広がり待ち受ける森が普通ではないことを察知していたのである。

 意識してはいなかったが森から音がしないことを察知していたし、栗鼠や蜥蜴といった小動物の姿はおろか虫の姿すらないことを二人の本能は捉えていた。

 危険を感じるほどではなかったが背中を冷やされる感覚がある。森に入りたくない気持ちは今もあったが、街道に戻れば死神が待ち受けているのだ。ここにいても遅かれ早かれ死神は緩慢な歩みで近づいてくる。


 二人は意を決し、普段から日常生活でも用いている短剣を握り締めながら森へ足を踏み入れた。

 静かな森で生暖かな風が吹いている、風に吹かれて揺れた木々は葉を擦り合わせる。その音は地の底から響く低い笑い声のようで、形容しがたい畏れにも似た気持ちを抱き始めた。後ろを振り返り、森から出てしまいたいという衝動を捻じ伏せながら奥へ奥へと進んでいく。


 進むにつれて幹は大きく、地を這う根は太くなり地面を波打たせていた。見上げれば日光を遮るほどに葉が茂っておりまだ日も高いというのに薄闇に包まれている。二人は息を殺し足音を忍ばせ、周囲に視線を配らせながら進む、獣の姿を探すが彼らが生活している痕跡すら見つけることができなかった。

 ここまで来るとこの森のおかしさを確信し二人は足を止め、それぞれ木の幹に背をぴたりとくっつける。背後を警戒する二人の無意識がこのような行動をとらせたのだ。


「俺は高く険しい山に生まれ育った男であるから森については多くの知識を持ちはしない。その俺でもこの森がどこかおかしい、奇妙なものだという確信を得ている。森に育ち俺などと比較できぬほど知識を持つお前はこの森をどう感じる? お前のことだ俺より多くを感じ、多くを考えているに違いない」


 ブレトを頼りながらもカブリは左右だけでなく上にも視線をめぐらせ、全身の感覚を動員させ周囲を警戒し続けていた。


「それは買い被りというものですが、この森はおかしいです。カブリさんも気付いていると思いますが、獣が暮らす痕跡というものがありません。足跡が無いのはまだしも、糞を見つけられませんでした。そして獣というものは縄張りが大事にするもので、例えば木に爪痕を刻んだりといった行為で領土を主張することが多い。けれどもそういった痕跡というものもありません、これだけ植物が反映しているにも拘らず獣がいないというのは有り得ざることです」

「そしてどう考えているのだ? このような森は存在するものなのか? 俺は<混迷の都>で世界の広さを知った、己の常識で計れぬ物が存在してもおかしくないと考えているのだ。もしかすると獣の住まわぬ森というものがあるのかもしれないと考える、ただエルフのお前が否定するのであれば有り得ないのだろうとも思っている」


「それほどまで信用されているとは思いませんでしたが悪い気はしません。故郷を捨てたといっても私にだってエルフとしての誇りはありますし、その誇りに掛けて否定いたしましょう。土があれば草木が茂り虫が集まり獣が栄えるのが自然の摂理であると私達は考え、事実でもあります。この森には土がある、草木が茂っている、けれど虫はいないし獣もいない。これは自然に反するもの、有り得ざる森です」

「なるほど良く分かった。この森は珍しいものではなく、有り得ない……有ってはならぬ森なのだな。となると俺は来た道を戻り街道へと行くべきだと主張しよう。あの街道とその近辺では俺達と戦った賊がまだうろついているだろう、行けば襲われるだろうが彼奴等は俺達と同じ人間であるから勝ち目はある。しかしこの森は有り得ざるもの、怪異なるものだ。斯様な超常を相手にするのは盗賊を相手にするより遥かに分が悪い」


 森と共に生きてきたブレトはこのカブリの主張を否定するつもりはないし、同意できるものだった。自然の恵みを享受していたブレトにとって、自然とは逆らえないもので自然の決定に抗えないものであると知っている。

 なのでブレトはカブリの提案を全面的に受け入れ、同意して今すぐ戻りたかった。けれどもそれは出来なかったのだ。来た道を振り返っていたのだが、森の形が変わっている。目印を付けているわけではなかったが、エルフのブレトが森の形を見紛う筈がない。


 これは想像以上にとんでもないことになってしまっている、里の老人から聞かされた昔話にもこのような森の話は聞いたことがなかった。森に詳しくない連れを不安にさせてはいけないと、ブレトは表情を隠そうとしたのだがカブリは僅かな瞳の動きを見逃さない。


「戻るに戻れんということか。エルフのお前なら初めて入る森だろうと道に迷うことはあるまい、この森は何らかの力により俺達を惑わしているということだな?」


 ブレトは言葉にすることをせず、下唇を噛みながら頷いた。


「ならば俺に任せろ。山には歩く者を迷わす化生が住むと親父殿から聞いたことがある、無論その対処法もな。そしてその対処法というのは、これだ」


 カブリは短剣を逆手に持ち替えると背をもたれさせている木に刃を突き立てた。そして引き抜くと赤黒い液体が噴出した、大地から吸い上げた水でもなければ樹液でもない。色といい粘度といい臭いといい血液と酷似していた。

 大気を震わせる悲鳴が響き渡る。叫びの出所は短剣を突き刺した木ではなく、四方八方至る所から発せられていた。声がするかもと予想していたカブリだったがこれは予想以上のことで、肩を跳ね上げると共に振り返る。


 キーキーと高い声を出しながら木全体が震える様は植物というよりも獣のそれであり、根は触手の様に蠢きじりじりとカブリに近づこうとしていた。


「で、カブリさんの言う対処法というのはいつ行われるんです?」

「もうやったではないか。ほらこいつを見てみろ、ただの植物ではなく化生の類だということが明らかになったではないか」


 二人は心底驚きながらも強がり、顔を合わせて高笑いをしてみせた。その間にも森の木々は自分達を傷つけた男達を囲むように近づき、葉が茂る枝でカブリを掴もうと手を伸ばす。有り得ざる事に心臓が飛び出しそうになるものの、動作は緩慢なもの。

 落ち着いてやってくる枝を切りつけ、身を翻し走り出す。森の木々が動き出しているだけでなく、茂る葉に日光が遮られている為に方角は分からない。

 二人は逸れてしまわない様に目配せを交わしつつ迫り来る枝の下を潜り抜け、迫り出す根を飛び越え、息が乱れても速度を落とさずに走って走って走り続けた。


 筋肉が千切れそうになっても足を止めず、胸が破裂しそうになっても前へと進み、燃えるほど熱くなっても速度を落とさない。後ろを振り返る余裕すらなく走りに走り、どれだけの距離を進んだのだろうか。唐突に開けた場所へと出た。

 急に明るくなったために二人の目は眩んでしまい、足をもつれさせると前に倒れて転がった。すぐに起き上がろうとするも限界に近く適わない。だが後ろからは森が迫る、少しでも逃げようと這いずるが一度止まってしまった体は言う事を聞いてくれなかった。


 最早ここまで夢に手を届かせることなく終わるのか、誰も経験したことの無い終末の瞬間に備えてきつく目を瞑り草を握り締める。出来ることなら一瞬で終わってくれと願いながらも、思うような衝撃も痛みもやってこない。まだ生きているのだと伝えるように心臓は激しく鼓を叩く。


「おいブレト、俺は生きているのか死んでいるのかわからん。しかし二人して同時に同じ所へ向かう事は無いだろう、お前の声がすればおそらく俺達は生きているのだ。何でも良いから言ってみろ」


 一向にやって来ない経験しえぬ想像も出来ぬ現象にカブリは痺れを切らし、顔を地に付けたままブレトへ応答を求めた。


「はいはい、生きてますよ。私もまだ土に還ってません、森を抜けられたのかもしれませんね」

「動く森から走っただけで逃げられるとは思えんがな。まぁ良い、確かめてみれば済むことだ」


 息を吐き出しながらカブリはひっくり返った。光を遮る枝も葉もなく活気ある日光が燦々と降り注ぎ、青い空を羊雲がたゆたっている。あまりに長閑な空の景色、既に死んでしまい噂に聞く天国に召されてしまったのではないかと疑いながら上体を起こして来た方角を振り返った。

 馬一〇頭分の距離の向こうに森がある、木々は今も蠢き恨めしそうに低い呻き声をあげているがこれ以上近づいてくる気配がない。あれらには動ける範囲というものがあり、自分たちはそれを抜けた、森を出たのではないか。


 ほっと胸を撫で下ろしたカブリは立ち上がり、これから進もうという方角を見た。そこにも森が広がり、蠢き呻き声を上げている。安心していたということもありぎょっとしてしまったが、落ち着いてみればそちらの森も近づいて来れないらしい。

 何が作用しているものか、今二人がいる範囲は台風の目のようなものでとりあえずの安全は確保されている地域のようである。一体何が作用しているというのか、辺りを見渡してみれば古ぼけた小屋が一軒あった。作りはしっかりとしているものらしく、煙突からは煙が立ち上っている。安全な範囲はどうもその小屋を中心に円状に広がっているものらしかった。


 これはいかにも怪しい、人が生活しているようだがまともな者ではあるまい。悩ましくはあったが言葉に出して相談するほどでもない、何も持たないカブリとブレトには選べるほど選択肢は存在しなかった。

 カブリが先頭に立ち、少し距離を開けてブレトが続いた。扉に頭をくっ付けて耳をそばだてるが物音ひとつせず、人の気配というものは感じられない。カブリはブレトに目配せすると扉を叩き、応答を待つ。ブレトはその後ろで不測の事態に備えて投擲の体勢に入った。


 しばらく待ってみても扉の向こうから反応はない、カブリは再び扉を叩くだけでなく中にいるだろう者に大声を出して呼びかける。ここまでしてようやく住人は来客に気づいたと見え、軽快な足音が近づき軋む音を立てながら扉が開かれた。


「こんな深い森の奥、訪ねてくる者など久しくありません。さては私の仔らに追い立てられ、運が良いのか悪いのか、迷い込んだ者に相違ないでしょう。はてさて、この<妖艶なるニグラ>に何を求めなさるのでしょうか?」


 中から現れたのは褐色の肌をした一人の女だった。森の中だというのに踊り子かと見紛うほどにその服には露出が多く、多くの子を養える豊満な乳房と、子を産むに適した大きな尻を強調していた。肌も艶よく顔にも皺ひとつなく若さを感じさせるが、瞳には永い時を経て学んだ者が讃える叡智の光がある。

 健康的な男なら誰もが欲の炎を煽られ体を火照らされる体つきではあるが、女好きのカブリですら情欲を掻き立てられることは無かった。ニグラと名乗る女の頭からは節くれ立った二本の巨大な山羊の角が生えていたのだ。


 得体の知れぬ化生の森に追われたばかりということもあり、ブレトは手にした短剣を投げそうになったがカブリはそれを静止した。頭に角が生えているとはいえ、彼女の助力を願うべきだとカブリは判断していたのである。


「どう説明したものか分からんのだが俺達は森に追われてしまったのだ。この森から出る術を教えてくれとまではいかんが、水も糧食も失ってしまっている。僅かばかりでも恵んで欲しい、だが正直に言うと俺達は施されても返すあてがないのも事実なのだ。それでも俺達を助けてはくれないだろうか?」


 カブリが頭を下げるとニグラは手にしていた煙管に口をつけ、横を向くと紫煙を吐き出した。辺りに漂った香りは煙草のものというよりも、香草のそれに近い。


「助けるのはやぶさかではありませんとも、カブリもブレトも愛しき我が仔であることに変わりありませんからね。ですけども、カブリはまだしもブレトのその態度は失礼ではありませんか? それでは助けを請うというよりも、脅迫になってしまいますよ」

「それは済まんかった。俺達は森に追われた、これは比喩でも何でもなく本当のことだ。木々は獣の様に俺達を追い立ててきた、全ての木があらゆる方向からな。そんな獣の森に住んでいる女がまともなはずはないし、警戒して当然だ。それに、名を示す物など身に付けておらんのにどうやって俺達の名を知った」


 カブリは摺り足で後ろに下がりながら短剣の柄を握る。その後ろでブレトも投擲の態勢を再度整え、狙いをニグラの胴体へと定めた。


「知っていて当然ですとも、私こそは<妖艶なるニグラ>。野獣の巣食う<黒山羊の森>に住む魔法使いですもの、<混迷の都>で暮らしているのなら名前ぐらいは聞いたことがあるはずですよ」


 <黒山羊の森>。この名前を聞いてカブリとブレトは総毛だった。曰く、その森には人食いの獣が住み生きて帰った者は皆無であり、場所もどこにあるかはわからないという。

 恐ろしい怪物が潜むだけならばまだしも、森の場所がわからないという事などあるはずないのだ。帰る者が一人もいなかったとしても、危険な場所なら明白にされている。よって二人は今まで<黒山羊の森>というのは一種の伝説、御伽噺の類として捉えていた。


 そして今、二人は<黒山羊の森>に踏み入ったことで理由を知った。この森の木々は生きて動く、これなら場所の知りようがない。ではこの開けた場所は何なのか、そこに住んでいるというニグラとは何者なのか。異界の中に入り込んでしまったことを自覚した二人は恐怖に身を震わせそうになりながらも、必死で脱出の手立てを巡らせる。

 ありとあらゆる考えが頭の中を走り抜けていくが、これだというものは見つからない。既に囲まれている状況であり、加え包囲網は分厚かった。


「恐れる必要はどこにもありませんよ、私は二人に危害を加える気は毛頭ありません。それに待ちもしていたのです、森の仔を怒らせ追われた事も承知しています。もちろん、盗賊に襲われここに逃げ込んできた事も。長いこと走り続けていたでしょうし、喉も渇き腹を空かせている事だってお見通し。あなた達のための食事は既に用意しています、都のものとは比べられないかもしれませんがお酒も。さぁ、まずは食欲を満たしそして疲れを癒しなさいな」


 紫煙を吐き出しながらニグラは扉を大きく開け放った。そこから覗く小屋の中は、おかしな程に広い。小屋を見る限り、中はせいぜい一室ほどしかなく寝台を置き炊事場を拵えればそれで一杯になってしまいそうなもの。

 だが扉から見える中の光景は貴族の屋敷にありそうな食堂と遜色がない。これは明らかに自然の理を超えた魔の力によるものだ。招かれたからといって、その中に入るのは涎を滴らせる肉食獣の口に自ら飛び込む様なものである。


 しかし、二人は彼女の招きを断れない。ここで断れば動く森の中を抜けるしかないが、短剣しかないし体力も尽きかけている。それなら、罠かもしれないがニグラの誘いに乗るほうが活路を見出せるというもの。

 カブリとブレトは敵意が無くなった事を示すため、短剣を鞘に収めるだけでなくこれを懐に仕舞い込んだ。これを見たニグラは口元を手で隠しながらさもおかしそうに笑い、この笑いに底知れぬ深さを感じながらも二人は小屋の中へと入った。


 小屋の真ん中には石造りの長机が鎮座しており、その上には様々な料理が作りたてであることを誇るかのように湯気を立たせている。そして並べられているこれらの料理はどれも二人の好物だった。

 タレを付けて焼かれた肉はたっぷりの脂が乗っていて、これはカブリの好むもので彼が愛飲する蒸留酒が樽ごと用意されている。皿に積み重ねられた果実は色艶が良く瑞々しい、これはブレトの好物でエルフが好む香り高い葡萄酒の瓶が何本も並べられている。


 自分達の味の好みまでもが知られている事は恐怖よりも驚愕が勝った。ニグラは魔法の力を用いて名前だけでなく、趣向までをも知ったものなのだろうが果たしてそれをいつ使ったのであろうか。魔の道について門外漢の二人にはその瞬間がいつだったのか、見当すら付けることが出来ない。


「毒を疑うかもしれませんけれど、そのようなものは一切含まれていませんよ。これらは全てあなた達のために用意し、つい先ほど出来上がったものですからね。ここは魔法使いの住処、貴族の邸宅で行われる会食ではありません。細やかなしきたりや作法は無用、あなた達の流儀で好きなだけ飲み食いなさいな」


 食事が安全であると示すため、ニグラは肉と果実を目の前で食べて見せるだけでなく、喉を鳴らしながら二種の酒も飲んで見せた。それがまたさも美味しそうに食べるものだから、喉を乾かせ腹を減らした二人には机の上の誘惑は抗いがたいものだ。

 腹の虫は大きな音を立て続け、口の中には飲み込みきれぬ程の唾液が溢れ出して止まることを知らない。それでも二人は悩んだが、理性が本能的な欲求に逆らえるはずもなく椅子に座らず食器も使わずに食と酒へと手を伸ばす。


 ニグラは都のものとは比べ物にならない、と言っていたがそれは真実だった。確かに比べられるようなものではない、都で手に入るあらゆる肉あらゆる酒よりも美味である。空腹という最高の調味料を抜きにしても、それは変わらない。

 机いっぱいに並べられていた肉と果実そして酒が全て無くなると、喉の渇きはすっかり癒えて腹も張り出すほどに満たされた。三つの欲の内の一つが完全に満たされる、それを見計らったのか、ニグラは上唇を舌で舐めると二人に近づくと豊満な胸を揺らしたのである。


 カブリもブレトも精気に溢れる健全な男性で、目の前に新たなご馳走が現れたとなれば手を出すのが普通というもの。普段なら二人、特にカブリは柔肉にむしゃぶりついて男の欲を満たそうとしただろう。だが今は、腰の欲はぴくりとも反応しなかったし胸を高鳴らせることもない。


「私達のために食事を用意してくれたこと、まことに感謝いたします。どうして私達のことを知っていたのか気になるところですけれど、あなたは魔法使い。我々の知らない魔道によるものなのでしょうから問いはしません、ですがどうして私達を助けるのですか?」


 ブレトは汚れた手と口を拭き、座席に座ってから尋ねた。ニグラは応えず、四足の獣のようにブレトの周囲を回りながら背後へと近づき、背もたれごと彼に抱きつくと腕を回し頬を近づけ甘い吐息を吹きかける。

 これらの誘惑には流石のブレトも乱されそうになったが、大樹のように動かず、瞳だけを動かしてニグラの頭から生える二本のねじくれた角へと視線を向けた。


「あら、もう満足したの? ここにいるのは私達だけよ、腹は満たされたのでしょう? なら次に満たしたい欲があるのではありませんか? 食事をしてわかったでしょうけれど、二人同時に天上の悦楽を味あわせてあげることなど造作もないこと。獣を解き放っても構わないのですよ」


 ニグラは褐色の肌をブレトの頬に触れさせながら指を指した、その先には扉がある。彼女が扉を指し示すと音も無く開き、そこは寝室で天蓋付の豪奢な寝台があった。寝室では香が焚かれているようで、開かれた扉から甘い香りが漂ってくる。


「魔法使いは賢い連中ばかりだと思っていたが、人の話を聞かんらしいな。<妖艶なるニグラ>とやら、俺も酒と肉を飲み食いさせてくれたことは非常に嬉しく思っている。だが俺達はそれ以上のものを欲してはおらん、欲しいのは水と食い物。そしてこの森を出る手立てである、貴様の肉体を堪能させてくれなどと頼んだ覚えはない」


 短剣こそ出しはしなかったが、カブリは二つの拳を握り締めるとニグラを睨み付けた。彼女がこれ以上ブレト、そしてカブリを誘惑するようであればその顔面を殴りつける気でいる。

 自分より頭二つ以上背の高い屈強な男に睨み付けられているというのに、ニグラはたじろぐ様子すら見せない。それどころか酷く嬉しそうに喉を鳴らすのだ、何がそんなに嬉しいのか二人にはさっぱり分からなかったがニグラは誘惑をやめてブレトから離れる。


「ごめんなさいねぇ、これはちょっとした試練。あなた達が欲を律する力があるのか確かめたかったのですよ。もし私を寝室に連れ込み、この肉に溺れる様であれば精を吸い尽くし枯死させるつもりでいました」


 ニグラは唇の前に人差し指を立てると悪戯っぽく首を傾げて見せたが、細められた目に笑みは浮かんでいない。底知れぬ叡智を湛える彼女の瞳は、今の発言が本気であることを告げていた。これを見た二人は、やはりそうだったかと一度は緩めかけていた気を再び引き締める。

 妖艶な魔法使いは机の縁を指先でなぞりながらブレトから離れると、舌なめずりしながら着席した。この動作が二人には獰猛な肉食獣のように見えてしまい、背筋に寒いものを走らせ僅かに身を震わせた。


「例えなんであれ何かをして貰ったのなら何かを返さねばならないのが道理というものだ。都会人としては腹を満たしてもらった礼として金銭を出すべきなのだろうが、化け物じみた森に終われる前に盗賊共にも終われていた身だ。貴様がどれだけ妖しかろうと、企みを抱いていようが対価を払わねば人の道を逸れてしまう。都会人である前にダンロンに生まれた男としてそれはできんからな、ニグラよ俺達に何を求める?」


 このカブリの言葉を聞いたニグラの目が細くなり、これはいけないとブレトは慌てて続けた。


「ですが何でもというわけにはいきませんよ。助けて頂いた事には感謝していますとも、とはいえ見返りに例えば……そう、命とかを求められても渡せません。それに今の所、頂いたのは食事だけ命を寄越せと言われても割に合いませんからね」

「あらあら随分と警戒されてしまっているみたいで、少し悲しいですね。あなた達だって愛しい愛しい仔の一人に変わりないというのに」

「貴様のような女の腹から出でた覚えなど無いわ! ブレトだってそうだ、貴様の様な山羊みたいなねじくれた角を持つ女からエルフが生まれて来るわけがない!」


 ニグラの言葉を冗談と受け取ったカブリは声を荒げる。そのカブリの様子が可笑しいのか、ニグラは口元を隠しながらクスクスと笑う。ブレトも声を出しはしないが眉を潜め、彼女の視界に入らない机の下でこっそりと短剣を握り締めた。


「まぁまぁそんなに声を荒げずに頂戴な。さっき待っていたと言ったのを覚えているでしょう? 私がこうして食事を出していることは既に対価なのですよ、といってもあなた達は私とは初対面。一体なんの対価なのか、てんで見当が付いていないと思います」


 まったくもってその通りだと、カブリとブレトは同時に大きく頷いた。


「これは先払いなのですよ。あなた達にはこれからいーっぱい、私の頼み事を聞いて貰う事になるんですからね」

「これだけ飲み食いさせてもらったんですから、頼みを聞いてくれと言われたらやぶさかではありませんよ。ですが、やはり――」


 ブレトが内容による、と言おうとするよりも早くにニグラは指をパチリと鳴らす。途端、二人の目の前が真っ暗になると共に聴覚も喪失し、足元が無くなったのか浮遊感が感じられた。しかし長い間ではなく、せいぜい三拍ほどの間である。

 地面に足が着いたかと思うと聴覚が戻り、聴きなれた喧騒が聞こえてくる。昼夜問わず酔漢が歩き回り、吐瀉物に汚れ酸い臭いが漂う<酔いどれ通り>に二人は立っていた。突然であるし、想像の埒外の出来事に二人は唖然とするしかなく、言葉も出せずに呆けた顔するしか出来なかった。


「一体全体どうしたということだ、ニグラとかいう魔法使いが力を使ったのだろうことは分かる。しかしここからあの森のあった場所までは相当な距離があるぞ、幾ら強大な魔法使いといえどそんな技があるというものだろうか?」

「魔道に詳しくはない私ですが、あの長距離を一瞬で移動させるようなものなど噂にも聞いたことありません。もしや我々は死んでいるのか、あるいは夢を見ているのかとも思いましたが……しかしここは心地よい<銀夢亭>のある<酔いどれ通り>に違いありません。死後の世界があるとして、こんな汚い場所があるとは思えませんし夢にしては鮮明に過ぎます」

「あぁそうだ、その通りだ」


 通りの真ん中で往来の邪魔になっていることも忘れ、二人は腕を組んであれやこれやと言い合った。二人の頭を活用しても出る答えは一つだけ、<妖艶なるニグラ>の魔道によるもの。幾ら考え話し込んだところで、これ以外の答えは出なかった。

 しかし納得が出来ずに延々と先の見えない問答を続けていると、二人を呼ぶニグラの声が聞こえてきた。慌てて辺りを見渡したがどこにもニグラの姿は見えないし、声が聞こえてくる方角というのもはっきりとしない。加えて往来を行く人々には彼女の声が聞こえていないらしく、うろたえる二人に奇異の視線が向けられていた。


「はい、あなた達の大好きな都に送ってあげましたよ。しばらく用事はありませんけれども、その時はこちらから出向きますからね」


 二人は空に向けて呼ばわったが、これっきりニグラの言葉は聞こえなくなってしまった。あまりの出来事のため脳に混乱をきたし、痛みすら覚えるほどだったがはっきりと理解していることがある。


「どうやら俺達はとんでもない奴に目を付けられてしまったらしいな」

「同感です、この様子だと逃げたところで逃げ切れたものでもないでしょう。たまったもんじゃない」


 共に大きな溜息を吐き出した。すると、どこからともなくニグラの笑い声が聞こえた気がして二人は体をぶるりと震わせると逃げるように<銀夢亭>へと駆け込むと、持ち金なんて無い事も失念して浴びるように酒を飲むのだった。

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