竜の出産とデイミオン卿の憂さ晴らし ②

 彼女は今でも思いだす。


 竜は火を怖がらないので、竜舎の中は冬でも人間の家と変わらないほど暖かい。食べそこなった昼食のパンに差し入れのハムとチーズを挟んで火であぶったものと、湯で薄めたホットワインの夜食。夕飯のシチューの残りを使ったシェパード・パイはおいしくて、いつも競争になったっけ。聞こえてくるのは、酒が入った大人たちのくだらない噂話と笑い声のまじるざわめき。竜たちの満足した調子の低いうなり声。リアナ自身も幼竜の世話に追われ、夜にはぐったりしてしまうことが多かった。


 手仕事をしているイニの横で、古いが清潔な毛布にくるまって休んでいると、養い親はあれこれと面白い話をしてくれた。彼自身が行ったことのある異国の地の話も大好きだったが、一番はやはり、いにしえの女王オンファレの話だ。妖精の国の美しく賢い女王が、魔法使いの青年に助けられながら国の危機を救うというもので、歳によらず空想家らしいイニの語り口のおかげでケイエの芝居小屋にも負けないほどはらはら、わくわくしたものだ。

 手足は重く疲れているが、心は満足して、安心しきって眠っていられた夜のことは、今でも懐かしい。


 いつもより早く感じた冬が終わり、雛たちの世話にようやくひと息つけるようになったころ、イニはふらりと旅に出ていった。


 優秀な飼育人だが、少し風変りなところのあるこの養い親の、唯一の悪癖といえるのが放浪癖だった。仕事で忙しくしているときには収まっているが、繁忙期の春が終わると同時に風に誘われるらしい。里に定住するまでは放浪の画家だったというのが本人の弁で――短いときでも二、三週間、長ければ季節が変わるまで帰ってこないこともあったが、里人たちにも慣れたことだったし、リアナもおとなしく見送った。小さな時には泣いて泣いて、顔を涙と鼻水だらけにして引きとめたものだったが、冬が来れば十六歳になるのだ。いつまでも親の後を雛のようについて回る歳でもなかった。


 イニが家を出た日のことは、今でもよく思い出す。リアナが鞍袋サドルバッグに数日分の食糧をつめたあと居間に戻ると、簡素な旅じたくをしたイニが、しみじみと広い部屋を見まわしていた。

「おまえがそこらじゅうを這いまわって、目につくものはなんでも口に入れてた頃が懐かしいよ。ほんの昨日のことのようだがな」


 そのとき、自分がなんと返事をしたのかを覚えていない。養い親の、日焼けして皺の多い顔は今でも覚えているのだが。おそらく、たいして気にも留めていなかったのだろう。ただ、あまり親らしい思い出じみた話はしないタイプだったので、少し意外に思ったような気がする。そのころ、リアナはイニにいっぱしの女房面をしがちだったから、この時もパンを消しゴムの替わりに使うのはやめてよねとか、何か口うるさいことを言ったのかもしれない。


 長身をかがめるようにして戸をくぐって出ていった養父は、それきり帰ってきていない。

 季節は秋になりつつあった……。



 そこで、リアナは話をやめた。

 フィルはしばらく黙っていた。その後は凄惨せいさんな襲撃の話に続くと知っているからだ。が、すこし間を置いてから、やはり聞いた。

「……御座所で、〈隠れ里〉のことを調べているでしょう?」

「……うん」

「なにが知りたいんです?」

 フィルの声には温度がなかった。


「なにって……すべてよ」リアナはカップを置き、顔を上げた。

「襲撃してきたのはどんな集団だったの? 命令したのは誰? なぜあの時期に? どうやって? なぜ〈隠れ里〉を狙ったの?」


「それを知って、どうするんですか?」フィルバートの声は穏やかだ。「復讐でも?」

「わからない。けど……」リアナは考え考え言った。「知らないと、わたし、これからのこと……自分のことも決められないよ」


 メドロートの領地に行って、白竜のライダーになりたい。

 それが、自分の夢にもっとも近いものだ。

 このまま、城にいたとしても、それは叶うだろう。でも、故郷に起きたあれほどの悲劇を忘れて、一人だけ幸せになれるとも思えない。たとえ時間を巻き戻して、すべてをなかったことにはできないとしても、なにがあったのかだけでも知っておきたい。


 椅子が動く音がして、フィルが名前を呼んだ。

「リアナ」

 最近では「殿下」と呼ばれるばかりだったので、思わずはっとした。テーブルに手をついて、彼女のほうに身をかがめている。

「〈隠れ里〉のことをこれ以上調べるのは、やめてください」

 耳のすぐそばで囁くのは、誰かに聞かれるのを防ぐためなのか、それともプレッシャーを与えようというのか、リアナにはわからなかった。


「これは、警告です」


 青年の声はどこまでも甘く、冷たい。


ⅱ.


 東の竜舎では、古竜の出産の真っ最中だった。

 飛竜を含め多くの竜が卵生であるなか、古竜だけが胎生である。非常に珍しく、縁起がいいとされるこの出産を見るため、多くの領主貴族やその妻子たちが竜舎のまわりに集まっていた。デイミオンは房の壁に背をもたれて、少し離れたところから彼らのにぎわいを面白くもなく眺めていた。自分の世話する竜以外の出産にはさほど興味がなく、さらに言えば戴冠式の準備で目が回るほど忙しかったのだが、断れない誘いがあったためである。


「デイミオンさま

 そのが、デイミオンの袖を引っ張った。「ごらんになって、母親が子どもを舐めてきれいにしてやってますわ。仔竜ってなんてかわいらしいんでしょう」

「そうですな」

 儀礼上、ぎりぎりといえる不愛想さで、デイミオンは答えた。かたわらの女性、アーシャ姫は、見事な銀髪をいくつも輪にして頭部を飾り、残りの髪を滝のように背に流していた。輪の部分には、衣装と同じ花が飾りつけられ、手が込んでいながら清楚な装いだ。もっとも、青年のほうは、(こう飾り立てては、王のほうが見劣りするな)と思っただけだった。

 アーシャが仔を抱きたいといったので、仔竜が一匹、彼女の手元に連れてこられた。竜医師のほうに目をやると、「賛同しかねる」とでもいうほかない表情を浮かべている。概して竜は母性本能が薄く、育児放棄が珍しくないため、いたずらに竜以外の生物の匂いをつけさせるのはあまり好ましいことではない。デイミオンはそのことを知っていたので、竜医師の不機嫌はもっともだと思った。


 はたして仔竜にどれほどの興味があったのかはわからないが、アーシャは二、三度撫でただけで飼育者に返してしまったので、竜医師の懸念けねん杞憂きゆうに終わりそうだった。白い指を、侍女が熱心にぬぐっていた。

「わたくしも白い竜が欲しいわ。手に入れてくださらない? デイミオンさま

 竜舎から戻りすがら、アーシャはそうねだった。


「古竜が子を産むときは、出産より前に貰い手が決まっているものです。今からでは、難しいでしょう」デイミオンはそっけなく答えた。「古竜を育てるのは、専門の飼育者がいても難しい。白竜ならなおさらです」

「……だけど、リアナさまは持っておられるわ。白い仔竜を」

 気分を害したように言う。

(仔竜など欲しがったのは、そのためか)デイミオンは呆れた。顔には出さない分別があったが。

「前にも申し上げましたが、彼女は王位継承権の保持者です。『リアナさま』や『レディ』ではなく、『殿下』とおよびいただくように」


「そんなことはわかっていますわ」アーシャは白い頬をぷいとそむけた。「……でも、あの方は、そんなに特別な方には見えませんもの。デイミオンさまもそうお思いにならなくて?」

(そうお思いになりますな)デイミオンは内心、皮肉げに賛同した。ケイエで王にはならないと言いきった小生意気そうな顔を思い出す。『万年王子様』などと不名誉なあだ名で呼んだことも、執念しゅうねん深い彼は忘れていない。全体的に腹立たしい思い出がよみがえってきたが、廃城を脱出したときのは面白かったな。


「まあ、なにか面白いものが?」

 姫に指摘されて、青年は自分が笑っていることに気がついた。

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