5-12.個人授業
「もしかして、大神官の立場、狙ってる?」
リアナは直球で聞いた。期待するのは勝手だが、現状では彼女が王位に就いたにしても大した実権は持てないうえ、デイミオンから虎視眈々と王権を狙われることになる。青の神官が気に食わないにしても、黄の文官たちを援助できるかと言われると簡単な話ではないはずだ。
「くれるならありがたくいただくけど、現状ではそこまで期待してないよ」
ファニーは彼女の意図を正確に汲んだらしい答えを返した。
「ただ、僕たちが持つ知識や技術は、必ず君の治世の役に立つはずだ。それをおぼえておいてくれれば、今はそれでいいさ」
それならば、協力関係を築くことができそうだ。
「教えてもらったこと、役立ったわ。あの神官たち、儀式で何をするのかほとんど教えてくれなかったから」
「陰湿だねぇ」
〈継承の儀〉で何が起こるか、彼女は何をすべきなのか、ファニーが事前に教えてくれたおかげで、儀式を無事に終えることができたのだ。
「実は、僕も知識として知っているだけで、見たことはないんだよね。よかったら、どんなものだったか教えてよ」
ファニーの求めにうなずき、リアナは簡単に振りかえった。
♢♦♢
しばらく待ったような気がしたが、実際にはほんの数分のことかもしれない。ふいに、衣擦れのようなぱさっという音がした。振り向く間もなく、ぱさっ、ぱさっ、と音は増え、あっという間に部屋を満たすほど重なり合った。
(羽ばたきだ)リアナは思った。(なんの――)
それは一瞬にしてあらわれた。色の洪水が目の前に迫ってくる。思わず目を閉じ、あわててまた開く。
(――蝶!?)
赤、黄、黒に青の縞、金と紫――
現実にはありえないほど鮮やかな色をした蝶の群れが、風のようにリアナを襲った。
害はないのか、と思った瞬間、ちくりと刺すような感覚があった。「何――」
一匹の蝶が手の甲に止まり、口吻を刺していた。払いのけようとしたときにはすでに飛びたっている。
石の台のうえにひらりと降り立つ。
一度、二度、ゆっくりと羽ばたく。緑青の色だ。
羽ばたきをやめると、乾いた土のように、ぼろりと崩れ落ちる。
石の台の上に、光る虫のようなものがいくつも這っている。
視界が暗転した。
「どう――」
一瞬、自分の目が見えなくなったのかと思った。だが、目を閉じるよりも暗い。真昼から急に夜になったかのような、現実世界にはあり得ない暗さに包まれる。完全な闇ではないことがわかったのは、石の台のうえの虫が光り続けているからだった。細長くくねった記号のような、青白く光る虫。
固く張った弓のような、ピン、という音がいくつか漏れ、それを合図にしたかのように、今度は部屋全体がうねった虫に包まれた。
(虫――いや、ちがう?)
上から下へ、滝のように流れ落ちているのは虫ではない――文字だ。リアナの見たことのない、記号のような謎の文字。見たこともない、明るい緑色に燃える文字が、はげしい雨のように流れ落ちていく。
(もっとよく見て――)
近寄ろうとしたところで、始まったときと同じく唐突に、文字の雨は止んだ。
そして、見知らぬ呪文のようなささめきが聞こえたかと思うと、門は突然開いた。
♢♦♢
「……で、目の前の壁が左右に割れて、その奥の廟が見えたの」
「門のなかに?」
「うーん、門とは違うかな。背が低い、黒い石が切り株みたいに並んでて。夜光るキノコみたいにぼんやり光っててね」
「ふーん……」
少年は華奢なあごに手をやって、なにやら考え込んでいる。「興味深い」
話がひと段落すると、ファニーは二人と一匹を、史料棚の合間にある細い階段へと誘った。高いところにある史料を取るための梯子のように見えたが、昇ってみると中二階があり、清掃用の道具入れや、史料の補修用の布切れなどがきれいに整理されて置かれていた。言ってみれば物置きだ。小柄なリアナとファニーにはちょうどいい秘密基地のようなサイズだが、成人男性の体格であるフィルは頭がつかえそうになっている。
「下働きをしていると、休憩するのにちょうどいい場所には目ざとくなってね。ここはちょっとした個人授業にはぴったりの場所だと思うよ。必要な資料はすぐに下から持ってこられるし」言いながら、古布を置いて椅子のように見せかけている木箱の蓋をあけた。「お菓子もため込んであるし」
中をのぞいたリアナは笑った。
二人はお菓子を食べながら、ファニーが「授業」の準備をするのを手伝った。フィルはさりげなく毒見をして、「これ、おいしいですよ」と言ってリアナに渡した。
「正直に言うと、君が来るんじゃないかって期待してた」
「そうなの?」
「うん。ヤズディン師は優秀だけど、専門は史学だからねぇ。今きみが必要としてる内容とは、ちょっとずれるよね」
「そんなことがわかるの?」
「ふむ。必要なのは……」少年は指折り数える。
「王権について、それに王と諸侯の役割について、先の戦争について、南北格差について、〈ハートレス〉のこと、竜のこと……こんなところかな?」
「驚いたわ。そこまでわかるんだ」
「これも知恵のひとつだよ。君の態度をよく観察していればわかる」
ファニーはふくみ笑いで答えた。「楽しそうだけど、ずいぶん長い個人授業になりそうだ」
それから、彼は部屋の片隅に丸めて立ててあった大判の紙を広げた。
「個人授業に必須のものといえば、地図でしょう。今日はまず地図を作ろう」
フィルが教本を持ち、リアナがお手本を数倍に拡大する形で、大陸や山脈、川を描き込んでいく。
「オンブリアの地形ってレース編みみたい、描くの大変だね」
「そうだね、そのレース編みの穴になった部分は湖や川だ。オンブリアのとくに北部は寒冷湿潤な気候、主たる作物は小麦だけど、南部に比べると育ちにくい。……南部は温暖で、川沿いではどんな作物もよく育つけど、南端から東部を人間の国ふたつと接している。国の名前は?」
「アエディクラとイーゼンテルレ」
「そう。イーゼンテルレのほうが小さいね? こちらは公国で、宗主国はアエディクラになる。もともとは、ケイエのあたりまでがイティージエンという巨大な人間の帝国だったんだよ。先の大戦で竜王エリサ、つまり君の母上が帝国を打ち破り、国は分割されてオンブリアに吸収されたり、それぞれ小さな王国になった……次はそれぞれの首都と王城を描き込んでいくよ」
ファニーの教え方はわかりやすく、質問を挟んでの小一時間ほどがあっという間に過ぎた。もっとも、ヤズディンの教え方が悪いというのも失礼だろう。辺境の里で育ったリアナには、王国に関する基礎的な知識すら抜け落ちている。まずはそこを埋めるのが先だった。
ひと通りの講義が済むと、リアナはおそるおそる、気になっていたことを切りだした。
「その……これは、まだ仮定の話なんだけど」
「ケイエが急襲される恐れがあるとして、竜騎手たちと軍とを動かすなら、どうしたらいい? わたしみたいな新人の王太子が五公たちを説得するのに、なにが必要なのかな」
「ふむ」
「君もよく知っているように、
ファニーは地図の下部を指さした。
「王の交代での
「なるほど」それで、あの不機嫌はうなずける。
「北部はどことも国境を接していないし、東部はデイミオン卿のエクハリトス家ががっちりと押さえている。竜騎手たちを動かしたくないとしたら、西部のエンガス卿だろうね」
「エンガス卿……」
「きみが彼らの信頼を得て、エンガス卿を動かす材料に使えて、おまけに限られた日数でも用意できそうなもの……」
「親書かな」ファニーはぱちんと指をならした。
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