4-5. 良いことと悪いこと

 薄い闇のなかで、少女のすすり泣く声が小さく響いている。


「……うっ……うぇっ……」

 見張り用の小さなオイルランプに照らされて、あざだらけになった男の姿と、その胸に取りすがっている少女の姿が浮かび上がる。一人の見張りを残して、男たちの姿はとうになく、手当て用の布と水、質素な固パンのみが残されていた。リアナはかろうじてデイミオンの手当てを終えようとしていたが、にじみ出た血を濡れた布で拭いながら、ついにこらえきれなくなって泣きだしてしまったのだった。大きな目に水が盛りあがって、とどめる間もなく落ちるさまは、まるきり子どものようだ。


〔泣くな〕

 しばらく経つと、デイミオンが言った。手を触れたまま、リアナが返す。

〔だ、だって、デイミオン……〕

〔落ち着け〕

 リアナはどうにか、しゃくりあげるのをこらえようとした。

〔うん……〕

 

 悪いほうに目を向ければ、とらえられて丸二日が経とうとしていたが、助けが来る気配がない。

 良いほうに目を向けるなら、リアナはついに、完璧な念話ができるようになった。ここまでくれば、ほぼ〈呼ばい〉も習得したと言ってよい。


 デイミオンは淡々とそう分析した。空腹と貧血でやや頭の動きが鈍ってはいたが、リアナほど悲観的になっているわけでもない。すすり泣いている小さな頭のつむじに向かって語りかける。

〔いいか? あいつらは野盗じゃない。プロの誘拐屋でもない。おそらく、ケイエを拠点にする単なるケチなゴロツキたちだ〕

〔……どうしてわかるの?〕

 青年は嘆息した。

〔街道沿いでもないこんな痩せた平原で、そもそも野盗など成り立つものか。ここ二日の手際を見ても、本職の誘拐屋プロではない。おそらく、本業が別にあるはずだ……農民か、商人崩れかはしらんが〕


 国境に近く、これほど目立つ廃城で白昼堂々の犯罪行為を許すほど、ケイエの領主はボンクラではない。これまで摘発を逃れてきたのなら、その程度の小悪党なのだろう、とデイミオンは推測していた。そもそも、誘拐というのはリスクの高い犯罪だ。たまたま森に落ちていた貴族風の男女を見かけたからといって、急にくわだてて成功するような甘いものではないのだ。

 現に、デイミオンはこういった事態への対処として、以前から偽の身分をいくつか用意している。首領格の男に告げたのもそのうちのひとつで、メスメラン卿は実在するが嫡子はおらず、身代金を要求された時点で国境警備隊に通報することになっている。救援が来るまで三日とかかるまい。


 救援が間に合わなければ、どこかの時点ではったりと仕掛けがばれるかもしれないが……

〔いずれにせよ、金にならない殺しはしないだろう〕

 そう結論づけた。

〔殺しはって……〕

 リアナは一瞬絶句した。暴行の現場ではずいぶんショックを受けていたらしかった。

〔こんなにひどい目にあったのに〕

〔ひどい目? これよりひどい扱いなど、戦時中なら掃いて捨てるほどあった。あいつらは貴族を見て憂さばらしをしただけだ〕

 あるいは、貴族とライダーに復讐する義賊きどりとでも言うつもりか。そのあたりだろうと見当をつける。

〔憂さばらしって……でも、どうして? ……途中までうまくいってたのに〕

 リアナは青年を見あげた。目の端が赤く充血している。

〔子どもの話題を出したときに、顔つきが変わっただろう〕

〔……うん。そうだった〕

〔あれでわかった。あいつらはこのあたりの山岳部族の生き残りだ〕

〔生き残り……〕

〔そうだ。このあたりはまだ国境に近いだろう。先の大戦中に人間の国家イティージエンの襲撃を受けている。……こちらには古竜という武器があるが、人間は数で優っていてな。古竜があちらの軍を殲滅せんめつすると、報復として女たちの多くが連れ去られたんだ。当時、そういうことは珍しくなかった。……生きていれば、あの男たちの妻になっただろう〕

〔そんな……〕 

〔貴族嫌いも無理はない。私たちは国境は守ったが、民を守れなかったんだ〕

〔……。……女の人たちはどうなったの?……〕

 デイミオンは、ほとんどためらわずに答えた。

〔……連れ去られた女たちを探して、私たちは兵を派遣したが……

 多くは探す必要さえなかった。荒野を見て、煙が立ち上る場所に向かうと遺体が焼かれて積まれていた。レイプされてから殺されたか、殺されてから穢されたか……遺体はもはや判別もつかないほど損傷されていた。村の男たちは死に物狂いで自分の妻や娘を探した。弔うことのできない男たちも大勢いた。気が狂うこともできないほど悲惨な戦場だった〕

 リアナは、今度こそ声を失った。つい数日前に、自分の故郷を焼き払われたばかりの少女だ。こんなことは、聞かせるべきではないのかもしれない。

 ――フィルバートなら、おそらくは聞かせないだろうな。

 そう思う。

 それでも、彼女は自分よりも早く王冠に選ばれた者なのだ。知らなくてもいいとは、デイミオンは思わなかった。

怖気おじけづいたか?……おまえが治めるはずの国にはそういう歴史がある。

 戦争が終わって十八年経つ。人間たちの多くは代替わりして痛みも薄れようが、竜族にとってはいまだ生々しい昨日の傷だ。

 いや……人間とて、親世代の虐殺を忘れてはいまい。

 もし王になれば、あの男たちのような憎しみを、おまえも向けられることになる。おまえに耐えられるか?〕

〔わからない〕リアナは弱々しく首を振った。

〔わたしは王にはならないもの。……覚悟が必要なのは、あなたじゃないの?〕

〔そうだな〕デイミオンはうなずいた。

 もちろん、いつでもそうだった。覚悟も、その能力もあるつもりだ。

 彼には一人、目標とする王がいた。竜のまう国を守るためなら、人間の国ひとつを滅ぼし尽くし、〈魔王〉〈虐殺王〉と呼ばれることもいとわなかった王だ。その王とリアナの関係については、まだ彼女に打ちあける気が持てなかった。


〔わたし……〕

 しばらくすると、リアナが呟いた。

〔あなたがわたしを子ども扱いするのが、すごく腹立たしかったけど……でも、それも仕方なかったのね。村を焼かれて、大切な人を奪われたのは、わたしだけじゃなかった。それに、あなたは重荷を背負ってる〕

 デイミオンは黙ったまま、〈ばい〉が彼女の思考を流れ込ませるのにまかせた。

 悲しみと混乱の色が強いが、そのさなかでも、盗賊たちや連れ去られた女性のことに思いをせているのがわかった。身体が触れあうほど近くにいると、〈ばい〉の絆はほとんどお互いの思考を区別できないほど緊密だ。それはぞっとしそうな考えに思えたが、今この瞬間は不思議とそうは感じなかった。むしろ、穏やかで安らいでいるといっていいくらいだった。

〔……今はやめよう〕


 二人は黙ったままでいる。


 石造りの廃城に、騒がしい男たちの声や、高い足音が響くのが聞こえる。

 デイミオンは壁の外に耳を澄ませていた。何かが起きようとする、その一瞬を逃さないように集中していた。彼の肩口に顔をうずめているリアナにも、その緊張感が伝わっているらしい。戦禍の話をしたときには混乱が見えたが、今は落ちついていて、ときおり、まばたきのせいで彼女のまつげが首筋に触れるので、くすぐったかった。


〔あんな嘘をつくなんて〕

 ふいに、そんなことを言う。昼間の駆け落ちのくだりを咎めているらしい。

〔文句を言うな。女衒ぜげんに売り飛ばされたほうが良かったのか?〕

〔そうじゃないけど〕

〔ならば黙って話を合わせることだな〕


 憎たらしいほど落ち着いている目の前の男が、つい先ほどまで「我が身より大切な妻子だ」などと訴えていたとは、とうてい思えない。リアナとしてはそう思って咎めたようだったが、デイミオンは嘘を言ったというほどの意識もなく、淡々としている。

 この地には、戦時下でとはいえ滞在したことがある。常のようにふてぶてしい態度を取っていてはすぐに有名な〈黒竜大公〉だと知られただろう。そのリスクを避けるため、世間知らずの高慢な青年貴族を演じることなど、彼にとってはなんでもないことだった。あの盗賊の口ぶりから彼の人となりと弱点を推測し、駆け落ちの話で油断させたのも、あえて子どもの話を振って怒らせたのも、計算の内だ。

(だが、あの虐殺の話をするのは、今でも胸が痛む)

 竜族の青年期は長い。

 策略で使うことに抵抗を覚えるほど若いわけではないが、痛みを忘れるほど老成しているわけでもない。とはいえ、ああやって自分に暴力をふるった賊が怖気づいて、リアナに手が出せなくなることもだいたい想像どおりだった。その点では後悔していない。


〔ほんとのところはどうなの?〕

 もの思いに沈んでいると、腕の中からそう問われる。

〔なにがだ〕

〔ほんとは結婚してるの?〕

 なんだか面食らってしまって、デイミオンはすぐには答えられなかった。

〔……いや〕

〔そう〕

 なぜだ? と問おうとしたが、リアナはそっと目を閉じて、押し黙った。しばらくすると、〔助けてくれて、ありがとう〕と呟いた。

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