2-5. 悲しい別れ
「リアナ……!」
ここで悲鳴を上げられては危ない。フィルは少女の肩を抱いて耳元で囁いた。「リアナ、落ちついて……!」
が、震えも悲鳴も止まなかった。
残兵がいれば気づかれる。非常事態だ、やむを得ないとフィルは手刀をかまえた。少女の首筋に打ち下ろそうとしたその瞬間、空が暗くかげった。
風を切る大きな羽ばたき、空がかげって暗く見えるほどの巨体。動く城のような黒竜がまず着地し、そこからひとりの男が飛び降りた。竜の乗り手にふさわしい堂々たる
「デイミオン」
「フィルバート」
男たちはそれぞれの名前を呼び、しばし絶句する。惨状を前に言葉もないのは、戦場に慣れているはずのふたりにしてもおなじだった。デイミオンと呼ばれた黒竜の主人に、わずかに緊張が走ったように見えた。
「なぜおまえがここにいる?」
ふたりの男は間近に
「別ルートだよ。目的はおなじだろう? おれのほうが近かった。それだけだ」
「信用できんな。〈血の
フィルはうなずき、報告する。
「早朝から昼にかけて襲われた。服装や武器はバラバラで山賊風だったけど、妙に統率が取れていた。古竜の支援もあったように見えるのが気になる」
「おまえがタイミングよくここに現れたことのほうが、私は気になるがな。……半年も行方知れずになっておいて、今さらどういうわけだ? なぜ継承者の居場所がわかったんだ?」
「単独行動は謝るよ。あとでちゃんと報告書も出すから。……それより、あとで本隊が来るかもしれない。すぐに、アーダルで出られるか?」
「ああ」
「デーグルモールたちと出くわしたが、半分ほど撃墜して残りは敗走した。ここから引き上げる最中だったかもしれない」そう言って首を振る。「もうすこし早く駆けつけられればな」
「デーグルモール……じゃあ、古竜はそっちの支援だったのか」
「おそらくな」
ライダーも納得したようにうなずいた。
「それより、いま確認してほしいんだけど」
肩を抱いたままの少女をそっと男に見せて問う。「……継承者は、彼女か?」
相変わらず目の焦点は合っていないが、悲鳴は止んでいた。黒竜の登場に驚いたのが功を奏したらしかった。
「ああ、間違いない」リアナを見つめ、
「王が崩御なされてから一日、〈血の
「彼女は、昨晩から『引っぱられる感じ』がなくなった、と」
「王が死ねば継承権が移る。私は彼女の次の〈継承者〉だ。……つまり」
残酷なほど晴れた空の下、
「彼女が、オンブリアの次の王だ」
ひとつ分の呼吸を置き、にやりと笑う。「そして、彼女がいなければ、私が王となる」
しばらく、呆然としていたらしい。気づくと、青年の腕のなかに抱えられていた。
「……リアナ」
呼びかけるフィルの瞳には、気づかわしげな色が浮かんでいる。
「今はとてもそんな気分になれないことはわかってるけれど、すぐに出発しなきゃいけないんだ」
「……出発……って、どこへ?」
のろのろと尋ねた。「ここは、わたしの村なのに」
「ここは危険な場所なんだ。もっとたくさんの兵士がすぐにやってくるかもしれない」
恐ろしい言葉に、思わず肩が震える。
「でも、どうして? あの人たち、どうしてわたしの村を襲ったの?」
「……今はわからない」フィルは首を振る。「推測なら、いくつか。それはおいおい話すよ。でも、今は急ごう」
肩に置かれた手は力強く、温かい。きっと彼は信用できる。
いや、信用してしまえ、と心が言っている。
だってもしフィルが、この優しい青年が信じられないとしたら、
(わたしはこれをひとりで受けとめないといけなくなる)
それがあまりにも恐ろしくて、どうしても顔を上げられない。胸のなかが嵐のようだ。どうせなら有無を言わさず連れさってくれればよかったのに。
「わたし……わたし、行けない」
結局、小さな声でそう言った。
「リアナ……」
「だって、イニが帰ってくるかもしれない。今日はわたしの成人の儀だから、もしかしたら……」
フィルの呼びかけに被せるように言う。「養父が、今日戻ってくるかもしれないの。何があったか知らないはずだから、危ないってことを知らせなきゃ。……それに、飛竜乗りたちだってきっと戻ってくるもの」
フィルはもう一度首を振った。
「たとえあなたの大切な人でも、今は待っていられないんです。この村の惨状は、ひとりふたりの兵士でできることじゃない。組織だった犯罪です。何が目当てだったにせよ、もう一度おなじことが起こったら、おれと彼だけではあなたを守れない。……生き残った人を探して守る仕事は、フロンテラの領兵にまかせるしかない」
そして、背をかがめて目を合わせて言った。「おれを信じて、一緒に来て」
が、リアナはとまどいがちに首を振った。
「助けてくれたことは、すごく感謝してます……でも、村の人が誰かひとりでも残ってるなら、これからのことはその人と決めたいの。あなたたちとじゃなくて」
それまで、ふたりの会話をすこし離れた場所で聞いていた青年が、急に聞いた。
「この村に、リアという名前の女性はいたか」
石造りの壁に寄りかかって腕を組んで、落ちついた低い声でそう尋ねる。ふいのことで、リアナは驚いてすぐには答えられなかった。巨大な黒竜とともに現れた、いかめしい長衣に包まれたこの青年に、まったく意識を向けていなかったからだ。
「リアなら……そう呼ばれてるのは、今はわたしだけです」
慎重に、そう答える。
青年はゆるりと腕組みを解き、ふたりに向かって歩み寄ってきた。フィルは村の男たちよりいくらか背が高かったが、男はさらにそれより拳ひとつ分ほどは長身だった。里では見たことがない黒髪。紺色の
男は名乗りもせず、しげしげとリアナを見たあと、何かを手渡した。思わず差し出したリアナの手のひらに、ささやかな重さが加わった。
「……若い飛竜乗りの死を看取った。そいつの持ち物だ」
その目が吸い寄せられるように、手のひらから離せない。リアナの鼓動が速くなった。
「そいつが最後に呼んだ女が生きていれば、渡してやろうと思って持ってきた。……おまえの名だ」
革ひもと鉱石で作られたペンダント、その持ち主をリアナはもちろん知っていた。
「……セイン……?」
もはや悲鳴は出なかった。足もとから世界が崩れ落ちていくようだった。ついに意識が途切れた瞬間、誰かに受けとめられたことすら気がつかなかった。
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